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【12】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年6~7月、東十条・東京シューレ】

※初めて来られた方はこちらを読んでください

クラスメイト集結の事件から、ひと月ほど経ったころ、僕は市の教育相談所のほかに、もう一つ母に連れられてある施設を訪れていた。

その施設は僕の住む市内にはなく、電車に乗って移動することになった。夏休みや課外授業・遠足でもない平日に、午前中の電車に乗ることなど、当時の僕にはほとんどなかった。

一度、不登校になる前の夏休みの時期だったか、父が仕事に必要な物を忘れたことがあって、母も用事があったためその忘れ物を届けに一人で電車に乗って、父の会社の最寄り駅まで行ったことがあるが、それ以来のことだ。
あの時は駅で待っていた父に書類か何かを渡したあと、今のようにセキュリティが厳しいわけではないので、「○○さんのとこの息子」として父の職場に入ってきて、「へー、何年生にしてはおっきいんですねー」とか父の同僚に顔見せをさせられた。お昼に父が行きつけのとんかつ屋でおいしいとんかつを食べて、自宅まで1人で帰った。

「はじめてのおつかい」みたいな話を思い出してしまった。残念ながらその思い出はぼくの記憶の中でしか残っていない。変装したカメラマンは僕のまわりにいなかったようだ。

楽しかった記憶だが、この日の電車は母も一緒だし、あまり乗り気ではなかった。どんな場所なのかなどは何となく聞かされたような気がする。
電車に乗ってどれくらいだっただろうか。最寄り駅に着き、駅から数分歩いたところにそれはあった。

「東京シューレ」。


小学校教諭だった奥地圭子さんが、息子の不登校を機に設立したフリースクールである。現在は複数の拠点があり、公認の小中学校もある。さらに高校卒業認定資格を得られるフリースクールを設立している。当時は東十条に1つだけだった。

不登校に対する考え方、当人や保護者へのフォローについて、もっとも初期に創設されたフリースクールだった。ホームページを見る限り、現在も不登校に寄り添う姿勢は変わらない。ましてや、フリースクールなんて言葉もなかった頃である。

設立が1985年だから、開設してすぐの時だ。

母は、確かNHKの「おはようジャーナル」でこの存在を知ったといままで思っていたが、アーカイブの日付を見るとそれより前に知っていたのかもしれない。

おはようジャーナルは、月曜から金曜の朝8時半、朝ドラ終了後に放送されていた情報番組で、料理・生活などの情報から、当時の風俗(エロもやってたかもですが、世相とかに近い意味です)、社会問題まで毎日さまざまなテーマの話題を取り上げていた。いまのクローズアップ現代とあさイチを合わせたような番組といえばいいだろうか。

まだ不登校という言葉がほぼマスコミには出なかったころで、登校拒否という言葉が優先されることに時代を感じさせる。

話を元に戻そう。

ともあれ、僕は母とシューレの中に入った。不登校の子が通うところ、みたいなことは言われていたかもしれない。同年代の子やお兄ちゃんお姉ちゃんみたいな人がいたが、話しかけられたんだっけか。1人でいたような。

母は奥地さんと話をしていたようだ。
実は、シューレの記憶はほとんどない。結果として僕はシューレに通う選択をしなかったからだ。

通わなかった理由は、まだ学校に行けない自分を責めている状況で、電車に乗ってまで学校以外のところに行くことに抵抗がおそらくあったこと、電車で行くことがまだつらかったこと、そして不登校になったことを、みんなの前で自分の言葉にできるようになっていなかったからだと思う。
それができていたら、シューレの授業やディスカッションに入ることができて、通うという選択肢があったかもしれない。まだ東京シューレが始まったばかりのフリースクールだったこともあるだろう。

なので、シューレのことを知りたい方は上記リンクから見ていただきたい。

それから、友達作りが苦手だったこともある。いまでも苦手だ。最初のコンタクトで、自分からお誘いをすることがとにかくどこか恥ずかしい。友達作りも、なんとなくから始まる。友人関係を作りたくて、こちらから積極的に話しかけることはいままでの人生でほとんどなかった。

なので間隔が空いてしまうと、気恥ずかしさからなかなかコンタクトが取れない。このnoteを書いていて思うことは、いまでも変わらない部分の再認識もあるようだ。

とにかく、3回目くらいでシューレには行かなくなり、母だけがディスカッションに参加していた。

母はここに参加することで、息子が行かないという選択を支持するようになっていく。そして、もうひとつのところで、母にも僕にとっても、後ろ盾になるような言葉をある人からもらうのだった。

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