安井息軒《時務一隅》(二)04
(3巻11頁裏)
一、人材ハ國家の根本に御座候、國大なりと雖、人材乏シク候得バ、衰微に赴候儀、必然の道理に御座候、世不絕聖、國不絕賢【☆】の道理にて、何時(※イツ)の世、何所(※イヅク)の國にも、其世其國を治メ候程の人材ハ、必其時代、其の土地に生レ候者に御座候得共、身分卑賤、絕世の才を抱キ候て、空敷朽果候儀、古今同慨に御座候、然レ共是ハ格別の豪傑にて、世の中に多くは無之者に候、且人君の國天下を治メ候ハ【①】、大工の家を作リ候と同樣にて、其用に備ヘ候材不多てハ、事調ひ不申候、材木ハ不惜費シ候得バ、如何程も相調申候得ども、人材ハ預め教育不致候てハ、急にハ成就不致候、依之古の明君ハ、人材教育を急務と致し候、當時ハ封
(3巻12頁表)
建【②】世祿【③】の御制度、唐虞三代【④】と道を同ジクし、世界第一の美政に御座候、然れ共士を貢し賢を擧るの法無之、寺社奉行以上ハ、御譜代諸侯の中より拔、芙蓉ノ間【⑤】以下の役人ハ、旗下、御家人の中より、御選ビ被成候事故、人材選擧の道、至て狭く候、況(まし)て太平の末弊にて、諸侯並ニ大身の幕士ハ、大抵深宮の内に生れ、婦人の手に長じ候故、驕奢淫逸の風、自然相生じ、諂諛を喜び、剛直を厭ひ、人君の心得、民間の疾苦等ハ、夢にも不知人多く候、箇樣の體にてハ、太平無事の時さへ、上下の害不少、萬一外夷變を生じ候事抔御座候てハ、爲天下實に寒心すべき事に御座候、小身の衆、御家人抔、平生の暮し不行屆候故、少シハ人情に通シ候處も御座候得共、志なき者ハ、放蕩無賴に陥り、身を立んと思ヒ候者ハ、希世求官候心、肺腑に淪(※シミ)候故、一身の才知、専ら其筋に働き、天下の時務形勢にハ、至て疎く候、是皆其人の不才に
(3巻12頁裏)
ハ無之、身分に依リ候て、風習の害に有之、自然右の譯合に相成申候、各官御登用ハ、多人數の中より、御精撰被成候事にハ御座候得共、風習の人を害し候事甚敷候故、萬人に勝レ候俊才たり共、右風習の中に致生長候てハ、其才生得の十分一も成就致ス間敷候、尤往年より匹夫より御家人となり、追々相進ミ、諸大夫に昇リ候者も御座候得共、是等吏才小々有之迄にて、遠大の事は少シも心得不申、甚敷に至候てハ、巧詐を宗(※ムネ)とし、一身の利を營ミ候外、別に效(かい)も無之者多ク御座候、然バ人材教育ハ、尤今日の急務と存候、」【⑥】、扠人の才智識見を長じ候者、學問を第一と致シ候事故、人材教育の法、學問御勸メ被成候儀ハ勿論の事ニ御座候、然レ共風習の害を御除ニ不被成候てハ、如何程學問御勸メ被成候ても、人材成就致ス間敷候、先ヅ諸侯並に大祿の幕士等の害ハ、驕奢淫逸にして、柔弱に陥り、小才を喜ビ候儀、第一に御座候、此
(3巻13頁表)
皆婦人を親シミ候より起り候、此害を除キ候ハヾ、速に相改マリ可申候、總て人々の氣習、十四五歳迄にハ、大略相定マリ申候、其定マリ候處ハ、必馴レ候處に本付候、古より賢父の子必しも賢ならず、賢母の子ハ多く賢者に成リ候ハ、幼年の節ハ専ら母を親しみ、其氣習に馴レ候故に御座候、扠貴賤となく、馴れ候事ハ善シと心得、不馴事ハ惡と心得候者、人情の常に御座候。然レバ小人に馴レれバ小人となり、君子に馴れバ君子と成候儀、當然の理に御座候故、才智衆に勝レ候人ハ、善惡にハ不迷候得共、不馴事を厭ひ、馴たる事を安じ候儀、是又人情の常に御座候、古人も此事を論じ候て、扞格【⑦】不受之患【⑧】ありと申候、不正之事に馴レ候得バ、正敷事ハ請付さるを申候、依之八歳出テ就外傅【⑨】の法を立申候、大祿の幕士以上ハ、男子八歳に成リ候ハヾ、速に婦人の手を離れ、表に出し、成ル丈德剛直の士を撰び、傅役(もりやく)【⑩】となし、生立(※オヒタチ)宜敷童子
