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その名はカフカ Disonance 16

その名はカフカ Disonance 15


2014年9月フランクフルト・アム・マイン

 地下にある工房では、昼間も夜間も照明を付けなければ暗さは同じで、工房のいたるところに照明設備が充実していたが、ラーヂャはまるで「今は夜である」ということを実感したいとでも言うように、工房の隅の自分のデスクの上の電気スタンドだけを付けて、パソコンのモニターを睨んでいた。従業員は既に皆帰宅しており、工房にはラーヂャの他には誰もいなかった。
 ラーヂャが睨んでいるのは、ルノワールが六月に勝手に受注したという注文の完成品の画像だった。
 その六月の注文の発注者の正体を、匿名の銀行口座を手掛かりに暴くのは、ラーヂャにとっては朝飯前だった。その発注者の名前を見て、連想ゲームのように思い浮かんだのが、ハルトマノヴァーだった。注文が来たのは六月のバルカン騒ぎの後だ。あの女は目的を果たし、自分の名前を更に広範囲に知らしめたかもしれないが、充分すぎるほど恨みも買ったはずだ。この注文と、その恨みと、何か関連性はないか?
 しかし、その発注者と注文内容を見比べて、ラーヂャは最初、ルノワールが勘違いをして仕上げたのではないか、と思った。だがルノワールに限って、そんな初歩的な間違いをするわけがない。身分証明書というものは、国名だけでなく、その他それぞれの国家特有の情報が記載され、デザインもそれぞれ違う。国名を間違えただけなら他の情報と食い違っていて良いはずだが、ルノワールの"作品"にはそんな現象は起こっていなかった。それに、一瞬で目に入る全体のデザインが間違っていれば、依頼主がすぐに気が付くはずだ。
 パソコンを睨んでるだけでは何も始まらんか、と思ったところで、誰かが工房への階段を下りてくるのを感じた。ラーヂャが雇っている従業員のほとんどは、足音を立てない。それでもラーヂャは相手の近づいてくるスピードや足の運び方の違いを感じ取ることができ、それが誰であるのかも判別することができた。
 ラーヂャは腰を上げると工房のドアに近づき
「よう、ブランクーシ。ご苦労だな」
と言いながらドアを開けた。小柄なブランクーシはへらりと笑って
「やっと収穫ありだよ、ラーヂャ」
と言って、するりと工房の中に入った。
 ラーヂャは自分の職人には著名な画家の名前を選んで呼び名にしていたが、その他の工作人は得意分野や、時には気分によって、彫刻家や音楽家など、多分野の芸術家の名前を選んで使っていた。動きの素早いブランクーシには、主にラーヂャ本人が足を運べない現場での「目」の役割をしてもらっていた。
 ラーヂャのデスクの側に腰を下ろしたブランクーシはグレーのゴルフキャップを取ると、ラーヂャから熱いコーヒーを受け取り、美味しそうに啜った。
「やっぱりラーヂャはさすがだね、本当にいたよワルシャワに、あの女」
「ポーランドって言っても広いからな、ワルシャワにいるかどうかは賭けみたいなもんだったが」
「今回はフード被ってて髪はほとんど見えなかったけど、確実に同じ女だよ」
 六月、キツネは一人でリエカへ送り込まれたわけではなかった。キツネ自身は一人で遣わされたと思い込んでいたが、終始ブランクーシに見張られていた。ラーヂャからブランクーシへの指示は「何が起きても絶対に手を出すな、監視して俺に報告するのがお前の仕事だ」というものだった。
 リエカでキツネが盗難物の取引に臨んだ晩、ブランクーシはバーの中までは入ることができなかった。店内は狭い上に、混んでいるようだった。一番大事なところで見張っていられない、というのはもどかしかったが、ブランクーシはバーの外でキツネが出てくるまで待機していることにした。キツネが入店して一時間も経たない頃だろうか、店から出てきた男といつの間にか現れた少人数の武装集団との間で騒ぎが起きた。
