飛び出せ!佐久間探検隊
第三回 世界一でっかいお墓は本当にデカかった!
ドモ 佐久間探検隊の隊長、佐久間ディックです。
本日は三国ヶ丘駅の屋上、みくにん広場へ来ました。
写真のどう見ても山みたいなの、実はお墓なんです。
世界一でっかいお墓、大仙陵
周囲を一周し、その大きさを体感してみる。
駅前へと降りてきた。
電話ボックスにツッコミを入れたいところだが、
探検隊は先を急ぐのであえて見なかった事にする。
先へは路地のような道が続く。
まだまだ先は長そうだ。
今は撤去されてるが、かつてココに貼り紙があった。
「g〇〇gleを信用しないで下さい」
ココの道がg〇〇gleマップに載っていた為、
抜け道と思い、事故を起こした者が後を絶たなかったのだ。
道の先の状況。
ココを通れるクルマは、建設現場のネコ車ぐらいだろう。
先を進むと現れる、スーパーの駐車場。
一見平凡な駐車場に見えるが、何やら怪しい一画が。
怪しい一画は、古墳だった!
鏡塚古墳という名の古墳である。
本来は直径26メートルの円墳だったらしい。
一角を阪和線が削るカタチとなってるが、
阪和線建設時に文化財保護は叫ばれなかったのであろうか?
一旦戻り、踏切を渡る。
踏切の名は夕雲町踏切。
「せきうんちょうふみきり」だ。
が、近所の地名は百舌鳥夕雲町。
何故か「もずゆうぐもちょう」なのである。
蛇足だが、ここは結構有名な鉄道撮影地。
三国ヶ丘駅から坂を上るので通過速度が比較的遅く、
撮影がしやすいのだ。
踏切横のスペースも広めだし。
ただ通行する歩行者や自転車に、最大限の配慮が必要だ。
取材時にたまたま通過した、関空特急はるか。
新型コロナによる利用客低迷で、苦戦が続く。
とうとう日中は運休となってしまった。
探検隊は、阪和線に沿って南へ進む。
程なくして隣の駅、百舌鳥駅のホームが現れた。
百舌鳥駅
1929年、阪和電鉄の仁徳御陵前停留場として開業。
その後南海鉄道、国鉄を経て現在はJR西日本の駅である。
三国ヶ丘駅との距離は短いが、南海鉄道時代の1942年、
南海高野線との乗換駅として三国ヶ丘駅が開業した為である。
歩道橋横に踏切があるが、以前は踏切警手が常駐していた。
阪和線に別れを告げ、探検隊は西へと進む。
しばらく歩くと、右手に小山が。
小山の正体も古墳だった!
名を収塚古墳と言い、円墳のように見えるが、
本来は帆立貝形の前方後円墳であった。
大仙陵の陪冢(ばいちょう:子分の古墳)と考えられる。
更に西進すると、何やら怪しい一画が。
そこには駐車場と案内板が!
ここは大仙陵の玄関口、排所なのであった。
さすが観光地だけあって、見物客もちらほら。
黄色の帽子とシャツの方は、ボランティアのガイドさん。
先に鳥居があるが、通常時一般人は入れない。
手前の柵から参拝する事となる。
皇族が参拝なさる場合、鳥居の場所で参拝なさるそうで。
探検隊も参拝。
何となく身が引き締まる思いである。
排所と別れ、再び西進する。
ちなみにこの通り、御陵通と言い国道26号線まで続く。
先に進めば住宅街の中。
閑静な良い雰囲気である。
先の交差点で、前方部は終わり。
探検隊は北へ進路を転換する。
交差点の角にある立派な寺院。
朝日寺(ちょうにちじ)と言い、日蓮宗の寺院。
建立は1752年、森之宮の地であった。
現在の地には、1931年に移転した。
北へ進む。
東側と違い、西側は静かな土地のようである。
かつてこの先には大阪女子大学があったが、
2005年に大阪府立大学と統合され、現存しない。
やがて道は公園の中へ。
何個かある石碑の案内板。
どうやら一周は、2850メートルあるらしい。
更に進むと、道は住宅街の中へ。
閑静な住宅街だ。
物静かで、良い雰囲気である。
しかしこういう看板があるあたり、
只者ならぬ雰囲気を醸し出している。
やがて道は府道2号、大阪中央環状線に合流する。
こうも大々的に宣伝しなくても良いと思うが。
中央環状線に別れを告げ、国道310号線に入る。
かつてこの道は、西高野街道であった。
高野山女人堂まで続き、多くの人々が行きかった。
現在もクルマの通行量は多い。
ついに探検隊は三国ヶ丘駅前の交差点に帰ってきた!
感慨無量である。
一つの探検の終わりと共に、
新たなる探検への希望を探検隊は胸に抱くのであった。
「世界一でっかいお墓は本当にデカかった!」
おわり
※この記事は以前Twitterに於いて連続ツイートとして発表したものに、
修正を加えたものです。
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