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その名はカフカ Kontrapunkt 15

その名はカフカ Kontrapunkt 14


2014年6月リエカ

 静かな港に泊められた数隻のボートと、その背景に悠然と停泊されている豪華客船を眺めながら、キツネは胸いっぱいに海の薫りを吸い込んだ。港のほとりの遊歩道に設けられた欄干にもたれて、キツネは何時間でもその風景を楽しんでいられそうな気がした。暫く内陸でこき使われてばかりだったから、海の素晴らしさを忘れていたな、と思いながら、もしテンゲルのところで痛みと疲労を除去できていなかったら、この港町の心地よさにも気がつかずに終わっていたかもしれないな、とも思った。
 テンゲルが勧めるままにモラウスケ・トプリーツェの温泉に浸かり、キツネはまさに生まれ変わったような心持ちで任務先のリエカに到着した。そしてラーヂャの指示通りに目的物の所有者と連絡を取ったところ、あっさりと商談が成立した。受け渡しは今夜だ、全部終わったらもう一度、テンゲルに会いに行きたいな、と思っている自分に少し驚きつつも、キツネは誰かに会うのを楽しみにする、という気持ちを長年忘れていたことにも気がつき、少し寂しくなった。テンゲルの言う「私には性別がない」という概念もキツネの理解できる範疇を超えていたが、そんなことはどうでもいいような気がした。相手を思えば楽しい気分になる、人に好意を抱くのには、その思いだけで充分ではないか?
「ねえ、お兄さん、フランス語できる?」
 急に耳に飛び込んできた言葉にキツネはとっさに
「ええ、何かお困りですか?」
と返した。そう返事をしてしまってから、すぐに後悔した。キツネが話せる言語は母語であるフランス語と外国語としては英語だけだが、キツネは両言語とも、ロシア語訛り、ドイツ語訛り、など様々なバリエーションを演じることができ、見知らぬ人物と話す時はいつも生粋のフランス語母語話者とは暴露しないよう努めていた。しかしこの瞬間には、あまりに自分の世界に浸ってしまっていたからか、いつもの習慣をすっかり忘れてしまっていた。
 キツネが声のした右手のほうを向くと、すぐ傍に若い女が立っていた。長く伸ばした黒髪がこの気候には少々暑苦しいが、綺麗な女だった。
 女は人懐っこい笑みを浮かべると
「良かった!もしかして、フランス人だったりするの?素敵!」
とはしゃぐように言った。キツネは
「いや、そういうわけでは……。何か、ご用ですか?」
と言いながら、女の話し方から女の出身を探ろうとしたが、フランス語が彼女にとって外国語であるという事実しか読み取れず、彼女の母語が何であるのかはまるで見当がつかなかった。
 女はキツネの質問には直接答えず、少し呆れたような顔をして、また話し始めた。
「あたし相手に敬語なんて使ってくれなくていいの。ねえ、お兄さんも観光?一人なの?」
「えっと、一応仕事で」
「一応って、何?じゃあ、観光もするんでしょ?一緒に遊んでよ」
 こんなところまで来て、なんでこんなに押しの強い女に絡まれなくてはいけないのだ、とキツネはため息をついた。普段のキツネだったら、そんなに悪い気はしなかったはずだが、晴れ渡った空と澄んだ海を満喫している最中のキツネには、迷惑以外の何ものでもなかった。
 キツネは急いで冷たい表情を繕って、口を開いた。
「君はお兄さんと言ってくれるが、私は君にとっては充分おじさんと言ってもいいくらいの年齢だ。楽しく遊びたいのなら、もっと若いのに当たったらどうなんだ?」
「じゃあ、おじさんって呼ばせてもらうわ。あたしね、旅行雑誌でこの街の真っ青な海と空の写真を見つけて、きっと世界中から観光客がいっぱい来てて、いろいろ出会いのあるところだろうって思って来たの。でも来てみたら誰ともそんなにすぐに仲良くなれないのよね。それでちょっと寂しくなっちゃったの。おじさんは一人で寂しくないの?」
「私は仕事だからな、終わったらすぐ帰る」
「でも、あと何日かは滞在するんでしょ?」
 そう尋ねたものの、女はキツネの答えを期待している様子もなく、視線を一瞬宙に浮かせると、
「小さい街だから、また会うかもね。今度偶然どこかで会っても、逃げないでよ?じゃあね」
と言って、キツネの傍を離れた。キツネは女の方を振り返りもせず、また港に視線を戻した。

