見出し画像

その名はカフカ Inverze 7

その名はカフカ Inverze 6


2015年1月ライプツィヒ

 さっきまで雨が降っていた。待ち合わせに自分のほうが早く着くなんて珍しいこともあるものね、と思いながらタチヤナは軽く身震いをして、体が冷えないよう待ち合わせ場所であるトーマス教会とバッハ博物館の間の広場の周辺を歩き回って時間を潰すことにした。
 スイス生まれスイス育ちのタチヤナは幼い頃から自分を生粋のスイス人だと思って生きてきたが、一族が元々はロシア貴族だったと生涯信じ込んでいた祖母にロシア文学にちなんだ名前を付けられてしまった。祖母は「『オネーギン』のヒロインから取った名前だ」と幼いタチヤナに何度となく語ったが、タチヤナ自身はロシア文学は愚か、ロシアや当時のソヴィエト連邦などに興味を持つことは全くなかった。イメージが何とも暗く、貧乏くさい気がした。自分が育った家庭環境も裕福とは言い難かったが、煌びやかな衣服や装飾品に囲まれる人生に憧れたタチヤナは小学生の頃から盗みを働き、高校生になった頃にはプロとして依頼を受けるくらいの盗みの達人になっていた。
 そんなあたしが孫ができるような歳になって〝東担当〟になるとはねえ、それももう終わった話だけど、などとぼんやり考えながら足元の水たまりから目を上げると、ちょうどトーマス教会の角を曲がってタチヤナのほうへ近づいてくるラーヂャの姿が目に入った。
 ラーヂャは「よう」と言いながらタチヤナの一メートルほど手前で歩みを止めたが、驚いたようにしげしげとタチヤナを見つめた。
「ボス、どうしたんだい、その格好は。至ってまともじゃねえか」
「今まで散々あたしの衣装をけなしてたくせに、それを改めたらまた文句つけるの?」
 この日のタチヤナはモスグリーンのレザーコートを着込んでコートよりも心持ち濃い緑の毛糸の帽子を被り、黒のブーツを履いている。確かに普段の彼女の服装からすると随分と地味だが、クローゼットの中には他にこんな寒い日に外に着ていけそうな外套はヴィヴィッドなピンクやライトグリーンなどといった色のPVC素材のダウンジャケットか天候の悪い日には外に出す気になれない毛皮のコートしかなかった。そこで「ラーヂャに非難されないためにも時には無難な服装を選ぶのもいいだろう」と思い、随分と昔に買ったこのレザーコートを着ることにした。
 ラーヂャはタチヤナの言葉には答えず「行くぞ」とだけ言って踵を返し、歩き始めた。タチヤナが急いでラーヂャの隣に並んで歩調を合わせ、
「本当にあんたってせっかちね。また今日も適当なこと言って逃げる気なんでしょ」
と不満そうに言うと、ラーヂャはタチヤナを横目で見て
「ボスはそうとう親分に嫌われたんだな。撒くぞ」
と返した。
「何のこと?」
「あんたが気が付かないってことは、この金魚の糞はかなりのやり手だね」
 タチヤナは唖然とした。タチヤナが幹部を務めていた組織に事実上解雇されたのは去年の十一月も下旬の頃だ。今誰かが自分を付けているとしたら、ラーヂャが言う通り総長から放たれた何者かなのだろう。タチヤナは黙ってラーヂャの隣を歩きながら「何もかもあの小娘のせいなんだから」と小さく歯ぎしりをした。
 ラーヂャはあたかも無計画に歩いているような顔をしながら路地を抜け、マルクト広場に出ると人込みに入り込んだ。タチヤナがまた変な気でも起こすのではないかと心配になったのか、ラーヂャは抑制するかのようにタチヤナの顔を横目で見ている。タチヤナが「さすがのあたしも尾行を撒いてる最中にスリなんてしないわよ」と思いながらラーヂャを見返したところで人込みを抜けた。
 ラーヂャは更にいくつもの角を曲がり路地を歩き続け、川幅のさして広くないパルテ川も渡ってまた狭い路地に入ると、ずっと黙って付いて来ていたタチヤナに
「もうとっくにいなくなってたがな、ここまで来ればまず見つけられることはないだろう」
と言ってニヤリと笑った。そして
「ちょっと待ってな」
と言うとすぐ側の小さなレストランに入って行き、暫くして紙コップに入ったグリューワインを二杯手にして戻ってきた。
 ラーヂャはタチヤナに顎で路地の奥を指し示し、先へ行くように促した。タチヤナは
「こんなに寒いのに外で飲むの?」
と不満そうに言いながらラーヂャの示した路地の片隅の古びたベンチのほうへ向かった。ラーヂャは
