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【田舎暮らし編②】生活の中で考えた水の本当の力

若かりし頃に経験したUmeの田舎暮らし。
 
最初は勝手がわからず混乱の極みでしたが、慣れるにしたがって徐々にオタク気質が顔を出し、ライフスタイルはお洒落な田舎暮らしのはるか斜め上をいく縄文生活に突入ww


あんまり詳しくお伝えするとみなさん引いちゃうので、noteではサラっと上澄みだけを書かせていただいております。
 
今回はディープなナチュラル生活を通じて、水に対しての考察を深めていく学び編を書いていきます。


▶生活スタイルの変化と共に意識や視点が変化する
 
火や土や水に近すぎて、世界を構築している全体意識から抜け出てしまったのかは不明ですが、当時は感覚がとても冴え、自然との境界線があいまいになることも多々ありました。

 
水を汚さないことを意識的におこなったためか、水に対しての親近感も素直に湧き出てくることがたびたびあり、ありがたいなぁ~という想いは感謝というより 、

“一緒にいてくれてありがとう!”

の方がより近く、水にも意識があってお互いに寄り添って生きている感じがありました。
 
昔の人は洗剤という概念がなかったため、洗濯は水でが当たり前で、水も充分それに応えてくれていたのだと思います。
 
そんな気持ちを持てたこと、水をきれいに使うこと、汚さないこと。
たったそれだけを意図的に生活の中で実践するうち、いつしかそれは当たり前のこととなり、洗濯することに対して持っていた罪悪感は消えていました。

Umeたちの生活は、見た目は縄文化していてちっともお洒落ではなかったのですが、充足感だけは半端なくあり、精神的にはかなりの豊かさがありました。
 
なぜかというと、それはたぶん自分たちの生活が、自分たちの手で完結するからだったとおもいます。
 
 
この充実感は初めて経験するもので、「生きる」という本能を五感総動員で、“いかに無駄なく現状にあるもので完結させるか” を考え、工夫し、行動することが楽しくて仕方がないことからうまれたものでした。
 
時間はかかるけれど、やろうと思えば生活道具の大体のものが自分たちの手でつくりだせてしまうことも驚きでした。
 
 
【例その1】
染色の場合
もともとある既存の無地のストールを染めるだけの場合だとすぐ飽きてしまいのめり込むことはない・・・➡でも布を織ることも含めると面白いかも➡織機も作れるらしい!実際、設計図まで手に入ったときは布を織る仕組みまでわかって興奮した。
 
こんな感じです。
 
 
現代に生きる私たちは、すべてが受け身で、すべてができ上っている社会に生きているのが普通で、目の前にあること、言われることにはあまり疑いを持つことはありません。
 
そこから、ぽんと抜け出して、自分でやらなければいけない世界に飛び込んでみたら、最初は右往左往してしまいましたが、『生きていく営み』って実はとってもシンプルでした。
 
物つくり、手仕事は原点からの派生や展開なので奥が深く、自分で作るとその仕組みや構造も理解でき、ついでにこの世界の仕組みも見えてくるという面白い世界なのでした。
 


徹底して実践したのは、ゴミを出さない生活と水を汚さないこと
 
徹底してやったことは、たった二つ。ゴミを出さないこと(減らすのではなく、)と水を汚さないことだけです。しかし何かを買うと必ずゴミが出る現代では、これを実際実行するのはなかなか大変なことでした。
 
何しろ、出たごみはすべて自分たちで燃やさないといけないので、その労力と時間節約のため、購入するものはとても気を付けるようになりました。
 
一番燃えなかったのは使用済みの紙おむつです。あのジェル状は手に負えず、当時3歳前だった次男は強制的におむつを外し、裸育児をやむなく強行でした。
 
最終的に自分たちの手で完結するということは、チョイスするものの最終責任を負うことにもなるので、新しいものを購入するときもおのずと選択肢が決まってきます。
木製品にしたり、パッケージのないものを探したり、当時からエコバックは必ず持参していました。

当時愛用の買い物かごはコレ。今ではネットで手に入る・・・

水に関しては排水をきれいにすることを意識するようになってから、このきれいな排水が、他に循環する仕組みもできるのではないかと色々模索していて、たまたま隣町にパーマカルチャーの翻訳者がいると紹介され、話を聞きに行ったりしました。


排水が目に見えるということは、生活者の意識を変えます。
 
清らかな生活排水は畑を潤す水となるのではないか、掃除にも使えるのでは、と実益と工夫を絡め、アイデアを考えるのは楽しいことでしたが、当時はまだまだ水に対して浅い知識しか持っていませんでしたので、リサイクルやエコ的な面での活用にしか意識はいっていませんでした。
 
