その名はカフカ Modulace 7
2014年11月マリボル
もう十一月とは言え昨日まではまだ大して冷え込んできている気はしていなかったが、朝降った雨の影響か、この日は一日を通して気温が低かった。雨が降ったのは明け方くらいまでだったが、空は午後になっても曇っている。スラーフコ自身はこんな天候はあまり好きではなかったが、やっと再就職が決まった安心感を胸に抱いている今は、どんな空模様でも「晴天」と言い表してしまいそうだった。
ドラヴァ川のほとりで、帰宅する前に朗報をマーヤに電話で知らせようか、それともやっぱり顔を見て言ったほうがいいかと迷い、しばし立ち止まった。
六月にイリヤ・ドリャンを裏切る、という形でイリヤの組織を後にするまでは良かったが、その後の身の振り方に関しては、スラーフコにも、スラーフコに付いて来ることにしたヴクにも、何のアイデアもなかった。ヴクを味方に付ける、というのはスラーフコにとって賭けのようなものだったが、普段ろくに口も利かず、何か言ったとしても何を言っているのか分からないほど小さな声で話すヴクに話しかける組織内の人間は少なく、そんなヴクに毎日根気よく挨拶をしていたスラーフコは知らぬうちにヴクの厚い信頼を勝ち取っていたようだった。そして物言わぬヴクも、イリヤの横柄な人柄と粗雑な人使いに耐えられなくなってきているのは明らかだった。スラーフコとヴクは親子でもおかしくないほど年が離れている。その上自分が誘ってイリヤを裏切らせたのだから、やはり自分がしっかり次を考えてやらねば、と思ったものの、スラーフコには頼るべきつてもコネも皆無だった。そこで結局、この裏切りに一枚噛んでいるイリヤの元秘書のマーヤのところに二人で転がり込むことになった。
マーヤはスロヴェニア第二の都市マリボルの出身で、六月に任務地のグラーツでイリヤの敵対者と思われる集団に襲われ、その後イリヤの元には戻らずマリボルに身を隠した。マーヤと共にグラーツへ向かったイリヤの側近も組織には戻らなかったそうだが、すぐに見つけ出され、イリヤに半殺しにされたと風の噂で聞いていた。「馬鹿にされたものよね、私なんて何の警戒もされてないんだから。結局何の追っ手も寄こさなかったわ」とマーヤはスラーフコに笑って見せた。
マーヤだけでなく、スラーフコにもヴクにも何の報復も用意されていないようだった。それだけドリャンは他のことに気を取られているということなのだろう、と思ったスラーフコの頭に同時に浮かんだのはナスチャのことだった。イリヤの性格からしてあの後一番復讐の対象になり得るのはナスチャだろう、と心配になったが、すぐにナスチャと一緒にいたガタイのいい中年男を思い出し、きっと大丈夫なんだろうな、と思った。
このままこの川辺で考え事をしていても体が冷えるだけだ、さっさと帰ってマーヤに良いニュースを聞かせて安心してもらおう、とスラーフコは六月から居候しているマーヤのマンションへ向かって歩き出した。
マーヤはマリボルに祖父母から譲り受けたという大きなマンションを持っていて、イリヤの組織から逃げた後、そのマンションに一人で暮らしていた。犯罪組織で働いていた頃の元同僚が二人、しかも万年下っ端だった中年男とボディガードをしていた図体ばかりがでかい年下の男が雁首揃えて「かくまってくれ」と姿を現した時はマーヤもさすがに驚いた顔をしたが、すぐに「それならここに住めばいいわ。一人で生活するには大きすぎるの」と笑った。
玄関を開けると、キッチンのほうから料理をする音がした。夕食の支度は当番制で、この日はスラーフコの番だったが、自分は午後面接があったのでマーヤが気を利かせて代わってくれたのだろう、と思いながらスラーフコはキッチンに顔を出した。そこには案の定マーヤが鍋を抱えて立っていて、スラーフコのほうを振り返ると
「お帰りなさい。もしかして、採用されたの?」
と聞いた。
「ただいま。……私はそんなに嬉しそうな顔をしているのか?」
