安井息軒《時務一隅》(三)a

05-01 政事は、譬へば五穀に御座候ふ。風俗は、譬へば田地に御座候ふ。五穀の良種を下し候ひても、田地宜しからず候得者、西収之實少なく候ふ。今日の風俗、弊壞の甚だしと申すべく候。先づ弊俗を改めず候ひては、良法美政も行はれ難く候ふ。
 扠(さて)弊風を改め候ふは、教を先と致し候ふ事、勿論に候得共、風俗弊壞の極に候得者、賞罰の力を假りず候ひては、行き屆き兼ね申すべく候。諸葛孔明、蜀の劉璋暗弱の後を承け、重賞峻罰を用ひ、風俗を一變致し候ふは、此譯に御座候ふ。

意訳:政治は、譬えば穀物でございます。風俗は、譬えば田地でございます。良い穀物の種を蒔きましても、田地がよろしくなければ、秋の収穫は少ないです。今日(※江戸時代)の風俗は、弊壞(=古くなってボロボロ)がひどいと言うべきでしょう。まず悪い風俗(弊俗)を改めませんでは、良法(=悪法の逆)も美政(=善政)も行うのは難しいです。

 さて悪い風俗(弊風)を改めますのは、教育を始めといたします事は勿論(もちろん)ですけれども、風俗の弊壞が極まっていましたら、"賞罰”の力を借りませんと、〔教育効果も社会のすみずみまでは〕絶対に行きわたりかねるでしょう。かの諸葛孔明が、〔劉備が劉璋から益州を奪って蜀漢を建国した際に、〕それ以前の蜀における劉璋の無気力(暗弱)さの後を受けて、厳罰厚賞(重賞峻罰)という方法を用いて、その風俗を一変いたしましたのは、こういう訳でございます。

余論:息軒は、「風俗弊壊」(風紀の乱れ)を改善するためには、教育が必要だと説く。
 これ自体は、現代の教育評論家も口にしそうな普遍的な意見であり、特筆すべきことはない。ただ、清末の公羊学者である康有為《公車上書》にも「風俗弊壊は、教え無きに由る」(風俗弊壊、由於無)という言葉が見える。
 《公車上書》とは、1905年、科挙の会試(二次試験)のために北京を訪れていた37歳の康有為が、朝廷に下関条約(馬関条約)調印拒否と徹底抗戦を求めて、1200人の分の署名とともに上奏した意見書である。
 息軒は黒船来航(1853)と不平等条約、康有為は日清戦争(1895)と下関条約、”祖国が外夷の軍事的圧力に屈して不利な条約調印を飲む”という情勢に対して、幕末と清末をそれぞれ代表する日中の儒者が異口同音に「風俗弊壊」に言及し、教育の必要性を説いているのが面白い。
 ちなみに康有為は、今文派の公羊学者だった。日本の儒学史には“今文派 vs 古文派”という対立構造はついぞ発生しなかったのだけれど、敢えて分類すれば、息軒は《左伝》と《周礼》を信じ、後漢の鄭玄注を重んじる点で古文派だと言える。
 つまり、同じカトリックのなかでもアタナシウス派とネストリウス派があったように、禅宗にも臨済宗や曹洞宗があるように、儒教にも宗派があるわけで、よく”東アジアで日本だけが近代化に成功したのは、日本では儒教の影響が小さかったから”などと尤もらしく言われるが、別に小さかったということはなくて、むしろ同じ儒教国だったが宗派が違っただけだと思う。


06-01 近より遠に及び候ふは、治國の常法に御座候ふ間、風俗を正され候ふも、先づ幕士・御家人より御始めに成られたく候ふ。
 慶長以來、二百六十年の渥澤に浴し、四民の上に立ち候ふ士人の事に候ふ故、凡そ雙刀を帶び候ふ程の者、驕奢に染まり候ふは、自然の勢とも申すべく候ふ。
  然れ共田舎は諸事不自由にて、目を眩はし人を迷はし候ふ者少なく、其の樂と致し候ふ處は、山野遊獵等に御座候ふ。其の上身分卑(ひく)く、威勢も輕く候ふ故、愼み恐れ候ふ處之れ有るより、猶ほ少しは古朴の風も殘り申し候ふ。
 幕士は世界第一の大都會に居住し、物心付きしより、其の見聞する所、驕奢淫逸の事にあらざる者なく、身分貴く候ふ故、驕慢の風別して甚だしく候。

