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その名はカフカ Inverze 26
2015年1月オーストリア・チェコ国境
結局アダムのところに押しかけた二日後には帰路に就けたのだから、やはりあれは私の我がままだったのだろうか、でもアダム自身はまだ数日帰れないと言っていたし、一昨日アダムとゆっくり過ごせたから今日の仕事がうまく行ったとも言える、だから無駄な行為ではなかったのだ。そんなことをとりとめもなく考えながら雪が彩る車窓の風景を眺めていたレンカは「もしかすると今の自分は傍から見ても異常なくらい上機嫌に見えるのかもしれない」と心配になり、そっと運転席のスルデャンのほうへ目を動かした。レンカとは対照的に、スルデャンは普段よりも少し機嫌が悪いように見えた。リンツを発ってから、ほとんど話していない。
レンカはまだスルデャンの不機嫌な表情を一度も見たことがない。考えてみれば、レンカはスルデャンの笑った顔か、無表情で何かを考えていても不機嫌とは無縁の印象を与える顔しか見たことがない。やはりサシャの右腕をやっているだけのことはある、何かに悩んでいたり不快な思いをしても一切外に気取らせないことに長けているのだろう、と当然のことのように思っていた。今までレンカの護衛をしていてある程度のストレスもあっただろうが、スルデャンは常にいつものスルデャンであり続けた。そして今、スルデャンとレンカは当面の任務を終えて帰路に就いたところなのだ。通常よりも機嫌が良くてしかるべきだと思うのだけど、と心の中でつぶやいてからレンカは
「ねえ、どうかした?」
とスルデャンに話しかけた。
スルデャンは前方を向いたまま口を開いた。
「なぜそのようなことを聞く?」
「だって、機嫌が悪そうなんだもの」
「俺の顔は普段と何も変わらないはずだ。変に勘繰っている気はしないか?」
「その答え方が既にいつもより丁寧さに欠けてると思わない?」
レンカの返事を聞いてスルデャンは吹き出し、レンカもやっとスルデャンの笑顔が見られて嬉しくなった。
「やっぱり何かあるのね。別に私に話してくれなくてもいいんだけど」
「おかしいな、俺は感情の動きはあからさまに外に出していないはずなんだが。サシャも言っていたが、君は視覚や聴覚だけではなくもっと別の感覚を使っていろいろなものを感じ取っているのだろう」
「それって、けっこう普通じゃない?大抵の人は相手の醸し出す空気とか語調とかから相手の気分を感じ取ったり推し量ってるものだと思うけど」
「いや、それが全くできない人間というのは山ほどいるし、俺を相手にそれができる人間というのは、そうだな、サシャくらいなものだ」
「きっとあなたも私の前で油断しているんだわ……私と同じように」
レンカがそう言うとスルデャンは更に楽しそうに笑い、少しの間を置いて話し始めた。
「君の言う通り、今の俺は、何と言うのだろう、機嫌が悪いと言うより、憤りを感じていると言ったほうがいいかな。今回の作戦は、思っていた以上に心配させられた」
「私のことを、心配してくれたの?」
「そんなに意外そうに言わなくてもいいだろう。一緒に過ごす時間が長くなれば情が移るのは当然だし、今までの淡々と任務をこなしていたのとは気の持ちようも変わってくる」
「……あなたが、仕事に置いてそういったことに気持ちが左右されるとは思わなかったわ」
「レンカ、俺は機械じゃない」
スルデャンの言葉に、レンカは自身の思い込みを目の前に突き付けられたような気がして、答えに窮した。十代で戦争を体験して、人間の残虐で卑劣な行為も山ほど目の当たりにしてそれを生き延びた上にこんなに才能がある人なのだから、スルデャンはどこか自分とは別の次元にいるような達観した存在であり、そのような存在が自分と多少なりとも心を通わせたからといってそれが任務を遂行するに当たって影響を及ぼすわけがない、そんな風に、自分でも知らないうちに勝手に決めつけていた。
レンカが数秒の間を置いて
「ごめんなさい」
と言うと、スルデャンは笑みを絶やさず
「謝るようなことじゃない」
と返して言葉を続けた。
「憤りを感じる、というのはまず第一に、なぜ君が一人であんなところに出向いていかなくてはいけないのかという点だ。俺は君がカフカを代表する立場になった経緯をほとんど知らない。君がサシャたちが2000年代初めにプラハに滞在していた時期彼らのところで働き始めて、カフカの一人と親類関係にあるという話を聞いている程度だ。君がこの業界で名の知れた存在であることはもちろん認識しているし、別に君にこの役目は荷が重すぎると思っているわけでもない。ただ、なぜ護衛の一人も連れて行ってはいけないのだろう?前回の訪問と違って今回は、あのフィリチから見れば、警告したにもかかわらず乗り込んできたとしか判断できない状況だ」