「嬉しそう、というより安心した顔をしているわ」
この数ヶ月、自分はそんなに神経質な顔つきをしていたのだろうか、と思いながらスラーフコはダイニングテーブルの側の椅子に腰を下ろした。
スラーフコとヴクがマーヤのところに住み着いた時には、マーヤは既に新しい仕事を始めていた。ヴクもその後すぐに元サッカー選手で現在は国内の長者番付でも上位二十位内に名前が登場する富豪だという人物のボディガードの仕事を見つけた。スラーフコだけが、この十一月まで無職のままだった。これではあまりに肩身が狭い、というのが顔にも態度にも出ていたのだろうな、と思う。マーヤは「そんなに焦らなくても、そのうち何か見つかるでしょう」と笑っていたし、ヴクも馬鹿にしたような態度は一切取らなかったが、それでも「自分の子供でもおかしくないくらい年の離れた元同僚の二人に養ってもらっている状態」は一刻も早く解消したかった。銀行に貯金はあったが、その金を下ろそうとしたところ「リュブリャーナの本店で本人認証が必要だ」と銀行側に言われ、「出向いたところでドリャンに取っ捕まる、というシナリオかもしれない」と不安になり、何もできないでいた。
マーヤは鍋を火にかけるとスラーフコに向かい合うように座って微笑んだ。
「スラさんなら熟年男性向けの通販カタログとかでモデルができそう、なんて思ってたけど」
「今更モデルとしてのキャリアを積み始めるのは遅いんじゃないのか」
「そんなことはないわ、年齢が上がって使い物にならなくなったモデルの代わりにスラさんみたいに四十過ぎても見目麗しい新人が求められるのよ。有名モデルになろうって言うんじゃないんだし、下着部門専属とかだったら、すぐに起用されたんじゃないかしら」
「その冗談は、あまり面白くないな」
「冗談のつもりで言ったんじゃないけど。でもやっぱり、顔を見せる仕事は避けておいたほうが賢明よね。今回のところに決まって良かったわ」
「ヴクはどうなんだろう。あんな有名人のボディガードなんて、メディアに顔が出てしまうこともあるんじゃないのか」
ヴク本人は何も言わないが、ヴクが怖れるべきはドリャンだけではないはずだ、とスラーフコは心配していた。一緒に逃亡を謀った際に嫌そうな顔をするヴクからやっと見せてもらった彼のパスポートで、スラーフコはヴクがまだ十八歳であることを知った。イリヤのところで働き始めた時には十六だったことになる。モンテネグロはまだEUには加盟していない。パスポートには学生ビザのようなものが2011年九月からの一年分張り付けてあったが、更新した様子はない。
スラーフコの言葉にマーヤも少し考えるような顔をしたが、
「ああいう有名人ってほとんどマフィアみたいなものだけど、そういうところって一体感も強いから。今のところヴクは大切にされてるみたいだし、大切にしている従業員の保護はしっかりしているのではないかしら。イリヤ・ドリャンに雇われているよりずっと安全だと思うわ」
と答えた。
「そうだな、ヴクに正式に就労ビザが発行される可能性もある」
「ヴクはあんな性格だけど、生きていく力はすごくあるのよ。何だかんだ言って、すぐ仕事を見つけちゃうし。……ごめんなさい、皮肉のつもりではないのよ」
そう謝ったマーヤを見つめながら、「今の台詞に瞬時に『皮肉のつもりか』と反応できるほどの瞬発力は私の脳にはない」とスラーフコは心の中でつぶやき、自嘲気味に笑った。外見負けしている自分とは対照的に、マーヤは外見も態度も言葉遣いも典型的な「何も考えていなさそうな、どこにでもいそうな若い女の子」という印象を与えるが、実際はそうとう賢い、とスラーフコは思う。マーヤ自身は意図したことではなかっただろうが、イリヤもマーヤの本質は見抜けず、結果イリヤはマーヤに騙されていた、と言えるかもしれない。
スラーフコの返事はなかったが、スラーフコが気分を害した様子もなかったので、マーヤは言葉を続けた。
