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その名はカフカ Disonance 14
2014年9月ウィーン
ブカレストでヴァレンティンに会った翌日の早朝、レンカはオーストリアの首都ウィーンへ発ったが、会うべき人物がレンカのために時間が取れるのはそのまた次の日だと聞かされ、レンカは、それならブカレストの街をもう少し見ておけば良かったな、と思った。しかし、ヴァレンティンの態度からも、ヴァレンティンがレンカにはあの街にあまり長居はしてほしくないと思っていることが感じられ、こうするしかなかったのか、とも思った。
ウィーンには、これまでも何度も来ている。時間があるのだから何か新しいことをしたらいいのだろうなと思いながら、結局いつもと同じカフェに座り、同じ美術館に行った。ホテルに着いたらヴァレンティンから今夜のバレエのチケットが届いている、なんて粋な計らいはないかと少し期待してみたが、何も届いてはいなかった。レンカは、ヴァレンティンに「仕事中なんだ、余計なことは考えないでくれたまえ」と言われた気がして、変な期待をしなければがっかりすることもなかったのに、と自嘲気味に笑った。
レンカがウィーンに拠点を置くハルトマン病院長の弁護士、ルカーシュ・クレイツァルの事務室に案内されたのは、翌日の午後一時だった。ハルトマン病院長は複数の弁護士を抱えているようだったが、クレイツァル弁護士はレンカと病院長の契約書を作成した人物で、一年に一回の契約書更新のための会議にも毎回立ち会っていた。レンカは、歳は四十前後かと思われるこの弁護士に関しては、血筋はチェコ人ではあるものの生まれも育ちもオーストリアである、という程度の予備知識しかなかった。
レンカを玄関まで迎えに来てくれた秘書に連れられて事務室まで行くと、クレイツァル弁護士はドアの側に立って待っていて、笑顔でレンカを招き入れ、ドアを閉めた。
クレイツァル弁護士はレンカに握手を求めながら
「ようこそいらっしゃしました、ハルトマノヴァーさん」
と言い、すぐに困ったような笑いを浮かべた。そして
「貴女とハルトマン先生の事情を知る人間としては、先生の名字でお呼びするのは違和感が否めませんね。どうでしょう、お名前でお呼びしても差し支えありませんか」
と優しく尋ねた。顔を合わせてすぐにそのような話題になるとは思っていなかったレンカは、瞬時に答えを見つけることができなかった。
「何も敬語をやめましょう、と言っているのではありません。私のことも、ルカーシュとお呼びいただければ嬉しいです」
「あ、はい、失礼しました。少し驚いたもので。ぜひ」
レンカがそう言って微笑むと、弁護士は嬉しそうな顔をして
「不思議なものですね、貴女のことは八年以上も存じ上げているのに、挨拶以外のお声を聞くのも、笑ったお顔を見るのも初めてです」
と言って、レンカを部屋の奥へ促した。
事務室の中には壁一面の本棚と、窓際に大きな書斎机と椅子が置いてあるだけで、来客との懇談のスペースなどは見当たらなかった。ルカーシュは書斎机の脇に置いてある椅子をレンカに勧めると、自身もレンカと向かい合うように腰を下ろした。
「ウィーンにいらっしゃったのは昨日なのですよね。お待たせして申し訳ありませんでした。他に仕事があったのも事実ですが、お会いする前にこちらでもいろいろ確認しておくべきことがございましたので」
「謝っていただくようなことではございません。私どもも、まさかこのようなお願いをする日が来るとは思ってもおりませんでした。お引き受けくださり、誠にありがとうございます」
「このような仕事も、貴女と先生の契約のうちに含まれている、と認識しております。では、まず確認しておきたいのですが」
ルカーシュは一旦言葉を切ると、レンカの目を見た。
「ジャントフスキーさんのそのご同僚の方は、2001年にイギリスに亡命されたということですが、イギリスでの市民権は取得されなかったのですか?」
「最初の三年ほどは申請中の状態で、その後彼の申請は取り下げられました。もちろん、本人の意思ではありません」
「では、今もロシア国民であると?」
「そういう説明を、されているようですが。今も彼を亡命した元ロシア人であると認識している一部のロシア軍の機関もあるようで、外部の人間としては、どちらが正しいのか、判断が付きかねます」
