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12月のニューヨーク 最高のクリスマスプレゼント

                                  

1992年12月、私は友人Yちゃんとニューヨークシティを訪ねた。大吹雪の中、強い横風に煽られながも、2人を乗せた飛行機はジョン・F・ケネディ国際空港へ無事着陸した。タラップから降りると一面銀世界が広がり、膝丈まで積もった雪がブーツの中まで入りこむ。経度が日本の青森あたりだというニューヨークの堪える冷気が、ただでさえ寒さに弱い私の心を一瞬砕けさせるが、それ以上に熱く膨らみ切ったこの大地への期待がすぐに私を前へと進めさせた。初めてのニューヨークだった。就職も決まった大学4年、仲の良い女友達とのプレ卒業旅行である。

私達は真っ先にロックフェラーセンターのクリスマスツリーに向かった。高さ30mの巨大さに圧倒され、続いてオードリー・ヘップバーンの映画で有名になった5番街のティファニー本店へ。一番安いシルバーのネックレスであるティファニービーンズを購入した。ありがたいことに、どのお店もクリスマスセール中だったので、貧乏学生なりにあれこれ買い物を楽しんだ。その後は、自由の女神、エンパイヤーステート・ビルディング、セントラルパーク、ブルーノート、メトロポリタン美術館、ミュージカルも観たし、さらにはMOMAミュージアム、ソーホーの現代アートを堪能。ついでに私が内定をもらった会社の本社があるワールド・トレードセンター(現在のグランドゼロ)を訪ねた。しかし一番印象的だったのはホテルから眺める摩天楼の美しさだ。

マンハッタンはひっきりなしに消防車やパトカーのサイレンが鳴り響いていたが、私達はお構いなしに、夜、ホテルを抜け出して、マンホールから立ちのぼる湯気を眺めながら散歩した。帰国後、ニューヨークに住んだ人に話したら、なんと危険なことを、と呆れられた。夕方以降、つまり暗くなってから外を歩いたり地下鉄に乗ったりするのは自ら望んで虎の巣穴に潜り込むような自殺行為だと言われた。
1992当時のマンハッタンは現在と比べると相当治安が悪かったのだ。
1980年代から90年代にかけて、ニューヨーク市は犯罪が伝染病のように蔓延し、平均して年に2000件以上の殺人事件と60万件以上の重罪事件が発生していたのだった。
よほど自分をしっかり持っていないと危険な街。だが、この土地の持つ刺激や多様性、自由に満ち溢れたエネルギーなど、どこの都市にもない魅力幻惑された私達は、若さもあって、まるで気付いていないのだった。

こうして滞在期間中、おのぼりさんが思いつく限りのニューヨークを体験をしたのだが、旅の終わりが近づいても、まだやり残していることがあった。それは・・・・・・

話は4年前、広島での浪人時代に遡る。

その日、私は広島駅で降りて予備校に向かっていた。すると、外国人観光客のカップルが、道に迷っているようだったので声をかけたのである。彼ら夫婦は、ニューヨーク・メトロポリタンオペラでコーラスの仕事をする歌手であり、公演のために広島に来ているのだが、半日フリーになったので、どこに行くか迷っているという。そこで私は、英会話のちょうど良い練習にもなるし、塾になんとなく行きたい気分でもなかったので、1日ツアーガイドのボランティアをすることにしたのだ。
平和公園、原爆資料館、原爆ドーム、縮景園、広島城を案内し、お好み焼き、もみじ饅頭を食べてもらった。ザ、ヒロシマという定番コースを辿りながら、お互い色んなことを話した。彼らが住むニューヨークはどんな街なのか、コーラスの仕事にはどんな苦労があるのか、そしてどんな映画や音楽が好きか。私も、オペラは分からないけど指揮者はカラヤン、それとボサノバのジョアンジルベルトがお気に入り、映画俳優ならハンフリー・ボガードが理想の男性だと話した。

楽しい時間はあっという間に経ち、次はニューヨークで再会しようという約束をして別れた。

そして、今、私はニューヨークに来ているのだ!

ところが教えてもらった住所のメモを紛失してしまい、覚えているのは名前だけ。電話帳、いわゆるイエローページN Y版に載っている電話番号を頼るしかない。ご主人の方のファーストネームはジョンなので、これは星の数ほどいたが、ラストネームが珍しい。だがそれでも同姓同名となると、ニューヨークシティ全体では100人以上はいるし、マンハッタンに限定しても30名人程度にしか絞れない。滞在期間も残り少ないし、ここはとりあえず、彼らがマンハッタンに住んでいると信じて、しらみつぶしに電話をかけることにした。そしてついに奇跡が起きたのだ。

確か、20番目くらいにかけた相手に自分の名前を伝えたら「Yukiko!Oh,my God!」と叫んですぐに思い出してくれた。広島での思い出話に花が咲いた。が、とにかく電話ではもどかしい。翌日フリーの時間があるので、ティータイムに自宅に招待したいという。友人Yちゃんとは夕方までお互い自由行動することにしていたからちょうど良い。早速会う約束をした。

教えられた場所は、滞在しているホテルからも近く、セントラルパークをはさんで西側に位置するアッパーウエストサイドの高層マンションだった。私は久しぶりの再会に胸を躍らせながら、マンションの呼び鈴を押した。そこにはジョンと、見知らぬ男性がが立っていた。初めは、ジョンの知人か親戚だろう、奥さんは中でお茶の準備をしているに違いないと思ったが、なんと私を強くハグをした後、最初に彼が発した言葉は「I am Sorry」

奥さんとは離婚してしまって、今は横にいる彼と付き合っているのだという。
え?彼と?つまり・・・・・え?混乱する頭で懸命に整理する。
女性と結婚した後、自分がゲイだと気づいて人生を歩み直す話は、今では日本でも聞くけれど、90年代初頭、まだ平成が始まったばかりの時代で、しかもこちらは社会人にもなっていない小娘である。つい、うろたえてしまったが、テーブルについて、紅茶を飲みながら、仲睦まじい2人の様子をみていると、だんだんこちらも落ち着いてきた。
奥さんと会えなかったのは残念だし、だからこそジョンもまず「I am sorry」と謝ったのだろうが、ジョンが幸せそうで良かったと心から思った。
まだ20代前半の日本人の女の子に同性愛をカミングアウトするのは勇気が言っただろうけれど。真の幸せを生きるためには自分に正直に生きることだということを彼から教わった気がした。

そしてサプライズは、それだけではなかった。
「君に渡したいプレゼントがあるんだよ」とジョンが渡してくれたのは、リボンがかけれた綺麗な包み。アメリカ風にその場で開けてみれば、それは、広島で会った時、私の理想だと話したハンフリー・ボガードの写真集だった。
「いつか必ず訪ねてきてくれると信じていたから、ずいぶん前に買っておいたんだよ」と。
確かに、突然電話したのは昨日の夜のことなのだ。とても用意する時間なんてなかっただろう。
私は、「Thank you」と言い写真集を抱きしめた。いや、私が抱きしめたのはジョンの4年分の優しさだった

最高のクリスマスプレゼントだ。

彼は、もう一つスペシャルなプレゼントをしてくれた。立見席ではあったが、なかなか取れない貴重なメトロポリタン歌劇場のチケットである。しかも、ジョンがコーラスで出演するという。ニューヨーク最後の夜はメトロポリタン歌劇場でのオペラ鑑賞で締めくくった。

毎年クリスマスが近づくと、1992年の12月のニューヨークを思い出す。
そしてハンフリー・ボガードは今も私の本棚で微笑みかけてくれている。

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