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その名はカフカ Inverze 1
その名はカフカ Prolog
その名はカフカ 第一部第一話
その名はカフカ 第二部第一話
その名はカフカ 第三部第一話
その名はカフカ 第四部第一話
その名はカフカ 第四部最終話
2015年1月スロヴェンスキー・クラス
こんな辺境の地にある食堂でも時々旅行者が立ち寄るのだから、時にはこんな客が現れることもあるのだろう、「殊更珍しがることはない」と店主の顔にも書いてある。そう心の中で独り言ち、それとはなしに店内に座る二人連れとその二人から少し離れたテーブルに座っている男を目の端で捉えながら、タマーシュはさして汚れてもいないカウンターを拭いていた。
スロヴェンスキー・クラス(注1)はスロヴァキア南東部のハンガリーとの国境近くに位置するスロヴァキア最大の山脈スロヴェンスケー・ルドホリエの一部を形成するカルスト地形を含んだ一帯で、様々な種の木々が自生する森林の他にもユネスコ世界自然遺産に登録された洞窟群や滝などを含む豊かな自然を誇っている。しかし「自然を守る」という観点から観光地としてはあえて開発されておらず、「手付かずの自然を味わいたい」などといったもの好きなハイカーが現れる他には旅行者などの外部の人間が足を踏み入れることはほぼ皆無だと言う。
つい二月ほど前にスロヴェンスキー・クラスの片隅の山間に横たわるこの村に住み着いたタマーシュはまだ他の季節の客足がどのような様子なのかは自分の目で確かめたことはないが、この真冬の雪の季節に地元の人間以外の客がこの食堂に座っているのを見るのはこの日が初めてだ。タマーシュはこの村に来てすぐに商売っ気の欠片もない宿屋と交渉して下宿させてもらうことにし、その後間もなく村外れのこの食堂で働き始めた。食堂、と言っても昼間は大して仕事もなく、夕方村人たちが集まってきてからの居酒屋としての機能が一番大きかった。だから午後のこんな早い時間帯にこんな雰囲気のよそ者が店内に座っていると、どうしても目がそちらへ引き寄せられてしまう。
店内には四人掛けの丸テーブルが五台、壁に沿って二人掛けの角テーブルが六台置いてある。今、中央の丸テーブルに着いている二人の男のうち一人はこの土地でしか作られていない稀少な蒸留酒に舌鼓を打っているが、もう一人は注文したソーダ水にさえ手を付けていない。ソーダ水の男のガタイの良さから言ってどう見ても蒸留酒の男の用心棒だ。しかし、タマーシュには二人が自分たちの主従関係を隠そうとしているようにも見えなかった。そしてその二人から距離を置いて壁沿いのテーブルに着いた男も二人と同時に入店し、エスプレッソを注文した。差し詰め二人目の用心棒かもしくは運転手かといったところか、とタマーシュは観察した。今店の中に座っている客はこの三人だけだ。
三人はそれ以上何も注文する気はないらしく、店主のパヴォルはいつもの仏頂面でカウンター内で帳簿の整理をしている。宿屋の主人の話ではこの店主も元々はよその人間で、十年ほど前にこの地に住み着き食堂を始めたのだという。しかしタマーシュは無口なパヴォルから直接身の上話を聞かせてもらったことはなかった。
カウンターをほとんど磨き上げるように拭き終わったタマーシュが「そのうち『休憩に行っていいぞ』って言われるのかな、仕事もないしな」と思ったところで、入口のドアが開き、薄く雪のかかったコートを着た人物が一人で入ってきた。フードを被っていて顔は見えないが、女のようだった。
女は軽く店内を見回した後、まずフードを外し、次に手袋を外してコートのポケットに入れ、それからコートを脱いで入口の側のコート掛けに掛けると真っすぐ二人の男の座るテーブルのほうへ近づいていった。三十代半ばかと思われるその女は「女であること」を商売道具にしているような雰囲気ではなく、男たちも女の登場に腰を上げはしたが、蒸留酒の男が握手を求めただけで、すぐに全員席に着いた。