きっとサシャ本人も本当のところはどうなっているのか確認の仕様がないのだろう、と思い、レンカは顔を曇らせた。ルカーシュはそんなレンカを勇気づけるかのように微笑むと
「大丈夫ですよ。ご同僚は、問題なくオーストリア国籍を取得できるでしょう。世間には、ありえないほどの大金を支払ってオーストリアのパスポートを購入する富豪が存在するくらいですし。もちろん、今回はそのような手段は必要ありません。注意しておきたいのは、彼がオーストリアの地に足を踏み入れるまでの過程なのですが」
と話を続けた。
レンカは、にわかに自分が緊張し始めたのを感じた。サシャがオーストリア国籍を手に入れて、これからは会いたい時に会えるようになる、そんな夢のような話が、実現して良いものだろうか。いや、それは実現させなくてはならないし、実現させるためにはサシャも、自分も、一寸の失敗も許されないのだ。そう考えると、レンカは鼓動さえも早くなってきた気がした。
「ご同僚は、直接オーストリアに入ってはいけません。どこか近隣諸国で、まずオーストリア大使館に逃げ込む、という既成事実を作っていただきたい。どこでもいいですが、彼の境遇から言って、イギリスはもちろんのこと、ドイツも避けておいたほうがいいでしょう。もちろん、大っぴらに宣伝することはありません。そんなことをしては、ハルトマン先生のお力を利用する意味がなくなりますからね。どの国の駐在大使館にしたのか決まったら、私にお知らせください。私が大使館のほうへ話をつけておきます」
レンカがあまりに緊張した顔をしていたのか、ルカーシュはもう一度レンカに微笑みかけた。レンカは慌てて笑顔を作ってみたが、こんなに心配事が大きい状態では、うまく笑えている自信はなかった。どんな感情が湧いてきても無表情を繕うのは得意だったのに、笑顔となると途端に調子が狂うな、とレンカは自分に呆れた。
ルカーシュは、再び話し始めた。
「オーストリアへの入国は、陸路をお勧めします。空路も無理ではないが、隠し通すのに何かと複雑な手続きが増えます。そして、陸路でも油断はなりません」
レンカはルカーシュの目を見た。そして、自分はまた不安そうな顔をしているのだろうな、と思った。
「今回は公的な機関が関わります。どんなにハルトマン先生のお力をお借りしても、どんなにジャントフスキーさんのお仲間が隠蔽工作が得意でも、完全に隠し通すことはできません。ご同僚は、命を狙われる危険がある人物だという理解で、間違いございませんか」
「……はい」
レンカはそう短く答えると、目を閉じた。数日前まで、自分はサシャが本当のことを教えてくれていなかったことを気にしていた。しかしそんな感情は、サシャの無事を祈る気持ちに比べれば何の価値もない。そして、最悪の事態を想像してこんなに動揺している自分は、やはり全然強くなってはいないのだ。
レンカが再び目を開けると、ルカーシュの心配そうな瞳とぶつかって、レンカは恥ずかしくなった。
「とても、大切な方なのですね」
「ええ、素晴らしい人です」
レンカはサシャについて更に言葉を重ねたかったが、この場では適切な態度ではないような気がして、それ以上何も言わなかった。
「明日は少し会っていただかなければならない人たちがいます。ご同僚には入国してすぐに市民権が許可されるように手配したいので、やはりいろいろと裏で協力してもらわなくてはならない公的機関の職員の方々がいます。今回の件は、あくまで要請してるのはハルトマン先生で、レンカさんは先生の代理という形で同席願います」
「あの、何から何まで、ありがとうございます。よろしくお願い致します」
レンカが頭を下げても、ルカーシュは何も言わなかったが、レンカが頭を上げるのを待って、再び話し始めた。
「一つ、きっとハルトマン先生もジャントフスキーさんも貴女にはお伝えなさらないであろうことを、お話ししてもよろしいですか?当初ジャントフスキーさんが貴女をより安全な立場にするためハルトマン家に迎え入れてほしいと要望された時、もちろんハルトマン先生はジャントフスキーさんのお父様への恩返しのおつもりだった。先生のそのお気持ちは今も変わりません。しかし、この契約関係がもたらしたものは、なにも貴女の立場の強化だけではありません。実際、貴女が非合法な世界でこそこそ逃げ回らなくても活躍できることで、ジャントフスキーさんや彼のお仲間のお仕事がよりスムーズになっていることは、貴女も当然ご理解なさっているでしょう。そしてそれは、ハルトマン先生にとっても、有益なのです」