意訳:〔《礼記・大学》に「身を修め、家を斉(ととの)え、国を治め、天下を平らかにする」と説いておりますように、君主の〕近くより始めて次第に遠くへ及ぼしていきますのが、国を治める常法でございますので、〔国内の〕風俗を正されますのも、まず〔御老中殿の身近におられる〕幕臣や御家人よりお始めになってほしいです。
 慶長年間(1596-1615)以来、260年間も〔俸禄という〕恩恵に浴し、〔士農工商という〕四民の最上位に立っております武士の事ですから、およそ双刀を腰に帶びるほどの者が、みな贅沢(驕奢)に染まりますのは、自然の勢いと申すべきです。
 しかしながら〔同じ武士と申しましても、地方の藩士は事情が異なりまして、〕田舎は何事も不自由で、目を眩まし人を迷わします〔贅沢品のような〕ものは少なく、その楽しみといたしますところは、山野で狩りをして遊ぶことなどでございます。その上、〔将軍家直参の旗本・御家人と比べれば、陪臣に過ぎない藩士は〕身分が低く、権威で人々を従わせる力(威勢)も軽いですから、〔脳裏には常に直参の方々という〕慎み恐れ敬う対象がありますことにより、やはり古風で飾り気のない(古朴)気風も少しは残っております。
 いっぽう幕臣は、世界一の大都会〔である江戸〕に居住しており、物心が付いた時より、その見聞きするものは、贅沢で淫ら(驕奢淫逸)でないものはなく、身分も〔武士の中でも更に格別〕高いわけですから、周囲をはばかる事なく驕り高ぶって他人を侮る(驕慢)気風が特にひどいです。

余論:息軒は、ドラスティックな改革を全国一律に実施すれば、社会に大きな混乱を引き起こすので、まず中央から始め、段階的に周縁へと拡大していくのが現実的だと考える。この考えに沿って、もし“社会風俗の引き締め”を図るのであれば、いきなり天下万民に向かってお触れを出すのではなく、まずは江戸に暮らす旗本・御家人を対象に始めるべきだと提言する。
 息軒の「(地方の武士は)少しは古朴の風も殘り申し候ふ」という主張は、地方出身者としての息軒の矜持が感じられる。息軒は27才頃(1826頃)に昌平黌へ留学しているが、それはちょうど「化政文化」(1804-1830)の成熟期にあたり、そこで息軒は、同じ昌平黌の学生でありながら遊興に耽る旗本・御家人の子息たちと衝突している。
 なお「少しは……」と断るのは、息軒が《救急或問》(8-9頁)において「家老の子息」を取り上げて「其家ニ生マレタル者、小兒ノ時ヨリ早々大夫ニ爲リタル心ニナリ、人モ從テ尊敬スルユヘ、自然驕傲ノ心生ジ、安逸ニシテ學問ヲ勉メズ、多クハ並ビナキ馬鹿者トナル」と批判したことと関係があるのだろう。


06-02 驕奢の害は、身上をすりきり、治亂の奉公出來兼ね候ふ計りにも之れ無く、第一柔弱に流れ、武勇の心、地を拂ひ候ふ故、古より武家に大禁と致し候ふ。源平以下の軍記に、京軍を軽んじ、關東武士を恐れ候ふは、全く此の譯に御座候ふ。
 然る處今日に至りては繁華地を易(か)へ候ふに付き、風俗も從って相ひ變じ、諸國より關東武士を視候ふ事、古の京軍同樣に相ひ成り候勢ひ相ひ見え、國家の爲に深く憂慮す可き事に存じ奉り候ふ。
 然者(しからば)今日風俗御引き直しの趣意は、儉素古朴を宗とし、人々志を立て、功名事業を勵み候ふ樣、御仕向けに成られ候ふ儀、専要に御座候ふ。是れ等の儀は、前條に申し述べ候ふが如く、教導其法を得候はば、追々古に相復し申すべく候ふ。