暫く客たちの様子を眺めていたタマーシュは自身に「客だ、動け」と心の中で指示を出し、カウンターの上に置いてあったメニューを左手に取って女のほうへ向かおうとしたが、その左手が引っ張られるのを感じて、店主のほうへ首を回した。パヴォルは既に威圧感のある視線でタマーシュを見据えており、タマーシュと目が合うと低い声で
「お前は、休憩だ」
とだけ言った。それからパヴォルはタマーシュの手を離すとティーポットに湯だけ注ぎ、ティーカップにレモンの薄切りを放り込むと盆に乗せた。
タマーシュは急に落ち着かない気分になり厨房のほうへ向かった。顔だけ店内のほうへ回すと、パヴォルが湯しか入っていないティーポットとレモンしか入っていないティーカップを女のほうへ運んでいくのだけが目の端に映った。
交渉相手の男と別れの挨拶を交わし、男が側近たちを連れて店から出て行くのを見送ると、レンカは再び腰を下ろした。会談中はカウンターの中で素知らぬ顔をしていたパヴォルは男たちが消えるとすぐさまレンカのほうへ近づいてきて、先ほどまでレンカの顧客が座っていた椅子に腰を下ろした。
「レンチャ、今日は一人で来たのか?ジャントフスキーも不用心な奴だな」
とパヴォルが少し怒ったような声で言うと、レンカは笑って
「一人でこんなところに来れるわけないでしょ。もちろん連れてきてもらったのよ、アダムじゃないけど。外で待っててくれてるわ」
と返した。
「何かあったか?今までは誰と交渉するにもお前の隣でジャントフスキーが構えてたじゃないか」
「半年くらい前から私を一人で外に出してくれるようになったのよ。ちょっと面白いんだけど、私一人のほうが交渉がスムーズな感じなのよね。アダムがあの厳つい顔で横に付いてると相手も必要以上に身構えちゃうってことかも」
「しかしなんで事前に連絡を寄こさなかったんだ。レンチャがここで仕事があるって分かってたらそれなりに準備しておけただろうが」
「したわよ?一週間くらい前からずっと電話してたのに、おじさん出ないから」
そこまで言って、レンカは黙ってパヴォルの目を見た。パヴォルも暫くレンカの目を見つめて、それから入口の側のコート掛けに掛かってるレンカのコートに視線を移した。
タマーシュが食堂に戻ると、客は一人も残っていなかった。それどころか店主さえいない。ついさっきまでパヴォルが客と話している声が聞こえていたのに、と思いながらタマーシュが後ろを振り返ろうとすると同時に背後から押し倒され、タマーシュはすぐ側のテーブルに思い切り頭をぶつけた。そのまま頭はテーブルに押さえつけられ両腕は背の後ろにねじ上げられた。
パヴォルはタマーシュを押さえつけたまま
「誰に雇われたんだ」
と言いながらタマーシュのエプロンの下のパーカーのポケットに手を突っ込みピストルを抜き取った。
タマーシュは打ちつけられた頭とねじ上げられた両腕の痛みに意識が朦朧としてくるのを感じながら、「片手で頭、もう一方の手で両腕を抑えている状態でどうやって銃を取り上げたのだろう」とぼんやり考えた。
「おやじさん、なんか誤解してる。……俺、おやじさんほど腕っぷし強くないし……すげ、痛え」
そうか細く声を絞り出すと、タマーシュは気を失った。遠のいていく意識の片隅で、パヴォルが「情けねえ奴だな」とでも言うかのように舌打ちをするのが聞こえた気がした。
コートはふくらはぎの半分くらいまでの長さの丈で、大股で歩を進めることができない。そういった歩幅のことも考慮してコートは下からもファスナーが開けられるよう工夫して作られているのに、焦っていたのですっかり忘れていた。今手袋を外してファスナーを上げようとしたところで外気に晒された手は一瞬でかじかんでしまうだろう。そんなことを考えながらレンカが厚く積もった雪の上を一歩一歩跳ねるように進み、食堂から五、六メートルほど離れたところまで辿り着くと、歩道の脇の木々の間から大柄な人影が飛び出してきて素早くレンカを担ぎ上げ、レンカが進んでいたスピードの何倍もの速さで走り出した。
