母の退院を待つように旅立った父、最後の頑張り〈介護幸福論 #24〉
「介護幸福論」第24回。脳出血で救急搬送され、胃ろうで命をつないだ父は、数カ月後に息を引き取ることに。母は入院していたが、なんとか父の葬式に間に合った。退院したのは父が亡くなる2週間ほど前のこと。グッジョブだぜ、おとうちゃん。よく頑張った。
■葬式で本当に必要なマナー
お葬式のマナーを、あれやこれやと講釈しているテレビ番組を見た。
香典の水引は何色が正解ですとか、香典に入れるお札は新札を避けましょうとか、どうでもいい些細なしきたりをクイズで答えさせ、マナーの専門家らしき人が真面目な顔で解説していた。
しかし、一度でも葬式を取り仕切った経験がある人なら、違う感想を持つのではないだろうか。
葬式で大事なマナーは何か。香典を渡す人は、必ず郵便番号まできちんと記帳することだと提案したい。
住所と名前だけ書き、郵便番号が抜けている人は、あとから香典返しやら何やらの際に、いちいち不便で面倒くさくて仕方がない。水引の色だの、お札の向きだの、ほとんど誰も気にしない決まりよりも、こっちのほうがよっぽど重要だと思う。
香典の金額も、なるべく香典袋に書いて欲しい。誰にいくらもらったのか、注意してメモしておかないと、お金を香典袋から出した時点でわからなくなってしまう。
この辺は葬式に慣れた人なら常識なのかも知れないが、初めて喪主に回った者は効率の良い手はずもわからない。参列者は些細なマナーより、相手に手間を掛けさせないよう気を遣いたい。
■臨終の夜
脳出血で救急搬送され、胃ろうで命をつないだ父は、数カ月後に息を引き取った。
臨終の夜、特別に悲しいという感情はこみ上げてこなかった。病院からの連絡を受けて駆けつけ、最期の瞬間に間に合ったような、間に合わなかったような。死亡確認の手続きはぼくが到着してからやってくれたが、たぶん着いた時にはもう亡くなっていた。間に合ったところで会話を交わせるわけでもなく、そこに悔いはない。
死までの準備期間がありすぎたせいなのか、ご苦労さまという気持ちが強く、やっと区切りがついたというのが本音だった。
葬儀はどうやって取り仕切ればいいのか。父が亡くなったことを、誰にどうやって連絡すればいいのかも見当つかなかったが、教師だった父には教職員の組合のネットワークがある。校長のOB会のような組織もある。親しかった人ひとりに連絡しただけで、あとは何もしなくても葬儀に多数の方々が集まってくれた。
兄の会社からは立派な花輪がいくつも届いた。長男である兄は大企業のサラリーマンだから、こんな時に助かる。
教職員のネットワークも、大企業の花輪も、おそらくは社会の仕組みのひとつなのだろう。誰かひとりに知らせれば、人が集まり、人が動いてくれる仕組みになっている。
一方、こちらはフリーランス。父に届く花輪もない。いや、ぼくも仕事先にきちんと連絡をすれば届いたのかも知れないが、どこにも知らせていないから届くはずがない。
おそらくぼくの葬式は、誰かに知らせなければ誰も来ない。ひとり暮らしだから、死に気付いてもらえるのかさえ、本気で心配だ。こんな経験をするたびに、まっとうな職業と、半端者の職業との差を感じてしまう。
■母は間に合った
母も、どうにか葬式に参列できた。車いすに座り、短い時間ではあったけど、訪れた人たちに顔を見せて、あいさつができた。
この場に母がいなければ、父が生前お世話になった人たちを知る遺族は誰もいない。間に合って良かった。
母が身体を起こせるようになり、退院したのは父が亡くなる2週間ほど前のこと。結局、約半年もの間、病院のベッドで寝たきりの生活を送った。
そして長年連れ添った伴侶が自宅に帰るのを待っていたかのようなタイミングで、父は旅立った。
グッジョブだぜ、おとうちゃん。よく頑張った。
父が息を引き取った夜。チューブやら針やらをみんな外してきれいになった父を霊柩車に乗せ、自宅へ連れて帰った。
真夜中だったが、なきがらと対面した母は大きな声をあげて悲しんだ。
その瞬間の母の取り乱した姿が、父の死にまつわるぼくの一番の記憶だ。
*プロフィール
田端到(たばたいたる)。1962年、新潟県生まれ。大学を中退後、フリーライターに。競馬や野球を中心に著書は50冊以上。競馬の分野では「王様」の愛称で知られる。ほかにテレビドラマや映画のセリフ研究家、アスリートの名言コレクターの肩書きを持つ。両親の介護をするため、40代後半で帰郷。6年間の介護生活を送る。
ツイッターアカウント:https://twitter.com/4jkvvvypj6cdapf
※本連載は毎週木曜日に更新予定です