 女はキツネから離れると、遊歩道の隣の車道に沿って植えてある並木の背後に並ぶ高い建物と建物の間の路地に入り、そこに立ってキツネと女のやり取りを監視していた男と目だけで挨拶を交わすと、また歩き続けた。男は引き続きキツネを監視し続けることになっている。女は路地を迷うことなく進み、何度か角を曲がった後、営業しているのかどうかも怪しいような古い宿屋の中に入った。
 宿屋の玄関を入ってすぐ右手にレセプションと守衛の詰所を兼ねているのであろうガラス張りの窓口のある小部屋があり、その中には二人の中年の男が座っていた。一人はパソコンを睨みながら仕事をしており、もう一人はライフルの手入れをしていたが、女に気がつくと愛想よく笑いかけた。女のほうも艶やかな笑みを返し、そのまま歩みを緩めず階段を上っていった。
 階段を上りきって、廊下をまっすぐ進み、一番奥のドアの前まで来ると、ノックをする前にドアが開いた。ドアの向こうにはエミルが立っていたが、電話中らしく、女には声をかけなかったので、女も何も言わずに中に入り、窓際の椅子に腰を下ろした。この日も気温が高く、少しでも外の風を感じていたかった。部屋の中にはエミルの他には誰もおらず、女はエミルが話し終わるのを待つことにした。
「どうしてキツネがそこまでの情報を持っているのかは疑問なんですけどね……そうです、それでこの後の動きがつかめました。応援は今のところ足りてます……いえ、あんまり大きなお祭りにはしたくないので、このくらいでいいかな、と。はい、今夜だと思います……ねえ、アダムさん」
何だか元気ないですね、と言いかけて、これは周りに人がいるときに口にすべきじゃないよな、と思い直し、エミルは
「いや、何でもないです、また連絡します」
と言って電話を切った。そして女のほうに向きなおり
「お帰り、ペーテル君。名演技だったのは確かなんだけど、あんな小生意気なキャラクターよりも、しおらしい女性を演じたほうが警戒心を煽らずに済むと思うのは僕だけだろうか」
と言った。
 ペーテルはふんっと鼻を鳴らし
「あのさ、君は昨日リエカに入って余裕綽々しゃくしゃくで作戦を練ってたのかもしれないけどさ、僕、昨日のお昼にいきなり父さんに呼び出されてとにかく行って来いって言われて、僕だって色々片付けてからじゃないと無理って言ったら、それじゃあ電車じゃ遅すぎるからって、朝一番のザグレブまでの飛行機に乗せられて、そのあとバスで、やっとここまで来たばっかりなんだよ?何させられるかも分からないうちに、あの男の傍に立ってろって言われただけなんだよ?上出来だって褒めてもらいたいところなんだけど?」
と言うと、頭からウィッグをもぎ取った。
「さすがにこの変装は、ここまで気温が上がるときついな」
とペーテルが言うと、エミルは
「僕は何も女の子の格好をしてくれとは言っていない。男性だって、君ならいろいろな人物に変装できそうなのに」
と呆れた様子で返した。ペーテルは
「いや、男は何かと変化に乏しい。僕が別人になったつもりでも、見る人によっては僕だってことが丸出しになることが怖い」
と言いながら胸元から三センチメートル四方ほどの大きさで一センチメートルもないくらいの厚みのプラスチックの箱を取り出し、耳からイヤホンを外すと、エミルのほうに放り投げた。
「何なの、その機械?」
「これでキツネの電話が最後に通話した番号と、彼がネットで検索した住所を読み取ったんだ」
「は、なんだそれ?さっき僕があいつの横に立ってた数分間で、そんなことしたの?そんな物が存在していいの?」
「つい一週間前に君が犯罪者呼ばわりした僕の妹が作った。だから存在している」
「エミル、なんか怒ってない?さっきから話し方がいつもより乱暴だ」