パヴォルの食堂の周りに人家はない。視界には雪と、その雪を被った森と、その後ろの山肌しかない。レンカは普段よりずっと高くなった視点からぼうっとその景色を眺めた。レンカを肩に担いでいる人物は百メートルほど先の、まるで雪景色の中に溶け込むように駐車してある車を目指して走った。車まで辿り着くとその人物は後部座席のドアを開け、レンカを車の中に放り込んでドアを閉め、自身は助手席に滑り込んだ。
レンカが上体を起こすと、運転席に座っていたティーナはレンカのほうを振り返り、
「ちょっと乱暴だったとは思うけど、やっぱりこういう環境に慣れてる人に頼んだほうがいいと思ったのよね。今頃アダムはへそを曲げてるかもしれないけど」
と言った。レンカは微かに笑って
「アダムだって、私を担ぐときはそんなに丁寧じゃないのよ。今のはまるで空を飛んでるような気分だったわ。ありがとう」
と助手席に座るティーナの協力者を見つめながら答えた。
この日ティーナの運転する車の中で初めて顔を合わせた時からずっと目から下を覆面で覆っていた協力者はレンカのほうを振り返ると右手の人差し指で覆面を顎まで押し下げ、にたっと大きく笑った。歳の頃はやはりティーナやアダムと同じくらいかと思われた。
「姉ちゃん、背丈のわりに軽いな。ティーナなんてこんなに小っちぇえのに、姉ちゃんの倍くらいの重さがあるぜ」
「私は全細胞が鋼で出来てるのよ」
その男の物言いには慣れているらしいティーナはそう言ってから視線をパヴォルの食堂のある方角へ移した。
「このまま車を出してもいいのかしら。あの店のオーナーは、一人で大丈夫なわけ?」
「パヴォルおじさんは、ずっと一人でやってるから。自分一人で何とかしたい人なの。現時点では何が起きたのかも分からないし、目的は私だったのか私のお客さんだったのかおじさんだったのかも分からないし。後で連絡をくれるわ」
「あのオーナーってスロヴァキア人だけどアダムからの人じゃなくて、カーロイの古い知り合いなんだったっけ?」
ティーナはそう聞きながらエンジンをかけた。助手席の協力者が窓の外に目を光らせているのに倣ってレンカも外に目を向けながら
「長年ブダペストに住んでた人なの。私、おじさんのこと高校生の頃から知ってるの。もちろん当時はこんな風に一緒に仕事することになるとは想像もしてなかったけど」
と答えてから、ふと思い出したように
「ティーナは年明け早々、こんなところまで私に付き合ってていいの?」
と尋ねた。
ティーナは素っ気なく
「私ね、今年度いっぱいで仕事辞めることにしたの。とは言えそれって九月までなんだけど。でも辞めるって言った途端、わらわらと『お前の授業を代わってやろう』って言う同僚が出てきてさ。なんだ、こいつらそんなに仕事が欲しかったんだって。なんか拍子抜け。数こなして早く上に昇っていきたいってことなんだろうけど。さっさと譲ってやっておけばよかったわ」
と答え、雪の山道を慎重に走り始めた。
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注1)
ユネスコに登録されているこの地の洞窟群は一般に「スロヴァキア・カルストの洞窟群」と訳されているが、ここではこの土地の名前として登場しているためスロヴァキア語の名称「Slovenský kras(スロヴァキアのカルストの意)」の片仮名表記とした。
【補足】
第五部 Inverzeの第一話の下書き記事を作った日が8月13日。今どこまで書き上がっているのかはあえて明かしませんが、今回もお付き合いくださる読者様がいらっしゃれば幸いです。基本的に週二回の投稿になる予定ですが、他ご企画・コラボ等との兼ね合いで週一本になることも(多々)あるかと思いますので「読み逃ししてなるものか!」という素敵すぎる心意気の方は通し番号にお気を付けいただければと思います。
第四部までのお話は紙の本でも読めます↓
【地図】
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