 夜の路地は暗く、街灯もないようなところだった。だからブランクーシは男が襲われ、その集団が男から何かを奪い取ったことは理解できたが、集団の服装や顔などを詳しく観察することはできなかった。その上集団のほとんどは覆面をしているようだった。襲われた男が倒れ、動かなくなった直後に、バーの向かいの家からもう一人武装した人物が出てきたが、覆面はしていなかった。
 その人物は、ブランクーシでは理解できない言語で話していたものの、話し方からして集団のリーダーのようで、声は、女のものだった。
 ブランクーシは、リエカでの夜を思い出しながら
「リエカじゃ、運が良かったよ。顔なんて全然見えないくらいの暗闇だったのに、一台だけバイクが脇道を通過してさ」
とラーヂャに言って、またコーヒーを啜った。
「その一瞬で、よくあんな写真が撮れたな」
「構えてたんだよ、何とか撮れないかなって思ってさ。武装集団の親分が女って言うのが面白そうだって興味津々だったのさ」
 ブランクーシが「女がいた」と言った時、ラーヂャはハルトマノヴァーのことかと思ったが、ブランクーシに見せられた写真は別人だった。なかなか綺麗な女だが、一番目につくのは髪の色だ。ダークヘアの間に一掴み分の金髪があり、それはバイクのライトという不安定な照明のせいでそう写ったわけではないようだった。ラーヂャの目には、女に似合っているようには見えなかったし、ディズニー映画の流行に乗せられて髪を染めるような年齢にも見えない。病気か何かが原因かもしれない。
 その後、幾日も経たないうちに、バルカンの盗難騒ぎはハルトマノヴァーの圧勝で終わった、と耳にした。その噂が真実なら、あの武装女も、ハルトマノヴァーの一味だということになる。そう思った瞬間、ラーヂャは俄然その武装女に興味が湧いた。
 女が話していた言語が手掛かりになるような気がして、ラーヂャは、とにかくブランクーシが思い出せる限りの単語を並べさせた。記憶力のいいブランクーシも、さすがに耳にしただけの未知の言語を思い出すというのは容易ではなかったが、話している相手の言葉を肯定する時に「tak」という単語を繰り返していたことは覚えていた。
 チェコ語では「tak」という単語は「そのように」という意味の副詞で、相手の言ったことに同意する時によく使われる。しかし、ブランクーシの「相手の質問に答える時に使っていた」という主張を基に、ラーヂャは「tak」が肯定の意を表す返答であるポーランド語のほうに賭けてみることにした。ハルトマノヴァーがチェコ人だから武装女もチェコ人、というのは、あまりに単純すぎる構図だ、というおかしな勘も働いて、ちょうどブランクーシに任せていた別の仕事が一段落ついた八月の終わり頃、ブランクーシをポーランドの首都に送り出した。
 ラーヂャはブランクーシにコーヒーを注ぎ足してやりながら
「しかしお前、リエカではよく見つかんなかったよな。今回のワルシャワじゃ、即気付かれたんだろ?」
と聞いた。
「リエカはさ、他にも店に出入りする客とか向かいの家に出入りする人間とかいて、とにかく路地にはあいつら以外にも人はいた。でも大抵の人間は、あの騒ぎを酔っぱらいの喧嘩だと思ってたんじゃないかな、誰も男が襲われてるのに興味を示さなかった。それにあの女、キツネが中で死んでるの、あの時点で知ってたんだと思う。一刻も早く片付けたくて、焦ってたんじゃないのかな」
「で、あの女はワルシャワでは何をやってたんだ?」
「分かるわけないよ。あ、同じ女だって思った瞬間に気付かれて、変な足の速い奴を放ちやがった。一緒に、もっと勘のいい奴がいたのかもしれない」
「しかし、お前を追わせたのは一人だけなんだな。捕まえたかったって言うより、厄介払いしたかったってところか。騒ぎが大きくなって、警察沙汰になるのも避けたかっただろうしな」
 そう言いながら、ラーヂャはハルトマノヴァーを巻き込んだ車の爆破が、きれいさっぱり揉み消されたことを思い出していた。ああいう事件の消し方は、ポーランドではできないってことか、と心の中で独り言ちた。
 ラーヂャはおもむろに立ち上がると、隣の作業台に無造作に置いてあったぶ厚い封筒をブランクーシの前に置いた。
「持ってけ。武装女に関しては、今のところこのくらいでいい」
「ラーヂャ、ありがいんだけどさ、この程度の仕事でこんなにもらっちゃっていいのかな。俺、三週間もかけてワルシャワにあの女がいるっていうのを突き止めただけで、何もしてないよ?」