「こちらには攻撃の意志はございませんって意思表示をするためにも、私が一人なのは効果的だと思うわ。それに……そうね、前回はエミルとしか通信を繋いでなかったからスルデャンは聞いてなかったのよね。あのダティフの秘書の人、前回初めて顔を合わせた瞬間にいかにレンカ・ハルトマノヴァーという人物に憧れの念を抱いていたのか、私に会えてどれだけ感動しているのかをすごい熱を込めて伝えてくれたの。だから既にあの組織の中に味方がいたも同然だったのよ。あの人も自分のボスがボグダン・フィリチの言いなりになっているのに我慢できなくなってたみたい」
スルデャンはふと思い出したように右手をハンドルから離すとジャケットの胸ポケットからイヤホンを取り出しレンカのほうへ差し出した。
「返すのを忘れていた。手の届かないところで何が起きているのかを聞いているだけ、というのもなかなか精神力が要るものだ。君の部下も相当な忍耐力の持ち主と見える」
「そうね、エミルはきっともう慣れてしまっているんだけど。あの子は他の誰にも聞き取れないようなものまで聞き取れてしまうから余計大変よ」
「もう一つ正直に話しておくと、俺の今の憤りの最大の原因はフィリチの『物理的にここまで救出しに来られる者はいない』という台詞だ。それは紛れもない事実で、それが事実であることが悔しかった。自分の母語の訛りで聞かされると更に神経を逆撫でられる思いだ」
いつの間にか真剣な顔つきで話していたスルデャンは、今度は少し恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「君は俺からこんな言葉が出てくるなんて想像もしていなかったのだろう。別に今まで君の前で格好つけていたわけでもないし、これが俺という人間の本質に近い部分なんだと理解してもらっていいのだと思う。……こんな話になるとは思っていなかったが、言葉にしてみると我ながら器の小さい人間だなと思わされる」
「スルデャン、それは、あなたが自分に厳しすぎるのだわ。それくらい自己分析ができているということだし、大抵の人はその程度の心の動きで自分に器が小さいなんていう評価は下さないのよ。どんな感情が湧こうとも、あなたの仕事は結局は完璧なのだし。私、今日も建物の外であなたが待っていてくれてるって思うだけでものすごく安心していられたの。いくら離れた場所にいても、護衛してくれていたのと変わらないわ」
そう話しながら、レンカはハルトマン病院長の「人生の上で起こる辛く苦しい体験は他者と比較することはできない」という言葉を思い出していた。他者に向かって「あなたの辛い体験は私の体験より軽いのだからあなたは苦しそうな顔はするな」などという発言はあってはならないのだと。スルデャンに対しては、逆にレンカは「きっと壮絶な体験をしてきたのだろうから、そういった過去を刺激するようなことは言うべきではないし、ましてや自分の苦しかった体験などは彼から見れば取るに足らないもので、そんな話で煩わせてはいけないのだ」と遠慮していた。きっとそんな気遣いもスルデャンには見透かされているのだろう。そして、そんな必要はないのにと残念に思っているのかもしれない。
レンカは暫く黙って、それから
「今回のオーストリアでの仕事、あなたと話す機会がたくさんあって前よりも仲良くなれたのが何よりも嬉しいの。……取って付けたように聞こえてないといいんだけど」
と言った。スルデャンは静かに声を立てて笑うと
「おかしな心配はしないでくれ。俺も君とよりよく知り合えて良かったと思っている」
と返し、少しスピードを落として真っすぐ前方に続く車道の先の路肩に止まっている一台の車をハンドルに掛けた左手の人差し指で示した。
「あれは君の迎えの車だな」
スルデャンがそう言うのを聞いて、やっとレンカはチェコとの国境近くを走っていることに気が付いた。
「もうお別れなのね……今回は、ってことだけど」
「近いうちに、仕事とは関係なく会う機会があるかもしれない」
「そうなの?」
スルデャンは楽し気な笑みを浮かべたままレンカの迎えの車の横を走り抜け、車を止めた。
「今はサシャからの連絡を待ってくれ、としか言えないが」
「悪い話じゃなさそうね。ありがとう。気を付けて帰ってね」
スルデャン相手に「気を付けて」も何もあったものではないか、と自分の言葉に苦笑しながらレンカは車を降りると小走りにレンカを待っていた車のほうへ急ぎ、助手席に乗り込んだ。レンカが車のドアを閉めたのと同時にエミルは車を発進させ、
「お疲れ様です。怪我はありませんか、痛くはありませんでしたか」
と早口に聞いた。レンカは驚いた顔をして運転席のエミルを見やり、
「どうしたの、あなたまで。見ての通り何の傷も負ってやしないわよ」
と半ば呆れたように言った。エミルはレンカの言葉は取り合わないという意思表示をするかのようにスピードを上げた。
「レニには、分かっていたのでしょう?あの人が暴力を振るう可能性があるだろうことくらい。レニならそんなこと、事前に分かっていたはずだ」
「どうしたのよ、興奮しちゃって。あの程度のこと、暴力って言わないわ」
「アダムさんには既に録音を送りましたし、何が起きたのかも全部報告しますからね、どんな顔されるでしょうね?」
「……かわそうと思えばかわせたのよ。特別速い動きじゃなかったわ。ダティフが部屋に入ってくるように仕向ける必要があったの。フィリチが手を出さなかったらいつまで黙って話を聞いていたか分かりゃしないわ。せっかくだから引き出せるまで引き出してやろうとか発想しそうな男よ」