(3巻13頁裏)
を相手となし、其歳相應に、人君の治亂に處し候昔語リ等申聞、衣服器物等、不入何□【⑪】疎品相用、學問武術に心を委ネ候樣諭し被成候ハヾ、人材逐日盛んに相成可申候、右御諭シの趣ハ、外夷猖獗に付てハ、何時異變致出來候儀も難計、諸侯以下、是迄の心得身持にてハ、治亂とも御奉公【⑫】向差支可申、其身の爲にハ別レ而不相成候間、精々輔導の心を用ヒ候樣被仰出候ハヾ、大抵行れ可申候、小身御家人等ハ、節儉を宗とし、廉恥を養ひ、師友を撰び、放蕩を愼み、功を立、名を揚候儀に志シ候樣、御仕向ケ被成度候、其中に志宜敷者ハ、御賞美被成、才學成就に赴候者ハ、御撰用可被下候、是迄も御賞典ハ被立置候得共、多くハ文具に流れ候、且賞あれバ必罰あり、賞罰ハ政事を助ケ候大用にて、不離者に御座候、聖人の世と雖、此を弄候て、治を致ス事ハ、決して出來不申候、當時昌平黌の御法ハ、賞ありて罰なし、譬バ
(3巻14頁表)
慈婆の愛孫に菓子を與ヘ候類にて、恐ルヽ處無之候故、難有とハ不存、却て跡ねだりを致シ候、無罰の賞ハ、何事も右に類し候故、古より學校にも罰を立置候、夏楚二物、以収其威(夏楚二物は、以て其の威を収む)【⑬】、又左學【⑭】より右學【⑮】に移し【★】、甚敷に至候てハ、三年不齒【⑯】などヽ申儀禮記に相見【⑰】、何れも學校の罰に御座候、此法ハ、廉恥を重じ候、當時の士にハ難施候得共、旣に御賞典有之上ハ、相應の罰もなくて叶ざる事に御座候、此以後不出精の者、又ハ一旦御褒に預り、其後怠り候者ハ、相應に御咎メ被仰出候ハヾ、嚴父の物を與へ候に、僅一塊の菓子にても、其子難有存候如く、恩威並行れ、風俗改マり候助とも相成、人材輩出可致候、然レ共是亦依怙の沙汰生じ易き筋も御座候間、御目付、徒目付、舎業抔の節、不時に其席に臨候樣被成度候、左樣相成候ハヾ、師弟共凛然として、教育一人行屆可申候、學問ハ其才に隨ひ教を施し、各〻【⑱】國家の用に
(3巻14頁裏)
立チ候樣、仕立(※シタテ)候儀、勿論の事に候得共、此儀ハ師儒の才不才に依リ候事故、縱令被仰出候ても、一概にハ行屆申間敷候、但し教育の大體不立候てハ、御用に立候人才出來兼可申候、正心修行ハ、學問の主意たる事、申迄も無御座候、然レ共箇樣相心得候計りにてハ、有體無用の誹を不免、國家の益に成候事少く候、依之學問修行の趣ハ、君子〔以〕【⑲】多識前言往行,以畜其德(君子は多く前言往行するを識(しる)して,以て其の德を畜ふ)【⑳】と申ス辭を主として、其極功ハ、修身【㉑】以安百姓堯舜其猶病諸(身を修めて以て百姓を安んずるは堯舜も其れ猶ほ諸(これ)を病めり)【㉒】と申ス語を志候樣被成度候、右孰(※イヅレ)も孔子の語にて、學問の筋を包括致し候、才に大小あり、志に高卑ありて、人々右の場合に至リ候譯にハ、參リ兼候得ども、右二語ハ、學問の大本に御座候故、此處に志し候得バ、才之大小、志之高卑とも、國家御用の間に合ひ可申候、此等の事を、功利【㉓】の學と稱し、賤しめ輕んじ候得共、總て學問ハ、輔民安世(民を輔(たす)け世を安んずる)の道に候間、此道に外(※ハズレ)候てハ、道究天人理析豪毛(道は天人を究め、理は豪毛を析(さ)く)【㉔】
