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その名はカフカ Modulace 5

その名はカフカ Modulace 4


2014年10月プラハ

 レンカが事務所に来たらすぐに話し合いを始められるようにと、エミルは普段の持ち場である受付ではなく、来客のない時は会議室として使われている応接室で仕事をしながら待つことにした。特別何もなければレニはもうすぐ出勤するんじゃないかな、と思いながら時間を確かめると、午前九時五分前だった。レンカの出勤時刻は常に不規則だ。エミルよりも早く来ていることもあれば、午後になってやっと現れることもある。しかし二人とも何となく相手の来る時間帯は常に感じていて、その上レンカのほうが勘がいいので、時間を確かめながらもエミルは「レニは僕が待ち構えているのが分かっているのではないのかな」と思った。そして、手の中の一枚のプラスチック製のカードに目を落とした。
 それはつい一ヶ月ほど前まで「アガータ」と名乗っていた女性の所有していた身分証明書の偽造品で、”証拠品として”迷いもなく回収してしまった物だったが、エミルはその後何度か「これって僕が盗ったってことになるのかな?」と思うことがあった。彼女がベルトに装着していたナイフも然りだ。もちろんあの状況での襲撃者の武装解除は必須だ。しかし、そのようなことはサシャとティーナから遣わされた武装部隊に任せておけばよかったものを、エミルは当然のことのようにそのナイフを持って帰ってきてしまった。後になって、手元に残ったそのナイフを見て途方に暮れた。
 ビュクでナイフを手にしてそのナイフの製造元を確認した瞬間は彼女が「殺し屋である」という事実を突きつけられた直後で、思わず「犠牲者から盗ったのだろうか」と勘繰ってしまったが、こんな仕事をしていなくても、こういったものを手に入れる手段は他にいくらでも考えられる。例えば前の彼氏がチェコ軍の空挺兵だった、とかね、と発想した瞬間にエミルはまた気分が沈んでいくのを感じた。
 武装部隊に任せてしまう前に聞かせてもらった彼女の本当の名前を、エミルはその後何度も頭の中で繰り返してみたが、何だかしっくりこない、という感想しか浮かばなかった。呼び慣れればいいのだろうけど、そんな機会は自分には巡って来ない、と思いながらエミルが偽物の身分証明書から目を上げると同時に、事務所の入口が開錠される音がした。
 レンカは迷うことなく応接室に顔を出すと
「おはよう、エミル。すぐ来るわ」
と言って事務室のほうへ向かった。エミルは立ち上がるとレンカの背中に向かって
「おはようございます、レニ。そんな急ぐわけじゃないので。お茶もいい感じに冷めるにはまだ時間がかかります」
と投げかけた。実際、エミルがレンカのために淹れておいたハーブティーも自分のために淹れたコーヒーも湯気を立てている。
 レンカは事務室に荷物を置いて、きっと必要になるであろう紙類やノートパソコンなどを抱えて足早に応接室に戻ってくると、エミルの向かい側の席に座った。
 エミルはレンカを見て「僕が何の話を始めるのか待ちきれない感じだな」と思いながら
「昨日のジョフィとのお茶会、どうでした?」
と話しかけた。レンカはすぐに悪戯っぽい笑みを浮かべて
「楽しかったわよ。ジョフィエは何も言ってなかった?」
と聞き返した。
「ジョフィも昨晩は嬉しそうにしてましたけど。あの子、ちゃんと謝りました?」
「いいえ。私が謝らせなかったの」
「なんでまた。お茶会を開いた意味がないじゃないですか」
「謝罪なんかしてもらうより、もっと実り多きお茶会だったわ。……で、あなたの用意してくれている本題は何なのかしら」
 エミルは小さなため息をついてから
「レニにどれだけ興味を持ってもらえる話か分かりませんけど」
と話し始めた。レンカは黙ってエミルを見ている。エミルは先ほどから左手の掌に乗せていた身分証明書の偽造品を親指と人差し指で挟んで持ち直すと、レンカのほうに向けた。
「これ、ちょっと信じ難いくらいのクオリティと機能を持ってます」
「確かに本物そっくりよね」
「見た目もすごいですけど、それだけじゃないんです」
 外観だけの模造品なら、裏社会にこのくらいの技術を持つ偽造業者がいてもおかしくはない。エミルの頭に浮かんだのは「今の時代、それだけでは売りにならないのではないか。このカードにはもっと何かが隠されているのではないか」という疑惑のようなものだった。殺し屋の稼ぎというのは通常、法外な金額だという。そういった裏社会の高給取りのためにサービスで作ったと言うのだから、偽造の中でも最高級のものなのではないか。そう思ったエミルは、外観だけでなく何か内部に秘めていないかと詳しく分析してみることにした。
「その分析にしても、ジョフィの助けを借りるのが一番手っ取り早かったんでしょうけど、さすがにあの子にこんなものを見せるわけにはいかなくて……」
「そうね、そういったものが存在するっていう現実は、まだ知らないほうがいいわよね」
「ん、と言うか、顔写真付きだし……」
 エミルはレンカの表情が僅かに引きつったのを見逃さなかったが、話を続けた。
「それで一人でやって、時間がかかったわけですが、結果として言えるのは、この偽造品、EU圏外との国境なんかで使われている読み取り機も、通っちゃうかもしれないんです」
「それってつまり、そのカードに機械を騙せてしまう機能が入ってるってこと?」