「では、ダティフ氏も単に側近の言いなりの人形ではなかったと?」
「きっと気が弱いだけで、それなりの頭はあるんじゃないかと思うわ。フィリチがいろいろ考えてくれるから楽ができてる気になってたんでしょうね」
「それで実質組織を乗っ取られたとあっては、やはり怠慢が過ぎますね」
二人は暫く黙り込んだ。エミルは運転に集中しているように見えたが、きっと頭の中ではいろいろ考えているのだろう、と思いながらレンカは木々と雪ばかりの代わり映えのしない外の風景を眺めた。それから視線を外に向けたまま、おもむろに話し始めた。
「ねえ、アダムに全部報告って言うけど、今更余計な心配させること、ないんじゃない?結局何もなかったんだし」
「レニ、あの音声を聞いていれば何かが起きたことは明白です。あの瞬間、僕はてっきりレニが床に引きずり倒されたんだと思って真っ青になったんですよ。事実よりもひどい想像をさせないためにも、ありのままに話すべきです」
エミルは呆れたようにそう返し、一瞬黙ってまた口を開いた。
「僕たちに、アダムさんに隠し事なんて土台無理なんです」
「……いつ、聞かれたの?身分証明書の偽造品のこと」
「年明けに二人でコソコソその話をした次の日くらいです。聞こえてなかったはずなのにどうやって嗅ぎつけたんだか、と驚きましたよ」
「アダムって鼻が敏感なのよ……ごめん、これは冗談のつもり。それで、具体的にどんな風に聞かれたの?」
「今振り返れば当然の話なんですが。九月にヴェルチャを拘束した時、僕はティーナさんとサシャさんが遣わした結構な人数の部下の方たちと一緒にレニの護衛をしていましたね?それで、僕がヴェルチャからあの偽造品とナイフを取り上げたのも、当然彼らに見られていたわけです」
エミルの説明にレンカは唸るようなため息をついた。エミルはレンカの反応に笑ってから言葉を続けた。
「この間アダムさんには『あの時手に入れた物で今も頭を悩ませたりしてはいないか』と聞かれました。それで正直に話して、そんな高性能の偽造品っていうことなら出どころは絞れるんじゃないか、こちらで隠し続けるのは危険が大きいから製造元に返したほうがいい、という話をされて。どうせ返却するならそのまま返すんじゃなくて悪戯をしてやれ、と言われました」
「何をしたの?」
「ジョフィと仲直り……のようなものをした後すぐに相談したんです、表に印刷された写真を消して別のものを焼き付けることはできるかと。残念ながら僕にはそういった器用さは備わっていませんからね、これは彼女の得意分野です。ジョフィは意気揚々とやり遂げてくれましたよ」
「それで、ヴェロニカの写真の代わりに誰の写真を使ったの?」
レンカの質問にエミルはこらえきれないといった表情で笑い声を漏らした。
「鴉です。さすがにkavkaを使うとあからさま過ぎますからね、鴉の専門家でない限り種類は特定できないようなあまりはっきりとしない鴉の全身像を刷ってもらいました。見事なものですよ、僕くらいの視力がない限り、元の写真が消されて上乗せされているなんてまず気が付けないくらいの出来でした」
「それは、見てみたかったわね」
「お見せできなくて残念です。コシツェに発つ前にジョフィから受け取って、その後ブダペストでティーナさんに託しました。ティーナさんは『結構すぐだと思う』とおっしゃっていたのですが、昨晩早速その偽造業者からの人がワルシャワに現れたと、先ほど連絡をくださいました。あの偽造品の製造元とレニに目を付けたという偽造業者が同一であるかどうかは、まだ賭けのようなものですが」
レンカは一瞬考えるような顔をして、
「カードの中のデータはそのまま?」
と尋ねた。
「ええ、変にいじって全部飛んでしまっては彼らの製造物であるという証拠が消えてしまうことになりますからね。ジョフィもそんなところまで手を出して失敗するのは避けたかったようです」
そこまで言うとエミルは気持ちを切り替えるように心持ち声の調子を変えて
「あと数時間でプラハですね」
と言った。
「嬉しそうね。声が弾んでるわ」
「ええ、まあ、そう聞こえても仕方がないと思いますが。アダムさんはまだ暫く帰られないのですよね」
そう言われて、レンカは一昨日アダムに甘えてしまった話をしようかと迷ったが、結局黙っていることにした。せめてエミルの前では、もう少し格好つけていたい。
「のんびり掃除でもして待つわ。家が大きいから掃除のしがいがあるの。どうせ私にできる家事なんて、掃除洗濯くらいなんだから。今週いっぱいは私もあなたも休暇にしましょう」
レンカはそう答えてエミルに微笑みかけた。
それから二人はこの数週間離れて仕事をしていた間に起きた出来事の報告をし合って時間を潰しながら、プラハを目指して車を走らせた。
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【地図】
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