安井息軒《事務一隅》(五)前段

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安井息軒《時務一隅》(五)    安井息軒

一 洪範五福【①】の中、富を第二に置候、仁君賢長と雖も、富まざれバ、其民を救ふ事能ハず、財用乏敷(乏しく)候へバ、種々の惡政生し、國家の衰微と相成、終にハ親離レ衆叛キ候儀、古今同病に御座候、然共人君富国の道ハ、商賈の其家を富すとハ、雲泥の相違御座候、商賈ハ人を損し候ても、己を益する事ハ、務て此を行候、其權輕く、其事小に候間、其害も不甚(甚だしからず)候、人君として斯道【②】を行候得バ、財聚レバ則民散ズ【③】の道理にて、終にハ國家を失ふに至候、故に人君の國を富し候【④】ハ、賢を撰び、能を擧、節を制し、度を愼むを本と致し、其枝葉に至候てハ、緊要の筋多端【⑤】御座候、古人【⑥】の言に、一利を生ずるハ、一害を除くに志【⑦】かず【⑧】と申候、利を生ぜんと致候へバ、必上下の間に、害を生ずる者に候、唯其害を宗(ムネ)と致し、除き候へバ、利ハ自然に其中より生じ申候、又費

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を省くハ、事を省くに志【⑨】かず、事を省くハ、吏を省くに如ずとも申候、兎角役人多く候へバ、事相增し、事相增し候へバ、費相增し申候、清廉の吏ハ、古今共に難得(得難き)者に候故、吏ハ其撰を精(※クハシク)して、數少きを善と致候【⑩】、馬痩候故、別當【別當:馬丁。院の厩司の別当(兼職)に由来する】を置候へバ、馬益痩候と申事、誠に末世の風俗を、能ク言取リ候詞に御座候、且吏員少く候へバ、其官に應じ候人材も得易く、小祿の者に役料多く與へ候ても、吏員多き時よりハ、役料少く、人材御撰の道も、少しハ廣く相成申候、先第一に御手を付られ、役人御精撰可被成(に成られるべき)ハ、御勘定局【⑪】に御座候、天下之財本、此局に歸し候間、清廉才幹之吏、出入之大計を持し、用財(財を用ふる)之法立ず候てハ、國家富有之期、有之間敷(之れ有るまじく)候【⑫】、其大法ハ誰も存じ候、三分餘一(一餘シ)テ候道【⑬】の外に出不申(出で申さず)候、猶委敷(くわし)キ法を立候ハヾ、四分して其二を常用とし、其一を不時の用に當、其一を儲蓄と定めたき事に御座候【⑭】、然ども百餘

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年來、内外に付夥しき御入費に相成、四五十年ハ、宮中の費別して致增長(增長致し)、主計の長官も致方無之(之れ無く)、萩原近江守【⑮】が故智【⑯】を襲ひ、金銀吹替【⑰】等にて、度支【⑱】を御凌ぎ被成(に成られ)候樣子に候へバ、右四分して二を用ひ候法、容易に行れ申間敷(申すまじく)候、金銀も最早悪劣の極に至り候へバ、再應御吹替之儀、成兼可申(成りかね申すべく)、橫征暴歛【⑲】ハ、亡國の基に候へバ、決して被仰出(仰せ出され)候筋に無之。【⑳】千慮萬考致候ても、御節儉之外、財の生じ候所無御座(御座無く)候、然バ御英斷を以て唐ノ太宗【㉑】宮女三千人を出し候類を始として、格外の御改革不被爲在(在らせられず)候てハ、天下の形勢、百四五十年前【㉒】に相復し申間敷(申すまじく)候、外夷邊を窺ひ、人心動揺の患をも、深考被遊(遊ばされ)、宗社【㉓】を重みし、兆民を憐む御心にさへ被爲成(なされ)候へバ、別に難被成(成され難き)筋にも無御座(御座無く)候、萬事難行(行ひ難き)ハ、因循姑息【㉔】の心より起り候、御剛斷【㉕】無御座(御座無く)候てハ、往々天下之御大事と奉存(存じ奉り)候、右御勸被成(に成られ)候手筋ハ、納約

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自牖(納を約(い)るること牖よりす)【㉖】と申言御座候、牖ハ室中に明りを取ル窓に御座候、人にハ貴賤共、必明らかに分り居候筋有之(之れ有る)者に候、其筋より御申立被成(に成られ)候ハバ、御承知相成可申(相ひ成り申すべく)候、上に是程の御剛斷被爲在(に在らせられ)候ハヾ、其餘の御良法、如何程も相立可申(相ひ立ち申すべく)候、