 君に言われたくない、と言いかけて、エミルは確かに少し神経質になっているのかもしれないな、と思った。今までは、どんなに自分がいなくては成り立たない作戦でも、現場の監督はレンカかアダムで、自分自身が全責任を負わなくてはならないことはなかった。それは外部からの依頼も同じで、依頼主のところにはいつも責任者がいて、自分は相手の要求に応える仕事をすればいいだけだった。それが今回はたった一人で送り込まれた上に、アダムが集めてくれた協力者にエミル自身が指示を出さなくてはならず、ペーテルにもいろいろと注意しなければならないことが多い。自分で言い出したこととは言え、ペーテルにもしものことがあったらレンカに合わせる顔がない、というのも気持ちに余裕が出ない原因だろう。そして今はレンカに電話が通じない、というのも気になった。アダムによっぽど「レニはどうして電話の電源を切っているのですか」と聞こうと思ったが、それも今は聞いてはいけない質問のような気がしてやめた。
 ペーテルの最後の言葉にはあえて答えず、エミルはペーテルの変装の話題に戻った。
「何にしても、その格好で始めちゃったんだから、どんなに暑くてもこの作戦終了まではその変装に徹してもらうしかないなあ」
「いいよ、この黒髪の美女、自分でも気に入ってるんだ。アダムのおっちゃんの手下にも受けがいい」
 いや、それは君がカーロイさんの息子さんだから気を使っているんだよ、という台詞をあえて飲み込み、エミルは
「手下とか部下とか、そういった言葉は使わないほうがいい。少なくともアダムさんは彼らをそう呼ばないように気をつけてるみたいだ」
とだけ言った。そして先ほど放り投げられたイヤホンをペーテルに手渡しで返した。
「これは今夜も必要だから。今からずっと耳に突っ込んでおくくらいのほうがいい」
「どうして奴らが行動を起こすのが今日の夜だって分かるの?」
「今の盗難物の所有者は売り手に残りの支払いを催促されているから、今すぐ手放してまとまったお金を手にしたいだろうし、キツネは手に入り次第、帰りたいだろうから、どちらも手っ取り早く終わらせたいんだと予想できる。キツネの電話から読み取った通話は最後の二十件くらいだけど、そのうちの一件だけがクロアチアの番号だった。これが盗難物の所有者なんだろうとは思うけど、この番号に直接連絡を取るより、キツネを追ったほうが確実だと思う」
「へえ、こういう業界の人たちって、番号隠してたりとかしないの?」
「そういう設定も結構簡単に解除できるんだ。一人だけ暗号化した電話番号で、僕でも解凍できないのがあった。キツネの仲間なんじゃないかと思う」
 そう言って、エミルは時計を見た。午後二時過ぎか、裏工作をしたいのなら今すぐにでも行動開始したほうがいいだろうな、と思いながら話を続けた。
「それからペーテル君、イヤホンからどんな指示が聞こえてきても、一切表情を変えてはいけない。目の前にいる人物に"仲間に指示されている"というのを感づかれるような行動は絶対に取ってはいけない」
「さっき僕、エミルに何を言われても感づかれるような行動を取ったつもりはなかったけど?だいたい、エミルには僕の顔なんて見えてなかったじゃないか」
「見てなくても分かるんだよ、僕がもういいよって言った瞬間に君の視線が宙に浮いたのが。その後、あまりにもあっさり立ち去っちゃうし。相手がキツネじゃなかったら、気づかれてたかもしれない。これは訓練しても習得できない人もいるけど、君なら絶対できるようになる。叔母さんにコツを聞いてごらん、レニはすごいから」
「おばちゃんはただの無表情じゃないか」
 そういう問題じゃないんだな、と言いかけて、あまり小言ばかり並べ続けるのも良くないか、とエミルは口を閉じた。
 ペーテルは再び窓のほうに顔を向けると、港のほうを眺めながら、つぶやくように
「Tenger」
と言った。エミルが不思議そうな顔をして
「何、それ?」
と聞くと、ペーテルは顔を港のほうへ向けたまま
「テンゲルって、ハンガリー語で海の意味なんだけど。さっきキツネが海を眺めながらつぶやいてたんだ、テンゲルって。あの人、フランス語と英語しかできないって言ってなかった?なんだかおかしな話だよね、海のない国の言語の「海」っていう単語だけ知ってるっていうの」
と答えた。
 エミルは少し考えるような顔をして
「そうだね、それは不思議だね」
とだけ言った。


その名はカフカ Kontrapunkt 16へ続く


『Emil』 DFD 21 x 29,7 cm、鉛筆、色鉛筆



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