安井息軒《時務一隅》(一)01
(2巻4頁)
時務一隅 王父息軒遺稿 安井朝康
こは、息軒安井先生の遺稿にて、文久中、閣老某侯の下問に答へられし物なりとぞ、其書分ちて實内十篇、禦外十五篇とす、議論剴切、よく時事に適中せり、豈幕末の好史料ならずや、乃ち令孫朝康【①】に請ひ、此に載せて、諸彥【②】の清覧に供ふる事とはなしつ、編者良弼【③】誌す、
注釈:
①朝康:安井小太郎(1858-1938)、朴堂。安井息軒の外孫。
②諸彥:諸君。
③良弼:邨岡良弼(1845-1917)。明治時代の法制官僚、法制史学者。《如蘭社話》の創刊者。
意訳:これは、安井息軒先生の遺稿で、幕末の文久年間に、息軒先生が幕府の老中某侯の下問にお答えになられたものだという。その文書を分けて、内篇十篇、外篇十五篇としている。その議論は非常に適切で(剴切)、当時の時事によく適中していた。どうして幕末の好史料でないだろうか、いや好史料である(反語)。そこで息軒先生のお孫さんである安井小太郎(朝康)氏に話して、ここに掲載して諸君の清覧に供する事をお願いした。編集者・邨岡良弼。
愚暗之鯫生【①】、下問に預り奉恐入(恐れ入り奉り)候、二百六十年の渥澤【②】中に浴し候儀、疎遠の倍臣【③】も不洩事ニ(洩れざる事に)候、時務に致相當(相當致し)候儀、一箇条にても御座候ハヾ、萬分一の報恩の廉(かど)にも可相成(相ひ成るべく)存候に付(つき)、愚按の趣奉呈上(呈上奉り)候、源語【④】以下の古書、擡頭【⑤】・平頭【⑥】・空格【⑦】等可致(致すべき)字面、何れも書キ續ケに致し、古朴之風可愛候、依之(之に依り)此書も右の法に倣ひ、闕字【⑧】平頭等不致(致さず)候、言切直【⑨】ならざれバ、義分り兼候、書中諱忌に觸候儀多きハ、右の心得にて、書キ取リ候故に御座候、文辭ハ通用を宗(※ムネ)とし、少も修飾相加不申(申さず)候、此三條御承知の上、御電覧【⑩】被下度(下されたく)候、
注釈:
①鯫生(そうせい):鯫はコイ科にごい、小骨が多い小魚で利用価値がないことから、取るに足りない小人物を意味する。①読書人を侮蔑していう、小物。《史記・項羽本紀》:鯫生說我曰『距關、毋內諸侯、秦地可盡王也』。②文士が自分のことをへりくだっていう、小生。王實甫《西廂記》:歎鯫生不才、謝多嬌錯愛。ここでは②の意味。
②渥澤:恩恵
③倍臣:陪臣、家臣の家臣。将軍直参の旗本に対して、大名の家臣を指す。ここでは徳川将軍ー飫肥藩主ー飫肥藩士安井息軒という関係を述べている。
④源語:紫式部《源氏物語》
⑤擡頭:上げ書き。漢字文化圏の慣習で、敬意を表すべき語の直前で改行し、その語をほかの行より1~2文字分高いところから書き始める作法。
⑥平頭:平頭抄出。漢字文化圏の慣習で、敬意を表すべき語の直前で改行し、その語を行頭に置いて書き始める作法。
⑦空格:闕字。漢字文化圏の慣習で、敬意を表すべき語の直前に1~2文字分の空白を設ける作法。
⑧闕字:空格と同じ。⑦参照。
⑨切直:ストレート(な表現)
⑩電覧:高覧、ご覧になる。読むの尊敬語。
意訳:暗愚な小生が、ご下問にあずかり恐縮です。徳川幕府の治世260年の恩恵に浴しますことは、〔将軍家より〕縁遠い陪臣に過ぎない私も例に洩れません。当世の急務(時務)に関します件、たとえ一ヶ条でも〔私の提言の中にご参考になる案が〕ございますれば、一万分の一でも〔将軍家への〕ご恩返しになると存じますので、愚考いたしました趣旨を差し上げさせていただきます。
〔本題に入る前にお断りしておきたいことが三つございます。〕
平安時代の紫式部《源氏物語》以降の和文で書かれた古い書物は、正式な文章作法に則れば〔敬意対象となる語句の直前で改行して二文字高いところから書き始める〕抬頭や〔同じく改行して行頭から書き始める〕平頭抄出や〔同じく直前に空白を設ける〕闕字などをすべき語句であっても、どれもそのまま直前の文章に続けて書いており、古朴の風情があって可愛くもあります。
これにより、本書も右の和文で書かれた古い書物の書法にならって、闕字や平頭抄出などはいたしません。やはり言葉はストレートでないと、意味が分かりかねるものです。
また本文中で、軽々しく言及すべきでない問題(諱忌)に触れます事が多いのは、右の考えにもとづいて書きつづったがためでございます。
文章の言葉は通じやすいことを旨とし、〔美辞麗句による不要な〕修飾は少しも加えておりません。〔その結果、不遜に感じられる箇所があるかもしれません。〕
この三点をご了承の上、ご高覧いただきたいです。
余論:息軒の日本語文章論がうかがえる。擡頭・平頭・闕字(空格)といった伝統的な敬意表現を廃すべきことを述べる。
擡頭・平頭・闕字(空格)は、日本では律令時代に中国から導入され、〈公式法〉(公文書作成に関する規定)で規定された。だが、近代に入ると文章を煩雑にする悪因とみなされるようになり、明治5年(1872)に廃止令が出された。
息軒が文久年間(1861~1864)の時点で「言切直ならざれバ、義分り兼候」という理由で擡頭・平頭・闕字を全廃することを断っているのは、明治5年の廃止令を先取りしているといえる。
息軒にとって公文書や(本気の)論文は漢文で書くものであり、いきおい和文には漢文とは別の役割が与えられることになる。それが「文辭ハ通用を宗とし」であり、そのための「少も修飾相加不申候」であろう。
ちなみに福沢諭吉は、安政5年(1858)に《増訂華英通語》を出版した際には「皇國」や「本邦」という用語に対して「闕字」を行ったものの、蕃書調所(幕府直轄の洋学研究機関で、東京大学と東京外国語大学の前身)の川本幸民より”闕字に法的義務はなく、守らなくても違法ではないし、発禁処分になることない”と聞かされ、「蓋し川本先生も洋學界自由思想の大家なれば口にこそ言はざれ闕字する勿れと暗に訓うるものゝ如し」と喜んで、以降は闕字を全廃したという。
また前島密などは、慶応2年に「漢字御廃止之儀」という建白書を将軍慶喜に奏上している。