「店に入って万が一逃げられん状況になったらどうするんだ」
と返してから
「ふん、濡れてんな」
とベンチを見て言った。タチヤナは
「私のコートは防水ばっちりなやつだから」
と言って腰を下ろし、小脇に抱えたバッグからハンカチを取り出すと自分の隣のスペースを素早く拭った。
「完全には拭ききれないけど」
とタチヤナが言うと、ラーヂャは「悪いな」と言いながらベンチに座り、タチヤナにグリューワインを手渡した。
「何だか、助けてもらっちゃったみたいだから」
「いや、俺はあんたを助けちゃいない。俺と会ってた時に撒かれたって報告が行ったら、あんたの立場はもっと悪くなるだろう」
「首にしたくせに付け回すって、あの小娘に関してあたしがまだ何か企ててるんじゃないかって疑ってんのかしらね」
「そもそもボスがあの女を始末しようとしたのがいけねえんだろ。そんな指示、親分からは出てなかったんだろ。まあ、親分が今ボスを見張らせてるのは、ボスが変なのと接触して内部情報を売られるのを心配してると見る方が正解じゃないか」
「ボスって呼ぶのやめて。もう、本当にそんな立場じゃなくなったんだから」
 ラーヂャは前方を向いたまま、まだ湯気を立てているグリューワインを啜り、
「この前、ドーラ・ディアマントって呼んでくれって言ってたか?」
と聞いた。
「ああ癪に障るわね、本気なわけないでしょ。昔みたいに名前で呼んで」
「あんた、自分の名前嫌ってたじゃないか」
「カフカの女よりは百倍マシよ」
 二人は暫く黙ってワインを飲んだ。紙コップから立つ湯気はだんだん小さくなってきていたが、タチヤナはコップを持つ手と熱いワインを吸収した胃の辺りから体全体が温まっていくのを感じた。コップの中身が半分くらいに減ったところで、ラーヂャがおもむろに口を開いた。
「やっぱり、女を殺ろうとしたのが、良くなかったんだろ」
「うまく隠しといたんだけどねえ。どっかから総長の耳に入っちゃったのよ、あたしがキツネに何やらせようとしてたのか」
「あんたもすげえ単純思考だよな。女を消したからって、その裏に隠れてるもんが呑気にひょこひょこ出てくるわけないだろ。本当にそんな馬鹿でかい組織が隠れてるんなら、女を片付けた後に速攻で復讐されるのがオチだ」
「だからさ、復讐しようとして顔出すでしょうが、その隠れてる馬鹿でかいのが」
 別にあの女を殺そうとしたから首になったのではない。確かにタチヤナが女に関する情報をろくに集めないまま女を始末しようとしたことに、総長は良い顔をしなかった。しかし、決定打は少し違ったところにあった。
「あんたが、おかしな入れ知恵するからよ」
 そう言いながら、タチヤナは紙コップの中の残りのワインをかき混ぜるようにコップを軽く回した。ラーヂャは黙ってタチヤナを横目で見た。
「あの、『レンカ・ハルトマノヴァーはカフカのために存在している』っていうの、苦し紛れに総長に言ってみたのよ、別に収穫がないわけじゃないのよって言いたくて。そしたら総長、何だかちょっと顔色変えちゃってさ。次の日また呼び出して『そろそろ引退を考えてもいいんじゃないか、孫ともっと遊んでやれ』とか言いだすの。あたし、まだ六十にもなってないって言うのに」
 ラーヂャは「さすが親分やってるだけのことはあるんだな」と思いながら、残りのワインを啜り上げた。ラーヂャ自身が「カフカの正体」に何となく心当たりのようなものを感じたのは、テンゲルが心配になってエゲルまで出向いた昨年の十一月のことだった。
 「カフカ」と聞けば、あの作家を思い浮かべるのが普通だろう。しかし、ハルトマノヴァーの背後を固めているのは「鴉」だと見るのが妥当なのかもしれない。テンゲルがカフカの夢を見たと言いだすまで、全く思い出しもしなかった。九十年代も終わり頃だろうか、どうも〝表〟から下りてきたらしい「カフカ」を名乗るやり手の犯罪組織が出たという話を聞きかじったのは。フランツ・カフカから取ったカフカじゃなくて鴉なんだとよ、と常時どこからともなく玉石混交のあらゆる情報を吸収してくる連中が話していた気もする。しかし、そんな「新星無敵集団」なんていうのはほぼ毎日現れては消えていく。理由はいろいろだろう、他の大きいところに吸収されたとか、潰されたとか、仲間割れだとか、もしくは最初から存在しなかったか。くだんの「カフカ」も一瞬にして消えた。そんなもの、いちいち覚えてはいられない。ただ気に食わないのは、そんな一度でも騒がれたことのある組織がラーヂャの把握しないところで存在し続け、力を保ち続けていたということだ。そんなことがあり得るのだろうか。