(3巻15頁表)
候ても、國家の事に益なく候、世上學問の是非ハ姑く置之、人材教育ハ、右の趣意を本と被成候樣致シ度候、(未完)【㉕】
注釈:
☆世不絕聖、國不絕賢:”いつの時代にも聖人はおり、どこの國にも賢者はいる”の意。楚荘王が自国の人材不足を嘆いていった言葉。
・《説苑・君道》莊王喟然嘆曰「吾聞之、其君賢者也、而又有師者王。其君中君也、而又有師者霸。其君下君也、而群臣又莫若君者亡。今我、下君也、而群臣又莫若不穀恐亡、且世不絕聖、國不絕賢。天下有賢而我獨不得、若吾生者、何以食為。」
①治メ候ハ:底本は「治候メハ」に作る。誤刻ならん。今、「治メ候ハ」に訂正する。
②封建:国家体制の一つで、中央集権制と対照される。封建制では、君主に臣従する諸侯がそれぞれ自前の領地と軍隊を擁し、領内の司法権と徴税権を掌握して、領民を支配する。 諸侯は、君主に領有権を承認してもらう代わりに、君主に対して貢納や軍事的奉仕の義務を負う。一般的に、領有権は世襲される。
③世祿:世襲する家祿・俸禄。
④唐虞三代:唐は 陶唐氏(堯)、虞は 有虞氏(舜)、三代は夏・殷・周の三つの王朝時代を指す。中国史において、封建国家は周朝を以て最後とし、それ以降は始皇帝の秦朝を皮切りに現代に至るまで中央集権国家が続く。
⑤芙蓉ノ間:江戸城本丸にあった座敷の一つで、寺社奉行・留守居・町奉行・大目付・勘定奉行・遠国奉行・三殿家老が詰めた。
⑥」:底本は「候」字の下に、閉じ鉤括弧(」)がある。意味は未詳だが、あるいは主題転換を意味するのか。
⑦扞格:意見などが食い違うこと、互いに相手を受け入れないこと。「捍格」と同じ。
⑧扞格不受之患:”すでに悪癖・悪習が定着してしまった後でそれらを禁止されると、(たとえそれが悪い事だと理解していても)激しい拒否反応を起こす”の意。《禮記・學記》に「發然後禁、則捍格而不勝」といい、教育が途中で失敗に終わる六つの要因の第一に挙げる。
・《禮記・學記》大學之法、禁於未發之謂「豫」、當其可之謂「時」、不陵節而施之謂「孫」、相觀而善之謂「摩」。此四者、教之所由興也。發然後禁、則捍格而不勝。時過然後學、則勤苦而難成。雜施而不孫、則壞亂而不修。獨學而無友、則孤陋而寡聞。燕朋逆其師。燕辟廢其學。此六者、教之所由廢也。
⑨外傅:貴族の師弟が家庭外で師事する教師。家庭教師である「内傅」に対して云う。
・《禮記・內則》十年、出就外傅、居宿於外、學書記。
⑩傅役:貴人の子弟のお守役、教育係。
⑪□:底本は四角“□”に作る。空白か、欠字か未詳。
⑫御奉公:幕府が諸侯の領有権を承認する見返りに、諸侯が幕府の呼びかけに応じて軍隊を派遣すること。幕藩体制において、諸藩は自前の領地・領民・主権(徴税権・統帥権・司法権)を擁する独立国家であり、諸藩が擁する軍隊に対して幕府は指揮権を持たない。
⑬夏楚二物、以収其威:「夏」は榎(エノキ)、「楚」は荊棘(イバラ)。“エノキの笞(むち)と荊棘の笞の二つで、教師の権威を保つ”の意味で、《禮記・學記》が七つの「教育の大倫」に挙げる。
・《禮記・學記》大學始教、皮弁祭菜、示敬道也。《宵雅》肄三、官其始也。入學鼓篋、孫其業也。夏楚二物、收其威也。未卜禘不視學、游其志也。時觀而弗語、存其心也。幼者聽而弗問、學不躐等也。此七者,教之大倫也。《記》曰「凡學官先事、士先志」。其此之謂乎。
