"Mare Nostrum III, JazzBaltica 2019 Official Live"から読み解くアカデミック・ジャズの在り方
その昔私は "和製 シャンソン & カンツォーネ" なる業界に平然と君臨し、分不相応とも知らずにかなりの鼻息で威張り散らしながら生きていた。
たかだか伴奏者の端くれだと言うにも関わらず、当時はその業界では全ての老舗に出番を確保した‥ と言うだけで、天下を取ったみたいな勘違い甚だしく、今となってはとても恥ずかしい限りである(笑)。
だがその時代は私にとって闇と空白の時代でもあり、仕事中の休憩時間になると寸暇を惜しんで近くのCDストアーを駆け回り、その日その週その月にリリースされた多くの海外の音楽の見本盤を聴き漁り、気に行ったCDは必ず購入して行った。
Verginメガ・ストアーズ 新宿店、渋谷は世界の民族音楽を扱っていた "エルスール・レコード"、HMV渋谷店、TOWER RECORDS 渋谷店、新星堂 吉祥寺店、新星堂 新宿店‥、この他にもまだまだ沢山のCDストアーを駆け回り、伴奏が本業だったのかそれともCD探しが本業だったのかすら分からなくなる程音楽と言う音楽にのめり込んでは片っ端から聴き倒して行ったものだった。
和製ジャズ業界が当時から余りに体たらくだったことが原因なのか、私は兎に角ジャズが大っ嫌いだった(笑)。
何でもかんでもテキトーにスイングさせればそれで良し‥ みたいな馴れ合い感覚にどうしてもついて行けず、少しずつジャズとは距離を置くようになった。
シャンソニエでジャズ歌手と出番がアタってしまう時程憂鬱なものはなく、兎に角一曲が最短のタイムで終了すれば良いとさえ思っており、アドリブパートも極力短く最低限の長さで終えられるよう歌手に「私、アドリブが出来ないので‥」と嘘を言いソロパートを回避出来る限り回避したものだった。
業界の中に居るとどうしてもその世界の欠点だけが目立って視えるようになってしまうもので、当時の私もそうやって多くの音楽を拒絶しながら生き長らえて来たのだろう。
その業界を離れてしまえばなんってことのない些細な粗がどうしても許せなくなり、結局キューバン・サルサもタンゴもボサノヴァもジャズもシャンソンも、何一つ愛せないサポート・ピアニストに進化したまま2011年の冬の或る日、同業のカンツォーネ歌手にこの世界に入って最大の嫌がらせを受けたことが原因で、業界を完全撤退した。
折角シャンソンと言う世界に深く入り浸っていたのに、その業界でかなり身近に居たボタン・アコーデオン奏者の 桑山哲也 氏とも余り上手く交流が出来ないまま今日に至るが、その理由がこの記事のテーマとなるYouTube "Mare Nostrum III (Paolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren) - JazzBaltica 2019 Official Live" を聴いた時にようやく理解出来た。
彼等3人の紡ぎ出す芳醇で上品な音色を前に、日本の全てのアコーデオン奏者の存在は簡単に吹き飛んでしまうだろう。
あれだけ嫌いだったアコルデオンの音色がこんなに美しく心に響く日が来ようとは、想像すらしなかった。
Richard Galliano(リシャール・ガリアーノ)のシンプルかつ上品なコニャックのようなアコルデオンの音色は、私の古傷を少しだけかすりながらその傷跡の上に「希望」と「癒し」のテーピングを施して行く。
"Mare Nostrum III (Paolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren) - JazzBaltica 2019 Official Live" は Paolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren の3人で奏でられるシンプルなジャズ・コンサートを収録した動画だが、私は彼等の音色をあえて『アカデミック・ジャズ』と命名したい。
楽曲の全体をヨーロピアン・ジャズの空気が覆っているが、それは最早ジャズと言う喧噪の生み出す産物を超えて、超絶なアカデミズムに裏打ちされた品行方正なクラシカル・ジャズと言っても過言ではないだろう。
そういう正統派のジャズが日本には殆ど見られなかったことで、恐らく私のようなジャズ嫌いが多く現れたのではなかろうかとさえ思われる。
『ジャズ=煙草と夜と喧噪と迷いと葛藤が生み出すアンダーグラウンドな音楽』‥ 等とは思いたくないのだが、どうしてもそのようなイメージが付き纏わずにはいられない大衆音楽のいちジャンルと言う歪んだ価値観は、彼等 Paolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren の音楽の前ではかなぐり捨てなければならない。
そもそも「スウィング」と言う、ジャズ独特の演奏形態の定義がとても曖昧であり、日本人ジャズ奏者の多くが「ダウンビート」の亡霊に日夜悩まされ続け、結局ダウンビートがネイティブに感じられないコンプレックスとの戦いに明け暮れる羽目に陥っているようにも見て取れる。
だが、この考えこそが現在の和製ジャズ業界含む世界のジャズ観を歪めている大きな要因であり、表ビートのスウィングであってもそれは紛れもないスウィングだと言って、ジャズの神様の誰かがその概念を是非赦すべきだと私は思っている。
スウィングとはそもそも「揺れる」と言う語源を持つ言葉であり、その揺れ方を一個の表現スタイルに限定した価値観が蔓延している方こそ変なのだ。
縦に揺れようが横に揺れようが、斜めに揺れようが‥ その人の感ずるままに揺れれば良いだけの話しだ。
だが、これが「ジャズ」と表現形態が限定された途端に2拍目と4拍目にアクセントを持たせなければならないと言う制約が生じる為、ネイティブの英語圏以外のジャズ奏者たちがダウンビートの、まるで舟が沈みそうな揺れ感覚に共感出来ずにどんなに苦しんだことか‥(笑)⛵
それにしても Paolo Fresu の何とも上品な音色と相反する、どこかチーターを思わせる野性味にはタジタジするばかりである。
まさに「役者が揃う」とはこのことで、他の、何となく舞台に演奏者が揃って「カッコよくジャズってやろう」等と言う無駄な野心が全く見られない。
まるで大学で講義でも始める前の独特の静寂が彼等と会場を包み込み、授業の代わりのように「正しい音楽」「正しいジャズ」が厳かに始まる光景は見ていてただただ神がかっている‥ としか言いようがない。
薬品も音楽も「正しく取り扱う」に限る。
ところで彼等が放つ "Mare Nostrum" はシリーズで音源化されており、全部で3枚のアルバムがリリースされている。
折角なのでここにその3枚を一気に貼り付けておきたい。
この際「どれが一番良いですか?」等と言う野暮な質問はなしにして(笑)、時間の許す限り全部のアルバムを是非聴いて頂ければと思う。
兎に角どれも良いが、最もシャンソンを感じるのは "Mare Nostrum III" ではないだろうか。
ま、私がフランス音楽が大好きなので、"Mare Nostrum III" を聴いているとどこか古巣に帰って来たような、 懐かしさを感じてならないのかもしれないが。
最後に。
音楽も薬も、定められたとおりの用法・用量を守りましょう。
と言うことで、宝塚の劇歌にもあるように私も「清く正しく美しく」をモットーに、これからの創作活動及び音楽評論活動を継続して行きたいものである。
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