「もしヴクが本当に就労ビザを申請するとしたら、ここから引っ越すことになるわね。さすがにここを現住所として提出してもらうわけにはいかないわ。それに、ヴクは一人で家を借りれるくらい、もう稼いでるし」
スラーフコは、再び返す言葉に詰まった。この三人の暮らしが永遠に続くわけがないことくらいは分かっていたつもりだったが、実際にそれが終わることを考えると、スラーフコは急に寂しく感じ始めた。
マーヤはスラーフコの表情を観察しながら
「でも、ヴクが出て行くからと言って、スラさんは出て行かなくていいのよ?」
と慎重に言葉を選ぶように言った。
マーヤの言葉にスラーフコは慌てて
「いや、それは、どうなんだろう。私だって仕事が始まれば自分の部屋を借りるくらいのことはできるようになる。マーヤに迷惑をかけ続けるわけにはいかない」
と答えた。
「全然迷惑じゃないって、最初から言ってるじゃない。ここは一人には広すぎるのよ。三人なら大丈夫で二人だと駄目な理由って何?」
「……即座にうまい返答が用意できるほどの頭が私にはないことくらい、君はよく分かっているだろう」
「うまい返答を期待しているんじゃないのよ」
そう言ってマーヤは笑い、それから真顔になって
「スラさんを一人にするのは、ちょっと心配なの」
と言った。スラーフコは今度も返事をしなかったが、マーヤが何を思ってそう言ったのかは分かっていた。
「イリヤ・ドリャンが失踪したって話が出てもう一ヶ月。彼の組織はもう存在しないも同然だけど、一人で姿をくらましたあの人が何もできないかっていうと、全然そんなことはない。昔は一人でサラエヴォで動いてた人なんでしょ?最近は平和ボケして人を顎で使うくらいしかしてなかったかもしれないけど、こんな環境に陥ったら、また昔の野生本能みたいな底力が目を覚まして盛り返して来る可能性は大きいんじゃないかしら。もしあの人がスラさんに復讐してやろうなんて画策したら……」
「ああ、分かる、ひとたまりもないな」
マーヤの言葉を遮るようにそう返すと、スラーフコは改めて自分の不甲斐なさを思った。普通、心配する立場が逆なんじゃないか、「君のことが心配だから守ってあげよう」というのはこの状況では自分が言うべき台詞なんじゃないのか。
マーヤは再び笑顔を見せると
「もちろん暴力で攻撃をされたら私だって何もできないけど、一人でいるよりも二人のほうが何かと安全だと思うの。ヴクだって、これからも私たちのことは気に掛けてくれるでしょうから、心配の種が分散しているより一ヶ所に固まってた方がいいんじゃないかしら」
と言って立ち上がり、料理の続きに取り掛かった。
スラーフコも「手を洗ってきて手伝うとしよう」と思いながら立ち上がり、キッチンを後にした。
イリヤが姿を消したとの情報が入ってから何度となく、ザグレブ行きのバスに乗ったのが確認された、ブレッド湖のほとりで国外のマフィアと談笑しているのが目撃された、などといった何の信憑性もない噂が流れてきていた。そういった情報をいち早く手に入れるのはいつもマーヤで、一時期スラーフコは「マーヤとヴクと三人で小さな犯罪組織を作ってもやっていけるのではないか」と半ば本気で思っていたが、そこでの自分の役割は何だろうと思った瞬間、そのアイデアは捨てることにした。
洗面台の蛇口をひねり、両手を水に晒しながらスラーフコはその洗面所の壁に取り付けてある大きな鏡で自分の顔を見つめた。ふと、変に卑屈にならずに若いうちにこの外見を利用した人生を選んでおけば、自分の頭では手に負えない複雑な問題を抱えることはなかったのかもしれない、という考えが浮かんだ。しかし失敗ばかりの人生に見えるここまでの道のりでも、掛け替えのない出会いというのはたくさんあり、実際今の自分は他の道を選んでいたらあり得なかったであろうマーヤとヴクとの生活を楽しんでいる。
だから、これでいいんだな、と心の中で独り言ち、スラーフコは両手に溜めた水に顔を浸した。
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