正義とは
そういうことをよく考える。
正義、あるいは正しさ、真実、真正さ、答え、本物、当たり前。「これは疑いようもない正義だ」と言えるものが果たしてこの世にあるのだろうか?
最近の私の答えはもっぱらNO、というか、正義は人の数だけある。一人ひとりが正義を持っていて、一人ひとりの中にしか正義は存在しない。普遍的な正義なんてどこにもない。
先日、Twitterでダムカレーについての騒動を見た。復興を頑張っていてダムカレーを不謹慎だと思う人と、ダムを盛り上げるために頑張ってダムカレーを作ってそれを愛している人と、どっちが正しいとか間違ってるとか無いだろう。それぞれがそれぞれの正義だ。
正義が一人ひとりのものなら、それを誰かに分からせる必要なんてどこにもない。
私は、やたらめったら「嫌い」を主張する人が嫌いだ。
矛盾が発生しないように、やたらめったらにならないように何で嫌いかをちゃんと説明すると、「嫌い」は誰かを傷付ける言葉だからだ。何で傷付けるかと言うと、まず「嫌い」と主張することは、嫌う対象が持っている正義とは別の正義を掲げるということだ。そして、正義とはナイフみたいなものだ。やたらめったら「嫌い」を主張して正義を押し付けるとき、それは相手を傷付ける。
対して「好き」が人を傷付けることはあまりない。「好き」と主張することは、対象と同じ正義を掲げることだからだ。
「好き」も「嫌い」も自分では選べない。説明できない「好き」があるように、説明できない「嫌い」がある。
それでも「嫌い」が人を傷付ける以上、「嫌い」を主張するなら覚悟が無いとダメだ。相手を傷付ける覚悟、反撃される覚悟。その上で、できる限りの説明をする。説明できないなら、説明できないことを説明する。正義を、ナイフを、押し付けるのではなくて、それがどのようなものなのか、どうして自分がそれを相手に向けるのか、丁寧に示さないといけない。
逆の立場になった時、自分が好きなヒト・モノ・コトを嫌いだと言われた時のあの寂しさ、悲しさ、辛さ。どうしてあなたは私を傷付ける?あなたの正義は何だ?ちゃんと説明してくれって思う。
別にいい、嫌いでいいんだ。でも何故わざわざ私に言うんだ?あなたの正義を押し付けてきた理由は?ちゃんと説明してくれって思う。
そうして勝手に傷付いた私は「こんなことになるなら黙っていよう」と思うようになった。相手の正義を分かったふりして、自分も同じ正義を持っているふりして「うんうん、そうだよね」と言っておけば、何事もなくその場は過ぎ去る。ダムカレーが許せなくても、ダムカレーが大好きでも、私は何も言わない。「それが大人ってモンでしょ」なんて思うようにして、でもそんなのは後付けで、本当は怖くて面倒くさいだけだった。
でも、それじゃダメだ。だってキング牧師が言っていたのだ、“最大の悲劇は善人の沈黙だ”って。
私は多分キング牧師の言うところの善人ではないし、私に「嫌い」を押し付ける人は悪人ではない。でも、他でもない私自身にとって私は善人でなくてはならないのだ。私の正義を守れるのは私だけで、私にはそれを守る義務があるのだ。
普遍的な正義が存在しない以上、自分ひとりの正義を主張することに何の意味があるのか分からず、むしろそれこそ正しくないことであるような気がして、沈黙こそがかっこいい、沈黙こそが私の正義だという結論に至った。でも、それは逃げであると感じている自分もいる。じゃあ私はどうしたいんだろう。
自分の正義を押し付けたくない、誰かの正義を押し付けられたくもない。でも、自分の正義を分かってほしいし、相手の正義を分かりたい。
それを人は愛って呼んでるんだろう、多分。ポルノグラフィティもそういうことを歌ってたから多分そうに違いない。
私がこうして正義についてネチネチネチネチ考え続けるのは、結局普遍的な正義の幻想に囚われているからだ。どこかにそういうものが、この世界の全員を頷かせることができる正義が存在してるんじゃないか、いやしていてほしい、だってそうじゃなきゃ何を信じて何を言い訳にして生きていけばいいのか分からない。
でもそんなものは無くて、正義は自分の中にしか無くて、自分の中の正義を信じてその責任は全部自分で取らなきゃいけないんだ。そんなこと3歳くらいで気付く人もいれば、死ぬまで気付かない人もいるんだろう。尤も、気付いただけでは意味がない。実践していかなければならない。
それが一番難しいんだよねって思いながら、私は今日もアサヒスーパードライを飲んだ。それが私の正義だけど、この世にはプレモルが正義の人もいれば、一番搾りが正義の人もいる。それでいい、あなたはそれを飲む、私はスーパードライを飲む。でも一緒に飲もうよ。それで気が向いたら私のを一口飲んでほしいし、あなたのを一口飲ませてほしい。
まずはそこから始めよう。
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