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「批判」よりも「感謝」
「批評」「批判」「評論」「討論」など、似たような言葉がいくつもあるが、中「批判」は否定的な意味合いが強いので私は苦手だ。だから、自分が発信するSNSでも極力、「批判」することを避けてきた。
しかし、敢えて今回は「批判」をテーマに書きたいと思う。
今、真っ先に思い浮かぶのは「ロシアのウクライナ軍事侵攻」に関して。
現在「戦争反対」とロシアを批判するのは簡単だが、果たしてそれで良いのだろうか?日本はアメリカ、EU諸国サイドなので民主主義が当たり前で正しいと思ってるが、ロシアや中国、北朝鮮からしたら、そうじゃない価値観だから難しい。日本のニュースで流れてるのを鵜呑みにするのではなく他国のメディアがどう取り上げているかもチェックして、さらには双方の立場に立って考えてみたり、様々な角度からリサーチし、勉強をしてからではないと、正直恐ろしくて生半可に批判などできない。しかも私達一般人に知らされることのないトップシークレットの裏事情だってきっとあるはずなのだ。
政治に限らず、今は多様性の時代だ。いろんな考え方があって良いし、それを受け入れられる自分がいる。まあ、そんな考えがあってもいいじゃない。全て受け入れようよ。私は私、貴方は貴方だ。なんでもありだよ。
そう息子に言ったら「そんな呑気なことを言って。世の中に批判する人がいなくなると、独裁者ばかりになっちゃうじゃないか。だから、いつの時代も批判する人は必要なんだよ。」と返ってきた。
私は、全ての人たちが多様性を受け入れて自由に生きることができる天国のような世界が、いつの日か訪れる日が来ると思っている。何故ならば人間は長い歴史をかけて、同じ過ちを何度も繰り返し、学び、少しずつでも進化しているからだ。
しかし、夫も「お前のように呑気なことを言っていても、何にも解決しないんだよ。ジョンレノンみたいに「イマジン」を歌って理想論を語っても、この世の中は良くならないんだよ。戦争だって終わらないんだよ。世の中はそんな単純じゃない。」と言う。
夫と息子から言わせると、私の考えは非論理的で、非現実的だそうだ。
いつもこうやって夫と息子から「批判」されている。
しかし、こんな私だって若い頃は、あらゆることを批判してきたし、今でもその気持ちが消えたわけではないが、以前のように、少々のことでは腹が立たなくなったし、許せるようになった。
つまりは、年齢を重ね、少し丸くなったわけで、それを自分では進化だと思っている。
というのも若い頃、「批判」したために、危機一髪のところで命拾いした事件があったからだ。
あれは大学1年生の時だった。友人に誘われてビリージョエルのコンサートに行った。会場は横浜アリーナであった。コンサートがスタートしてから暫くしたら、立ち上がって鑑賞するのがお決まりの流れ。それがアーティストへのリスペクトの表れでもあるからだ。
その日も、みんな一斉にスタンディング。
すると、突然「立つんじゃねえよ!」という罵声が響いた。その声を発したのは、すぐ近くに座っていた柄の悪そうなカップルだった。周りにいた者たちはその声に萎縮し、みんな素直に座った。ところが、そのバカップルは、ずっと立ったまま手拍子を打ちながら盛り上がっているのだ。それなのに、誰1人として文句を言わないで、皆言われた通りじっと座って鑑賞している。
私は、この理不尽な状況に納得できず、コンサートの間中ずっとモヤモヤしていた。そして腹の虫がおさまらず、コンサート終了直後にバカップルのところに駆け寄った。
「あの!すみません!周りに座れと命じたくせに、自分達だけ立って鑑賞して、それっておかしくありませんか?矛盾してますよ。注意したからには、一緒に座って鑑賞するべきでしょう。しかもあなた達のせいで雰囲気ぶち壊しです。周りのみんなに謝ってください!!」
すると女の方が言った。「この女、頭おかしいんじゃない?」
「頭おかしいのは、あなたでしょうが?」
言い返した途端、男の方が、すごい形相で私を睨み付けてきた。
気がつくと私は一瞬宙に浮いていた。
胸ぐらを掴まれたのだ。
「はあ〜?お前、一体どこの組のもんじゃ?」
私は意味が把握できずキョトンとして、思わず「1年D組です」と大学のクラス名を答えそうになったが、少し経って彼らが暴力団関係者なのだということに気づき凍りついた。
その瞬間、友人の「逃げろ!!」の声が響いた。私たちはなりふり構わず一目散に逃げた。
11cmのハイヒールを履いて、全速力で走ったのは後にも先にもこの時だけだ。
帰り道、友人から説教された。
「筋の通らない人間に何を言っても無駄。どんなに正しいことを主張しても、それで命を落とすほど勿体無いことないよ。例え理不尽でも自分の身を守るためにはスルーした方が良いことは、この世の中沢山あるんだよ」と。
あの時殴られるか首を絞められるかでもしていたら、翌日のワイドショーか新聞の3面記事に載っていたかもしれない。私は確実に命拾いしたのだ。世間知らずにも程があることを私は学んだ。だからこそ今こうやって、生きてこられた。
そういう意味で、私が「批判」したあのカップルには「感謝」しかない。
世の中には理不尽ことで溢れている。それでも人は様々なことに折り合いをつけながら生きている。普通に起きて、生活して、安全に眠りにつけることができるとしたら、もうそれ自体が奇跡のようなものなのだ。
それに、あのカップルにも、あんなに暴力に頼れなければ生きていかなかった事情があるかもしれない。それが彼らの価値観をうみ、人生を決めてしまったのかもしれない。
今日、「ならず者国家」と呼ばれる国々も、同じだ。そこには長い歴史があり、地理的な状況があり、そのようにしか命を守れなかった人々がいて、民主主義陣営をは異なる価値観を育まざるを得なかったのだろう。
人生は気づきと学びの連続だ。そして進化していく。しかしながら全員その度合いが違っているから、様々な「批判」「争い事」が起きる。自分と違う価値観に触れた時、誰しもが、自分たちの世界観で生きているのだから、先ずは相手を受け入れるところから始めたい。
どんな時も、「批判」より先に、「感謝」の目で相手を見ることができたら、この世の中は変わっていくのではないか。
私はそう信じている。