 タチヤナも紙コップの中身を飲み切ると
「あとさ、総長に『女はいつもガタイのいいのと一緒に現れるって言ってたか?』って聞かれたんだけど、そうなの?あたし、その辺りのこと全然知らないんだよね」
と尋ねた。
「俺とキツネが見た時はそんなの連れてなかったぞ。確かに『一人なのか』とは思ったが、あの時は離れたところにスナイパー置いてたしな。なんで親分はそんなの気にするんだろうな。ああいう女ならボディガードの一人くらい、雇っててもおかしくないだろ」
 タチヤナは空になった紙コップの中を見つめながらラーヂャの話を聞いていたが、小さくため息をつくと
「あの小娘のせいで首になったわけだけどさ、首になる前のほうがずっと嫌な奴だったわ、あの小娘。探っても探っても何も出てこない、気持ち悪い。総長に何の報告もできない、悔しい。そんな感じ。でも今は結構どうでもいい。勝手にやってろ、あたしには関係ないって気分」
と言い、一呼吸分の間を置いてから
「あたしのポジションなんてどうせ中間管理職だったんだから、総長に捨てられちゃえばついて来る部下もいやしない。一人になったらまた昔みたいに盗みを働くくらいしかできないけど、それならそれでいい。何も大きいことなんて企てるつもりなんてない。そう思ってるのに、総長には疑われちゃってるみたいだね、あたし」
と続けて、手の中の紙コップを小さく折り畳んだ。泥棒屋の常で、どこにも自分が存在した証拠を残さない癖が付いている。バッグから小さなビニール袋を取り出すと、折り畳んだ紙コップとベンチを拭いたハンカチをまとめて入れ、空気を抜いて袋の上部を縛ってバッグにしまった。その様子を眺めていたラーヂャのほうへ視線を移すと、タチヤナは再び口を開いた。
「どうして、今日は来てくれたの?九月からずっとあたしの電話、無視してたくせに。何の用だとも聞かなかったわね」
「あんたが親分にほっぽり出されたって話は本当らしいって聞いたからな。新年の挨拶がてら見舞いに来てやった。どうせ用事なんてなくて、俺の顔が拝みたくなっただけなんだろうとは思ったがな」
「恩着せがましいわね。まあ、その通りなんだけど。もうあんたに注文を回してあげられる機会さえなくなっちゃったわけだけど」
「あの親分、今度は直接俺に発注するようになるのかな、それは嫌だな」
「今まであたしを通してたってことは、あんたとは直接連絡とる手段を持ち合わせてないってことじゃない?せいぜい見つからないように頑張ることね」
 総長があたしを付けさせてるってことは、これからは別の意味でラーヂャに避けられちゃうのかも、と思い、タチヤナは顔をしかめた。そして、既にタチヤナの顔から視線を逸らして前方を向いているラーヂャに
「また、会ってくれる?」
と聞いた。ラーヂャは眉を上げてタチヤナの顔に視線を戻し
「ボスがそんなお伺いを立てるとはね。会いたきゃ連絡を寄こせ。会える時は会ってやる」
と答えた。タチヤナが
「ボスじゃなくて」
と咎めるように言うと、ラーヂャはニヤリとして
「俺と会う時は服装を考えろよ、タチャーンカ」
と返した。それから「そろそろ移動するか」と言うと、手の中の紙コップを潰してから立ち上がった。


その名はカフカ Inverze 8 へ続く


『Hartmannová? Já ji nesnáším…!』 21 x 27.9 cm 鉛筆
シンプルな絵に見えると思うが結構入れたり抜いたりしている。
白鉛筆さんの約二時間に渡る「桃太郎語り」を聞きながら描いた。笑



【余談 1】
noteでいつだったかプーシキンの『オネーギン』について書いたな、と思ったらここだった↓

【余談 2】
今でこそ「noteで報告したい」という明確な欲求があるので出先では積極的に写真を撮るものの、以前の私はどんなに遠出をしてもほとんど写真を撮らない人間だった。よって昔の私の旅行の記録は私の頭の中にしか残っていない(とは言えニュルンベルクのイルカショーとか、お見せできたものもあったか)。
こちらは2014年の夏に訪ねたライプツィヒで私が唯一撮った写真である。

笑ってくれたまえ。


【地図】


日本帰省に使わせていただきます🦖