今でしたらその水を利用して発酵の世界にも想いを馳せたと思いますが、それはディレカに出会ってからのちにUmeが目覚めた世界です。
 
 
渦と螺旋運動と水の関係
 
田舎暮らしでは、自分の時間だけは膨大にありました。その時間を、毎日の手仕事と読書にひたすら費やしていました。時計もカレンダーも気にしない、興味のないこと以外は関わらない、ほぼ世捨て人状態です。
 
週に1度は隣の県にある図書館に通い、目につく本を片っ端から借りて読み漁っていました。人生でこんなに本を集中して読める時期は今しかないと自分に言い聞かせ、時間の束縛を受けず好きなだけ本を読み、入ってくる情報は目に見える景色と本のみという生活が約5年ほど続きました。
 
そんな中でUmeが得たのは、自然界に存在する渦の知識でした。
 
ディレカのホームページにも少し書かせていただきましたが、宇宙は渦と螺旋運動ででき上っているといっても過言ではありません。
 
当時はこの世界が螺旋でできていることに感動し、そんなことだけで世界の秘密を垣間見たような気になっていましたが、そこからさらに知識が進み、螺旋運動がもたらすエネルギーにまで意識が届きだすと、水の姿はまったく別のものとして映りはじめていきました。

水に螺旋運動をさせると何が起こるのか。ここでまたシャウベルガーに登場してもらい彼の言葉を引用させていただきます。
 
 
“水はあたかも光と熱から自らを守るような性質があり、川においては内側に巻く縦方向の渦巻きが流れの中心軸に生じ、川の蛇行に応じて右回りと左回りに交互に動く。内向きに螺旋を描く渦巻き(=求心的螺旋運動)には温度を低下させる性質がある。このように複雑な水の動きによって、水は絶えず冷却されて健全な温度を保ち、より速い、層状の螺旋流を形成して不要な物質を取り除いたり、変換したりする“
 
 
少しむずかしいかもしれませんが、螺旋運動には右巻きと左巻きがあります。求心的螺旋運動と遠心的螺旋運動です。
 
ドライバーでねじを回すとき、右に回すとキツクなり、左に回すと緩くなる、これが求心力と遠心力だと思ってください。
 
ホームぺージには詳しく書きませんでしたが、水に右回転の渦運動と左回転の渦運動を同時に生じさせると、その中心の主水塊には縦方向の求心的渦運動が生じます。すると水流は従来のものよりも速くなり水は冷却されます。ディレカにもこの二重螺旋渦構造が搭載されています。
 
水は温度が変わると密度が変化するので重さが変わります。お風呂に入ったとき、熱いお湯は上に行き、下は冷たい水という経験をされたことはありませんか?水は冷たくなるほど密度も増し重くなるからです。

さらに、水は冷却された方がそのポテンシャルを上げるという特質を持ちます。
 
 
“冷却された水は加速して重くなり、比重の軽い外側の水を引っ張りながら進む。さらに主水塊の求心的螺旋流からは酸素が引っ張り出されて水道管の内壁に追いやられる。あらゆる微生物は内壁側に移り、病原菌はそこで濃縮された攻撃的な酸素によって取り除かれ、質の高い微生物は高レベルの酸素を必要とするので生き残るのだ“
 
 
シャウベルガーのこの発見は当時の科学界ではまったく無視されました。おそらく現代でも同じだと思います。この意味を理解できる人も少ないかもしれません。
 
 ディレカも自然の川と同じ求心的渦運動と遠心的渦運動が内部で同時に起こっています。
 
ディレカを通った水では嫌気性の菌がなぜ増えないのかといった現象は、主水塊の求心的渦運動によるものともいえるかもしれません。
 

▶昔の水筒は丸かった
 
ゴミ問題最前線にいたため、揃えるものが徐々にレトロなものなっていくのは仕方ないことではありましたが、昔のものは先人の知恵がたっぷり詰まっていて、感動を通り越し、感慨深い境地に誘うものが多くありました。

水に限っていえば、昔の水筒は真ん丸の形が当たり前でした。もっと昔になるとひょうたんが水筒でした。
 
これは渦運動の視点からみれば最高の形といえます。持ち運んでいる限り揺れで常に中の水は動きますが、形が卵型に近いものであればあるほど、水は内部でぐるぐると螺旋を描きます。水は螺旋状に渦をまくことができてはじめて活力とエネルギーを維持することができるのです。
 
長い道中であれば、水は常に活性化されていた方がよいに決まっていますから、渦運動によって水はエネルギーを得て腐らず、携帯するにはぴったりだったと思います。

 
 
私が敬愛してやまないミズモリ先生の著書です。 茫漠としていた私の中途半端な考察に
膨大な知識と経験で輪郭を与えてくれました。 何度読んでも発見があります。




 
 


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