「それが分かっただけでも収穫だ。あんなでかい街で一人の人間を探し出すっていうのは、簡単にできるようなことじゃねえ。それに、ハルトマノヴァーに関しては、単なる俺の趣味だからな。そんなことにお前を走らせてんだ、そのまま受け取っとけ。それには口止め料も入ってんだ」
「そんなことしなくても、俺が外に漏らすわけないじゃん」
 そう言いながらブランクーシは封筒をジャケットの内側に収め、ゴルフキャップを被りなおすと腰を上げた。
 ラーヂャは
「今日はしっかり休め。お前には次の仕事があるんだ」
と言いながらブランクーシを送り出した。
 ブランクーシが地上への階段を上がりきり、出入口を閉めたのを確認してから、ラーヂャはジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかけた。相手は瞬時に電話に出た。
「こんばんは、ラーヂャ」
「よう、テンゲル。明日からの移動先、どうした?」
「ハンガリーのビュクですよ。あそこで使わせてもらっているホテル、いつも信じられないほど良くしてくださって、今回も楽しみです」
「それは、あのオーストリア寄りの温泉リゾートか」
 テンゲルは、いつも自分の直観に従って次の滞在先を決めていたが、それは大抵ラーヂャの仕事を手伝うのにも都合のいい位置だった。ラーヂャが何か頼みたいと思った時、テンゲルは常に都合のいいところにいる。しかし、今日のラーヂャに限っては、テンゲルに頼むべきことが分かっていて電話をかけたのではなかった。
 テンゲルは
「何かお役に立てることでも?」
と聞いたが、ラーヂャは
「まだ、分からん」
とだけ言った。
 テンゲルの位置を知れば、次に自分が何をすべきか分かるのではないか、そんな気持ちだった。どうもテンゲルの位置から言って、ポーランドの武装女にこだわり続けるのは得策ではないらしい。
 ラーヂャは
「気を付けて移動しろよ。俺が顔を出せるかどうかは分からんが、普通に自分の仕事をしてろ。また連絡する。邪魔したな」
と言って、電話を終わらせようとした。しかしテンゲルは、別れの挨拶の代わりに笑いながら
「どうしたんですか、ラーヂャらしくありませんね。ラーヂャはいつもすべて事前に自分で分かっていて、決定したことしか私に伝えないのに」
と言った。
 ラーヂャは「もっともだ」と思いながらニヤリとして
「俺にもそういう時はあるってことよ。それだけ掴みにくくて面白い相手を追ってるってことだ」
と答えた。
 テンゲルは笑ったまま
「分かりました。ラーヂャもお気をつけて。おやすみなさい」
と言って、電話を終わらせた。
 ラーヂャは電話を切った後も、電話を握ったまま暫く空を見つめていた。テンゲルは常々、「ラーヂャのような強い精神力の持ち主の心を癒す能力はない」と言うが、ラーヂャはテンゲルの声を聞くだけで、自分は充分癒されている、と思う。
 二十年ほど前に蒸発し、それまでの人生を捨て去って以来、ラーヂャにとって「大切な人間」というのはほとんど皆無だったが、テンゲルだけは別だった。テンゲルだけは、当然守り抜く対象として、ラーヂャの中に存在している。だから、都合がよければ仕事の一部を頼むことはあるが、絶対に危険が及ばないよう、常に細心の注意を払っていた。
 ラーヂャは、テンゲルが言っていた次の滞在先のことを考えた。テンゲルはいつも直観で滞在地を決めていて、それはその時のテンゲルにとって最も適切な場所であるということなのだから、今回も危険が待ち構えているはずがない。ただ、何となく落ち着かないものを感じるのはなぜなのだろう。こういう「何となく」出てくる感覚は、侮ってはいけない。今回はテンゲルには何もさせないほうがいいのかもな、と思いながら、ラーヂャは唯一灯していたデスクの上の照明を消し、工房を後にした。


その名はカフカ Disonance 17へ続く


『Tyna』 Skitseblok 21 x 28 cm、ボールペン、水彩



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