注釈:
①洪範五福:《尚書・洪範》「五福。一曰壽、二曰富、三曰康寧、四曰攸好德、五曰考終命。」
②斯道:この道。
③財聚レバ則民散ズ:《礼記・大学》是故財聚則民散、財散則民聚。
④候:「候」字、底本は草書体に作る。
⑤多端(たたん):①複雑で多方面にわたっていること、そのさま。②事件や仕事が多くて忙しいこと、そのさま。
⑥古人:耶律楚材を指す。契丹(遼)出身で、チンギス・ハーンに仕えた儒者官僚。遊牧民の連合政権であった初期モンゴル帝国にあって、文人を代表して中華文化の保護・存続に尽力したとして、古来中国や日本では高く評価されてきた。
⑦志:「志」字、底本は「し」の変体仮名に作る。
⑧生一利不若除一害:《元史・耶律楚材傳》〔楚材〕常曰「興一利不如除一害、生一事不如省一事」。《救急或問》も耶律楚材を引用する。
⑨志:底本は、「し」の変体仮名に作る。
⑩候:「候」字、底本は草書体に作る。
⑪勘定局:会計事務局、財務省。
⑫候:底本は「候」の草書体。
⑬三分餘一(一餘シ)テ候道:《禮記・王制》無三年之蓄曰「國非其國」也。三年耕、必有一年之食。九年耕、必有三年之食。
⑭猶委敷(くわし)キ法:《救急或問》にも同じ説明がある。
⑮萩原近江守:荻原重秀(1658-1713)。元禄期の勘定奉行。現代の管理通貨制度に通じる経済観を有し、貨幣改鋳を行った。
⑯故智:昔の人が用いた知略・謀略。
⑰金銀吹替:江戸時代に実施された貨幣改鋳。市中に流通する貨幣を回収し、貴金属の含有率を下げた新貨幣に改鋳して、同額扱いで市場へ流す。いわゆる量的緩和であり、インフレ(物価高)を誘導する。
⑱度支(たくし):中国の昔の官職、財務省。魏晋から宋代にかけて全国の会計事務を担当した。
⑲橫征暴歛:あれこれ名目を設けて、強制的に重税を取り立てること。
⑳。:本書は読点”、”しか用いないが、ここだけは句点”。”を打つ。
㉑唐ノ太宗:唐朝第二代皇帝の李世民(‎627-‎649)。唐朝の諸制度を整備し、「貞観の治」を実現した。
㉒百四五十年前:1700年頃、元禄文化の隆盛期を指す。
㉓宗社:宗廟と社稷 。転じて、国家。
㉔因循姑息:古いしきたりにとらわれて、何でもその場しのぎで済ますこと。 また、決断力に欠け消極的なこと。
㉕剛斷:剛毅決断、果断
㉖納約自牖:《周易・坎卦・六四》「樽酒簋貳、用缶、納約自牖、終無咎」(樽酒・簋貳(きそ)は、缶(ほとぎ)を用ふ。約を納(い)るること牖(まど)よりす。終に咎無し)。孔穎達疏:「一樽之酒、二簋之食、故云樽酒簋二也」。程頤《周易程氏伝》は「納約自牖」の説明のために、《戦国策》の觸龍が趙太后を説得した故事を引用している。息軒もそれを念頭に置くのだろう。


余論:息軒による財政再建論。《救急或問》に同じ話がある。
 儒家経典である《尚書・洪範》で、「五福」の二番目に「富」が挙げられていることを示し、国家運営に「富」が不可欠だという。そのうえで商人と国家君主では「富」の追求の方法が全く異なると釘を刺し、国家君主は単純な売上=税収アップを目標に掲げてはならないという。
 息軒によれば、結局、「節用」(経費節減)支出削減以外に国家の「富」を増やす方法はなく、経費節減には官吏の定員削減が効果的だとする。ただし財務・経理には信用できる人物を配置する必要があり、そのためには財務方の給料は上げてもよいともいう。
 さらに将軍自ら思い切った節約に乗り出さなければならず、読み手である老中に将軍を説得するよう促す。話の持って行き方で、説得は困難ではないと言い切るのは、息軒自身がロジカルだからだろう。

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