そこでルカーシュは言葉を切り、小さく微笑んだ。レンカは、きっとこの瞬間も自分は笑えていないのだろうな、と思いながら、ルカーシュの次の言葉を待った。
「考えてもごらんなさい。貴女の活躍する世界は、先生が直接影響を与えている世界とは少なからず異なっています。貴女が活動範囲を広げるということは、ハルトマン家の力が及ぶ範囲も広げることになるということなのです」
ルカーシュはもう一度言葉を切って、レンカの反応を待ったが、レンカはどう答えて良いのか分からなかった。
「何が言いたいのかと申しますと、レンカさんが肩身の狭い思いをされることは全くない、ということです。貴女が今の立場になられたことで、ジャントフスキーさんにもハルトマン先生にも、どちらにも益をもたらしているのです」
「ハルトマン先生は、この契約は永遠に続くものではない、数年のうちに解約することを視野に入れていこうとおっしゃっていました」
「先生はきっと、貴女という個人のお気持ちを考慮なさっているのです。八年前の貴女は、今の貴女とは違う考え方をしていたのではないでしょうか?」
自分の内側を覗き見られた気がして、レンカは居心地が悪くなった。しかし、ここで「結婚したい人がいるわけではございません」などと力んで訴えたところで、きっとルカーシュは困ったような顔で微笑むだけなのだろう。
ルカーシュは、レンカの表情を追いながら
「私個人としては、契約解消後もこのお名前は保ち続けることをお勧めします。外部のほとんどの人間には貴女がハルトマン家の中でどのような立場なのかは知られていません。離婚が成立すれば、もちろん貴女の警察などに対する免除特権などはなくなるが、裏社会の人間で貴女が一族の人間でなくなったことに気が付く者はほぼ皆無でしょう。一度売り出してしまったお名前なのですから、ご利用なさればよろしい」
と言い添えた。
レンカは今まで、一年に一度の会議で顔を合わせていても、義務的に居合わせているこの弁護士に何の興味も抱くことはなかった。しかし、このようにレンカという一人の人間について考えてくれているのだと思うと素直に嬉しくなり、笑みがこぼれ、改めて
「ありがとうございます」
と礼を言った。
ルカーシュは
「貴女は今まで本当にもったいないことをされていた、としか言いようがありません。こんなに笑顔が似合うのですから、その笑顔をもっと活用なさるべきですよ」
と言って笑った。そしてレンカを促すかのように軽く頷いて見せ、席を立った。レンカは「自分の笑った顔なんて、見たことないな。どんな顔なんだろう」と思いながらルカーシュに合わせて立ち上がった。
「では明日、滞在されているホテルを教えてくだされば、こちらから迎えをやることもできますが」
「あの、滞在先は外部の方には知らせない、と決められていますので、明日も私のほうからこちらに伺う、という形でよろしいでしょうか」
「分かりました。では少し早いですが、明日の朝八時にこちらに到着するようにお願いできますか?もう少し打ち合わせをしてから、会談に臨みましょう」
ルカーシュは再びレンカに握手を求め、彼女の右手を両手で優しく握ると、レンカをドアのほうへ案内した。
レンカはドアへ向かいながら、顔だけ知っている人に一人でお願いに行く、という事実に緊張して出向いた先ほどまでの自分が信じられないほど心の中が温かくなっているのに気が付いた。「笑顔を活用する」という点では、この弁護士も良いお手本のようだ、と思いながらルカーシュに向かって頭を下げると、見送りはここまでで大丈夫だと告げ、玄関へ足を向けた。
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新しく手に入れた紙に「色鉛筆ならどんな乗りになるのかな」とお試しで描き始めたので、実のところ深い意味のない一枚。
【地図】
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