⑭左學:殷王朝における「小学」、70歳に達して賦役を免除されるに至った高齢者(庶老)を養い、若年者に孝悌の道を指導したところ。
・《禮記・王制》「殷人養國老於右學、養庶老於左學」。鄭玄注「左學、小學也。在國中王宮之東。」
⑮右學:殷代の「大学」、官職を退いた高齢者(國老)を養い、若年者に孝悌の道を指導したところ。
・《禮記・王制》:「殷人養國老於右學」。鄭玄注「右學、大學也。在西郊」。
★左学より右学へ移す:文脈によれば何らかの罰則規定を意味すると思われる。だが、なぜ左学(小学)から右学(大学)へ移す事が処罰に相当するのか分からない。待考。
⑯三年不齒:罰則規定で、“三年間公人としての資格を停止し、集会などに参加させない”の意。
・《周禮・秋官司寇・司圜》司圜:掌收教罷民。凡害人者弗使冠飾、而加明刑焉、任之以事而收教之。能改者、上罪三年而舍、中罪二年而舍、下罪一年而舍。其不能改而出圜土者、殺。雖出、三年不齒。凡圜土之刑人也、不虧體。其罰人也、不虧財。
・《尚書・蔡仲之命・序》惟周公位塚宰,正百工,群叔流言。乃致辟管叔于商;囚蔡叔于郭鄰,以車七乘;降霍叔于庶人,三年不齒。蔡仲克庸只德,周公以為卿士。叔卒,乃命諸王邦之蔡。
⑰禮記に相見:「三年不齒」という語句は《禮記》に見えない。似た語句として《禮記・祭義》「三命不齒」があるが、これは“親族の会合では、席次は社会的な地位に関わりなく年齢順で決めるが、「三命」という最高位の官職に就いている者だけは例外で、年齢に関係なく一番上座に座らせる”という意味で、文脈にそぐわない。
⑱〻:踊り字、「々」と同じ。底本は「二の字点」に作る。
⑲底本は「君子」の後ろに「以」字を欠く。今、典拠に依り補う。
⑳君子〔以〕多識前言往行、以畜其德:“君子は古人の格言・事績を学んで、徳を養う”の意味。
・《周易・大畜・象傳》天在山中、大畜。君子以多識前言往行、以畜其德。
㉑修身:底本の「身」字、《論語・憲問》は「己」に作る。
㉒脩身以安百姓、堯舜其猶病諸:《論語》に見える孔子の言葉で、“私人として行いを正しくして身を修めつつ(修身)、同時に公人として天下万民の暮らしを安寧に導く(安百姓)ことは、堯や舜といった古代の聖王にとってすら容易ではなかった”の意。なお、底本の「脩身」を、《論語・憲問》は「脩己」に作る。
・《論語・憲問》子路問君子。子曰「脩己以敬」。曰「如斯而已乎」。曰「脩己以安人」。曰「如斯而已乎」。曰「脩己以安百姓。脩己以安百姓,堯舜其猶病諸」。
㉓功利:「功利」という語句は、中国の先秦諸子文献では《荀子》や《韓非子》、《管子》に見える。
㉔道究天人理析豪毛:朱子学の「格物窮理」という学問姿勢を批判的に述べたもの。出典未詳。陽明学の開祖である王陽明は、かつて朱子学に従って竹の理を究めようとして精神衰弱に陥り、朱子学の誤れるを確信したという。
㉕(未完):底本に付された注釈。
意訳:(二)01以降で述べる。
余論:安井息軒による教育改革論。高位の幕臣や諸大名の子弟教育に焦点を絞っており、《救急或問》のような人民教育の必要性には言及していない。その要旨は、以下の通り。
息軒は次のように現状を把握する。現行制度では、幕政に参与できる人材は旗本・御家人・譜代大名という極狭い範囲からしか選べない。しかし、長らく太平の世が続いたこともあって、彼らはみな柔弱で、もし欧米列強が軍事侵攻して来た場合、軍を率いて太刀打ちすることなど到底望めない。
