画一的で全員同じ宿題
宿題が苦手
私は、小学校時代、宿題をほぼ1回もやらなかった。理由は特にない。真っ暗になるまで外で遊び、帰ってきて晩ご飯を食べ、テレビを見て、風呂に入り、寝てしまう。宿題が出ていることは認識している。ただ、どうしてもやる気が起きないのだ。「宿題はないの?」と言う母親の声に「今やってるよ」と、学習机で漫画本を読みながら答える毎日。
殴られても
翌日、学校で先生に殴られる。立たされる。しかし、それでもやらない。計算ドリルの宿題が出た翌日、授業中に答え合わせ。私は答えの書いてない真っ白なドリルに赤ペンで丸をつけ始めた。小2にしてはなかなかの詐欺行為だ。それを見た先生が「おっ、今日はやってきたのか?」と覗きに来て、真っ白なドリルについた赤丸を目にした瞬間、烈火の如く激怒した。まさに激しい怒りだった。
小学3年生のとき、担任の先生が「お前を殴る手が痛いから、今日からこれだ」と言って、教卓の後ろから細長いビニール袋を取り出した。中から出てきたのは金属バットだ。その日から平手打ちはケツバットになった。おかげで人より尻がデカくなった。
勉強した記憶がない
机に向かって勉強した記憶も、ほとんどない。向かうことは向かうが、聴きながらのラジオに集中してしまうか、何故か近くにある漫画本を読み漁るか。勉強は学校の授業と塾での時間の強制的な時間だけ。中学でも高校でも、大学浪人中でも、その姿勢は変わらなかった。だから、浪人時の受験も滑り止め校に続けて落ち、マークシートの学校だけ、どうにか受かった。
わかってはいるのだが・・・
やらないとダメなのは、分かっている。何度怒られても殴られても、変わらない。単なるサボりなのだが、ここまで来ると「俺は本当にバカなんじゃないか」と我が身を疑ってしまう。
しかし、理由がわからないのだ。「どうして俺は宿題をやらないのだろう」。やらなくちゃいけないのはわかっているのに、どうしてやらないのかが分からない。
この謎はノーベル賞クラスの難問だと思っている。答えは「めんどくさいから」に決まってるんだろうが、毎日怒られたり、ぶたれたりすることがわかってるのに、どうしてもできない。「痛みや苦痛とのトレードオフで、僕はやらないほうを選択しているんです」というわけでもない。
息子も、私と全く同じである。家内は「宿題が出てるのに、なんでやろうとしないのか、意味がわからない」と日々嘆く。
しかし、こちとら「俺もなんでやらないのか、わからないんだよ」である。なぜやらないかはわからないが、息子がやらないのはわかる。私がそうだったから。
そう家内に話したら「なに、堂々と開き直ってんの!バカじゃない?」と火に油を注ぐカタチとなり、炎上した。
そりゃあ、やる人にはわからんでしょう。僕たちやらない人の気持ちは・・・
宿題とは?
前もって示しておいてやらせる課題。学校などで、家でして来るように出す問題。比喩的に、後に解決の残されている問題。
グーグル日本語辞書に聞いた回答が上記。「後に解決の残されている問題」という言い回しは深い。
この言葉を借りれば、宿題をやらない理由は「いま僕がやらなくても、のちに誰かが解決してくれるから」とも言える。
学校の先生には、まったく通用しないだろうけど。
画一的をやめてはどうか?
例えば、夏休みの宿題。絵日記/漢字ドリル/計算ドリル/自由研究、を全部マストにするのではなく、4択あるいは2択にするのはどうだろうか? 苦手なもの一つ、得意なもの一つ、ぐらいでいいと思う。
本当は「得意なものを一つ選んでやる」のがいいと思う。子供のうちは、好きなことに没頭させる時間がゲーム以外に必要。勉強・課題で、ちょっとでも「好き」「興味がある」ことなら、それを徹底的にやらせる。そうすると、間違いなく身につく。嫌々のものは、勉強でもなんでも、結局身につかないし、将来なんの役にも立たない。
特に自由研究などは、個人でやるのではなく、チームでやるのもOKとする。なんせ「自由」研究なんだから、題材はもちろん、研究手法も自由でいいはず。
日本からも、ジョブスやベゾス、ザッカーバーグを輩出したいじゃないですか。