意訳:贅沢(驕奢)の弊害は、財産をすり減らし〔、武具や軍馬を揃えておくことができなくなり〕、世の中が変わろうとする(治亂)肝心な時に、主君のために働くことが出来かねるばかりではなく、第一に柔弱に流れ、武勇の心が箒で払ったようにすっかり無くなりますため、昔から武家では〔贅沢を〕“大禁”といたしています。源平合戦以来の軍記物で、京軍を軽く扱い、関東武士を恐るべき存在として描写しておりますのは、全くこの訳でございます。
 しかしながら今日に至っては、人が多く集まり賑わっている(繁華)所も東西入れ替わりましたために、風俗もそれに従って変化し、〔今では〕諸国の武士より関東武士を見ます事、昔の京軍に対する評価と同様になりつつある傾向(勢ひ)が見え、国家にとって深く憂慮すべき事態だと存じあげます。
 ですから、今日(※江戸時代)の風俗を改めるご趣旨は、”質素倹約して古風で飾り気のない”ことを旨とし、人々が〔将来は天下国家を支える人材になりたいという〕志を立て、周囲より高い評価を受け(功名)社会に貢献する仕事(事業)に励みますよう、お仕向けになられますことが、最も大事なこと(専要)でございます。これらの事は、前節で申し述べましたように、教導が正しい方法で行われさえしましたならば、追々昔〔の状態〕に戻るはずです。

余論:息軒は、環境が人格形成に与える影響を大きく見積もる。旗本や御家人の子息がひ弱なのは、贅沢な暮らしに浸かりきっているからであり、彼らがそうなったのは、江戸という大都会で贅沢品に囲まれて育ったからだと分析し、そのうえで、まずこの贅沢な暮らし振りを改めさせねば、風紀の一新は望めないと説く。
 ここで息軒が示した「諸國より關東武士を視候ふ事、古の京軍同樣に相ひ成り候」、すなわち”地方武士にとって、徳川家の主力たる旗本・御家人衆はもはや恐るるに足りない”という認識は、明治維新前夜の諸藩の幕府観を率直に伝えるものであろう。《時務一隅》が上書されたのは、恐らく文久2年(1862)のことと思われるが、そこからわずか6年のうちに幕府は消滅することになる。文久3年(1863)には薩英戦争・下関戦争、元治元年(1864)には禁門の変、慶應年間(1865-1868)に入って第二次長州征伐失敗、鳥羽伏見の戦い、江戸城無血開城、戊辰戦争と一気に倒幕まで進むのは、西国諸藩にとって観念上の幕府軍がすでに軍事的抑止力たり得なかったからであろう。ことを示す。


07-01 今日風俗の害を爲し候ふ小普請衆、幷(なら)びに次・三男以下に御座候。人々心得惡しと申す譯には之れ無く候得共、上に御用之れ無く候ふ故、身を棄て物と相ひ心得候ふより、三昧に振廻(ふるま)ひ候ふ故、兎角不行跡の衆、多く其の中より出で申し候ふ。

意訳:今日(※江戸時代)風俗を損なっていますのは〔役職に就いていない御家人たちの集まりである〕小普請衆、ならびに〔旗本・御家人の〕次男・三男以下の者たちでございます。〔こうした立場の〕人々がそろって心がけが悪いと申す訳では無いのですけれども、御上に登用されることがありませんので、自身を無価値な存在(棄て物)だと考えますことより、不埒三昧に振る舞います故、とにかく素行のよくない若者といえば、多くがこの中より出て参ります。

余論:前段にて旗本・御家人全体が柔弱になっているという問題を指摘したが、本段ではさらに問題を絞り込み、武家社会の風紀を乱している具体的存在として、小普請衆(幕職に就いていない旗本・御家人からなる組織)と武家の次男・三男の二つを取り上げる。以下の段では、小普請衆の問題と次男三男の問題を順に検討を加えることになる。
 なお息軒は、彼らが不埒三昧な行状にはしる要因を「上に御用之れ無く候ふ故、身を棄て物と相ひ心得候ふ」からだと指摘する。ここで息軒は、遠回しに”幕府が武士階級の若者たちに、きちんと社会的役割を割り振れていないことが、諸悪の根源なのだ”と批判している。このように息軒は犯罪などの原因を当人の心性ではなく、社会構造に還元する傾向がある。
 なお「棄て物」という言葉に哀愁を覚えるが、これは現代における「無敵の人」に通ずる問題かもしれない。

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