「簡単に言うと、このカードで読み取り機をハッキングしちゃう感じです。たぶんそういう場合は身分証明書自体は使い捨てなんでしょうね。一回そうやって機械を騙してしまうと、さすがに二回目は怖くて使えないでしょう」
 レンカは考え込むような顔をして暫く黙って、また口を開いた。
「私たちは今のところそういった偽造業者に頼る必要もなかったから確かなことは言えないけど、そういういわゆる”高級品”を製造するところって、お客さんを選ぶと思うの。この偽造品の注文主は……その、所有者ではなくて、イリヤ・ドリャンだったわけよね」
「ドリャン氏は、そういった業者のお眼鏡にかなわない、と?」
「別に、そこまで言いたいわけじゃないけど」
 そう言ってレンカはまた黙り込んだ。エミルは「別にこれを見つめながら話を続けなくてもいいか」と思い、身分証明書の偽造品をカード用の磁気遮断ケースにしまった。レンカはそのエミルの丁寧な手の動きをぼんやり目で追っていたが、エミルがカードをしまい終えるとエミルの顔のほうへ目を上げた。そのレンカの目の動きに当然気が付いていたエミルは
「……証拠の電子情報が飛んじゃうのは避けたいと思って、それだけなんですけど」
と言い、それからすぐに「僕はこれを特別大切にしているわけじゃないんですって、意地を張っているように聞こえちゃったかな」と思った。
 レンカはエミルの目をじっと見つめたまま
「私も、強くなったものだわ」
と言った。
「何の話ですか」
「前は私、エミルの目をこんなにしっかり見られなかったもの」
「そんなことないですよ。レニが僕から目を逸らすのは、僕に心の中を読み取られたくない時だけでしょ。以前も僕から何かを引き出そうとする時は熱心に僕のこと見てましたよ」
「あら、そう」
 レンカはそう答えても、エミルから目を離さなかった。
「僕は、大丈夫です。ご心配を……おかけしました」
「無理、してないのね?」
「してません」
 エミルの返事にレンカが微笑んだのと、事務所の入口が開いた音がしたのはほぼ同時だった。アダムは自分の登場をわざと知らせるかのように足音を立てて応接室に近づき、開け放したままだったドアから顔を覗かせると
「戻ったぞ」
と言った。
 応接室のドアと向かい合うように座っていたエミルは顔を上げ
「お帰りなさい、アダムさん」
と答え、ドアに背を向けるように座っていたレンカは顔だけアダムのほうへ回すと
「お帰り」
と言って、またエミルのほうへ向き直った。アダムは頭を引っ込めると、そのまま事務所の奥へ進んだ。
 エミルはレンカの顔を観察しながら
「レニ、アダムさんが、帰ってきましたよ?」
と言ってみた。
「私がそれを理解しなかったとでも思ってるの?お帰りって言ったの、聞いてなかった?」
「なんか冷たくないですか?アダムさん、一週間くらい出張されてたんですよね?」
「一週間会えないことなんて、よくあるじゃない」
 そう答えると、レンカは少し眉を寄せて、また言葉を続けた。
「アダム、私が家の外であからさまな態度を取るのが嫌みたいだから頑張って我慢してるのよ」
「家の外って、事務所も家とほとんど変わらないじゃないですか、僕がいるだけで。アダムさん今、一瞬だけ寂しそうな顔しましたけど。一週間会えなかっただけじゃなくて、他に何かあったのかも」
 エミルがそう言うと、レンカは急に慌てた顔になって
「そう?そうなの?ちょっといいかしら、すぐ戻るわ」
と返して、アダムの消えたキッチンのほうへ小走りに駆けていった。
 この六月までのレニからは想像もつかない変化だ、とエミルは顔がにやけるのを抑えられなかった。しかし、アダムに対する態度は別にするとしても、六月から続いていたレンカの不安定な感情の露呈は最近落ち着いてきた気がする。それは以前のレンカに戻ったというのではなく、レンカの更に変化した状態を見ているような気がしていた。これは、六月にリエカでティーナが言っていた、「出会った頃はもっと違った雰囲気だった」というレンカが一度永い眠りに落ちて、そこからやっと目覚めて眠っている間に培ったものと合流して一つになるプロセスが今、完了したということなのかなと思いながら、エミルは手元の身分証明書の偽造品がしまわれたカードケースに目を落とした。それから同時に没収してきてしまった空挺部隊用のナイフを思い、そして、まるでいくつもの途中の段階を素っ飛ばしてしまった連想ゲームのように、レンカが大事に身に付けているライターのことを思い出した。
 エミルは、レンカが今でも常にそのライターをジャケットのポケットに入れていることを知っていた。あれはアダムさんとは関係なさそうだけど、何だか好奇心をくすぐられるなあ、と思いながらエミルはキッチンから聞こえてくるレンカの華やいだ声にまたニヤリとした。レンカもアダムも極力声量を落として話しているようだが、エミルの聴力は嫌でもその声を拾ってしまう。きっとそんなことは二人にも分かっていて、だから僕の話はしていないのだね、と思った瞬間、エミルは思わず手元のカードケースから目を逸らした。


その名はカフカ Modulace 6へ続く


『Kdo jsi? Odkud jsi… a kde jsi?』 21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆



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