対策として、これまでの慣例を廃して広く有用の人材を求めるのは当然としても、やはり柔弱な幕臣や大名の再生産が繰り返される状況をどうにか改善しなければならない。そのためには、彼らがそう育ってしまう原因を取り除く必要がある。その原因とは何か。
彼ら(高位の幕臣や大名の子弟)が、お屋敷の奥深くで女性ばかりに囲まれて育つことが原因であると、息軒は決めつける。彼らは「お世継ぎ」(嫡男)として母親や女中から大切に育てられた結果、「驕奢淫逸の風、自然相生じ、諂諛を喜び、剛直を厭ひ、人君の心得、民間の疾苦等ハ、夢にも不知人多く候」という。
必ずしも息軒が女性全般を蔑視していたわけではなくて、「古より賢父の子必しも賢ならず、賢母の子は多く賢者に成り候」とも言っており、子供にとって父親より母親から受ける影響のほうが大きいと指摘した上で、“世間知らずのお嬢様”あがりの夫人の手に旗本や大名の教育が一任されている弊害を指摘しているのである。
では、具体的にどう改善すべきか。一般に貴人の児童教育は「内傅」(家庭教師)を招いて、家庭内で完結することが多い。15歳で元服した後には、私塾や昌平黌など、家庭外の教育機関に入って同世代と切磋琢磨する機会もあろうが、息軒は「總て人々の氣習、十四五歳迄には、大略相定まり申し候」といい、ヒトは14~15歳で人格がある程度固まってしまうので、それ以前の児童教育が重要だとして、「八歳出て外傅に就くの法」を提言する。
すなわち「大祿の幕士以上」の家柄の男子児童は、数え年で8歳(満7歳)になれば、屋敷の外にある学校へ通学させるものとし、「德剛直の士」の指導の下、「生ひ立ち宜しき童子」を同級生として、一緒に「人君の治亂に處し候昔語り」を聞き、「學問・武術」に切磋琢磨させる。
要するに、幼少期より外部の人間関係に触れさせることが肝要だという事で、現代から見てもさほど違和感のない主張であろう。
また教育の現場に罰則を持ち込むことを提言する。昌平黌が、学問奨励のために賞典を設けるばかりで罰則を規定していないことを、「慈婆の愛孫に菓子を與ヘ候類」と譬える。
最後に教育の目的について、「國家御用」に立つ人材の育成を掲げる。いったい儒学は「爲己之學」(自分を高めるための学問)を掲げてきたが、息軒は「心を正し行を修むるは、學問の主意たる事、申す迄も御座無き候ふ。然れ共箇樣相心得候ふ計りにては、有體無用の誹を免れず、國家の益に成り候ふ事少なく候」といい、個人として自らの倫理道徳性を高める努力(正心修行)は否定こそしないものの、そこにとどまらず、国家への貢献(国家の益と成候)を最終目標に掲げる。
息軒は、こうした自身の立場について、「此等の事を、功利の學と稱し、賤しめ輕んじ候」という批判があることを認めた上で、なお「總て學問は、民を輔け世を安んずるの道に候ふ」と言い切り、朱子学的形而上学の世界(道究天人理析豪毛)に没入することを「國家の事に益なく候ふ」と批判する。
◯
本篇において、注目すべき点は次の2点である。
一点目は、息軒の教育改革論が、明治新政府が明治4年から年少の明治天皇に対して実施した輔導と、よく符合することだ。
一説によれば、睦仁親王(明治天皇)は孝明天皇崩御を受けて慶應3年(1867)1月9日に即位したものの、御所で女官に囲まれて遊び暮らす日々だったという。従来の「雲上人」ではなく、臣民の前にたって「萬機親裁」する近代国家君主を必要としていた明治新政府は頭を抱え、ついに明治4年に明治天皇の再教育に着手する。明治天皇の周辺から女官や柔弱な公卿を一掃し、代わりに西郷隆盛が選んだ青年士族たちーー高島鞆之助(侍従)、村田新八(宮内大丞)、山岡鉄舟(侍従)ーーを送り込んだのである。かくして、鉄舟が明治天皇と相撲をとって散々に投げ飛ばしたとか、落馬して痛がる明治天皇を西郷隆盛が叱り飛ばしたといった逸話は有名だが、そこには御所という”女性”的社会で過保護に育てられてきた柔弱な明治天皇が、白刃の下をくぐり抜けてきた維新志士と直接触れ合うことで、次第に本来の”男性”性を回復し、雄々しい近代国家君主として再生する物語を読み取ることが可能だろう。
そうすると、明治2年に勝海舟や山岡鉄舟が相次いで息軒宅を訪問し、明治天皇の侍講となるよう要請したという逸話(黒江一郎《安井息軒》( 日向文庫刊行会、 1953))が、俄然大きな意味を持ってくる。明治新政府は明治2年に宮内省を設置して、天皇の私生活を政府管理下に置く。その時期に、政府の要人が息軒を侍講に推挙しようと考えたのは、憶測すれば、彼らが明治天皇の再教育計画を立案するにあたって、息軒の教育改革案を参照したからではなかろうか。
二点目は、息軒が「功利」という語句を用いて自身の学問的立場を表明していることだ。学術・教育を「国家の益」「国家の御用」という目的達成ための手段と割り切る姿勢は、ほぼ完全に「功利主義」(利己主義ではない)といってよく、息軒のこの姿勢は〈鬼神論〉〈辨妄〉といった宗教論においても首尾一貫している。かのJ.S.ミル《功利主義論》の出版は1861年、すなわち文久元年のことであり、期せずして息軒が本篇を老中に上奏した時期と一致する。
ちなみに中国における功利主義者としては、朱熹の論敵だった陳亮がいる。彼は、同時代の儒者(つまり朱熹)が精神修養を説くばかりで実効性のある政策を論じないことを批判し、「事功派」と呼ばれた。この陳亮が日本に及ぼした影響を見れば、まず佐藤一斎が陳亮を高く評価している。佐藤一斎は息軒の師である松崎慊堂の同門で、昌平黌で朱子学と陽明学を教え、「陽朱陰王」と称された。また西郷隆盛も陳亮の書を好んだという。
日本における功利主義者としては、荻生徂徠がその先駆とされ、息軒はその系統に連なると考えていい。また福沢諭吉はJ.S.ミル《功利主義論》の影響を受けたとされ、丸山真男は徂徠と諭吉の間に強い類似性があると主張する。
福沢諭吉がJ.S.ミル《功利主義論》を読破するのは(確か)明治に入ってのことだが、それを待つまでもなく、文久年間(1861-1864)の時点で息軒が「功利」という語句を用いて功利主義を堂々と説いていることは、明治近代思想のスタート地点を確定する意味で、もう少し注目されてもいいように思う。
つまり明治に入って西洋から「utilitarianism」が伝来して、日本人は初めて「功利主義」という概念に触れ、朱子学的「爲己之學」を相対化するに至ったのではなくして、すでに幕末の時点で朱子学に対する「功利主義」的思想を知っており、だからこそ、比較的容易に西洋の「utilitarianism」を受容できたと見るべきではないか。