安井息軒《救急或問》26

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天災流行ハ、世ノ常理ニシテ禹湯ノ聖代ト雖免ルヽヿ(こと)能ハズ【①】、古人モ、救荒無良策【②】ト云フテ、差掛リテハ實ニ救ヒ難シ、豫メ備ヘヲ爲サヾルベカラズ、昔ヨリ常平倉【③】・社倉【④】・義倉【⑤】等ノ法アリテ、今モ之ニ倣ヒテ、非常ニ備フル國あり、至極ノ美政ナレ共、米ハ新故出納ノ煩アリ、且價貴キユヘ、種々ノ悪弊生ジテ、終ニ有名無實トナルヿ多シ、其弊ヲ防グニハ、稗ヲ蓄フベシ、稗ハ數十年蓄ヘ置キテモ臭腐セズ、味(あじわ)ヒ美ナラズ、價(あた)ヒ賤シケレバ、移動ノ憂ヒナシ、然レトモ僟僅ノ夫食ト爲スニハ、草根・木皮ヨリ其養ヒ萬々ナルベシ、此ヲ以テ食料ノ本トシ、老幼病人等ノ氣力ヲ補フ、米ヲ糴(か)フハ容易ノ事ナリ、民ニ諭シテ自ラ蓄(た=貯?)ベサセンハ尤モ宜ケレ共、急ニハ行ハレ難カルベシ、先ツ上ヨリ其ノ事ヲ始メ、収納高百分ノ一ヲ稗ニテ納メシムベシ、稗ハ至テ蕃殖シ易キ物ナリ、瘠薄ノ地ヲ開墾シ糞力ヲ費サズシテ、常穀ヨリ多ク

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収ム、百分ノ一ハ十萬石ノ高ニテ千石高ナリ、然レ共蕃殖シ易ク價賤キユヘ、倍納セシムベシ、是ヲ折色【⑥】ト云フ、折色トハ品替リノ事ナリ、薪・炭・鹽・茶・繩・竹・茸草又ハ豆・麥・海物ハ鰹節ノ類、人家必用ノ品ヲ米價ニ照シ合セ、民ノ願ヒ望ム者ニ、年貢ノ代リニ納メシメ、藩士ノ右品ヲ望ム者ニ、廩米【⑦】ヲ差引配リ與フ、小歉(けん)ノ年ハ、民間ノ大ナル助クトナルベシ

注釈:
①《春秋左氏伝.僖公十三年伝》:〔秦伯〕謂百里「與諸乎」。對曰「天災流行、國家代有。救災恤鄰、道也。行道有福。(略)」
 《鹽鐵論・水旱》:大夫曰「禹湯聖主、后稷・伊尹賢相也。而有水旱之災。水旱、天之所為。饑穰、陰陽之運也。非人力。故太歲之數、在陽為旱、在陰為水。六歲一饑、十二歲一荒。天道然、殆非獨有司之罪也」。
 《源氏物語・薄雲》:〔光源氏が冷泉帝に答えて言った。〕「いとあるまじき御ことなり。世の静かならぬことは、かならず政治の直くゆがめるにもより侍らず。さかしき世にしもなむ、よからぬことどもも侍りける。聖の帝の世にも、横様の乱れ出で来ること、唐土にも侍りける。わが国にもさなむ侍る。まして、ことわりの齢どもの、時至りぬるを、思し嘆くべきことにも侍らず」
②李贄 《復鄧鼎石書》:若曰「救荒無奇策」。此則俗儒之妄談、何可聽哉。
③常平倉:奈良時代に穀物の価格の変動を防ぐために、穀類を貯蔵しておいた官営の倉。 豊年で安価のときに買い入れ、凶年で高価のときに放出して価格の調節を図った。 江戸時代にも水戸・会津・土佐・薩摩(さつま)などの諸藩に置かれた。
④社倉:中国で、凶作に備えて社(集落)に設けられた官民共同管理の穀物倉庫。隋の文帝が各社に置かせた義倉に始まる。江戸時代に広島・岡山などの諸藩で実施された。
⑤義倉:飢饉に備えて穀類を備蓄しておく制度、そのための倉。中国の隋代に始まり、貧富の差に応じて供出量が異なった。日本では律令時代に同樣の制度が設けられたがうまく機能せず、平安時代に廃止された。江戸時代に幕府や諸藩によって復活し、富農に供出させた義捐米を備蓄した。
⑥折色:中国の税制用語。中国では早くから現金納が定着しており、この本来納付すべき金銭を「本色」(ほんしき)といい、本色に代えて納める物品を「折色」(せつしき)といった。
⑦廩米(りんまい):江戸時代の幕府や諸藩の蔵に蓄えられた米。または、藩士へ給料として支払われた扶持米 (ふちまい) の異称。

意訳:〔《春秋左氏伝・僖公十三年伝》で、飢饉が発生した晋国より米を売って欲しいという救援要請を受けた秦穆公が、その時点で領土割譲の約束を破っている晋恵公からのこの要請に応じるべきかと、百里奚に相談したところ、百里奚が救援すべしとして「天災はどの国にも起こり得る」(天災流行は、國家代わるがわる有り)と答えたように、政治の善し悪しとは関わりなく〕大規模自然災害(天災)が広域に発生するのは、この世の変わらぬ道理(常理)であり、夏王朝の高祖禹や殷王朝の高祖湯といった聖王の時代といえども、天災を免れることはできなかった。

 昔の人も「饑饉を救うのに〔一発逆転を狙える〕奇策はない」(救荒に良策無し)と言っており、実際に饑饉になってから動き始めたのでは、被災者を救援するのは本当に難しい。だから、〔為政者たるものは〕あらかじめ飢饉に対する備えをしておかなければならないのだ。
 昔から常平倉・社倉・義倉など、凶作時に人民に配給するための米を平時から備蓄をしておく制度があって、現代(※江戸時代)でもその制度にならって、非常時に備えている藩がある。この上ない善政であるけれども、米は傷みやすいので毎年のように新米と古米を入れ替えるという面倒臭さがあり、そのうえ米は高価であるため、〔備蓄米の横流しや供出拒否など〕種々の悪弊が生まれ、最後には有名無実化してしまうことが多い。

 そうした弊害を防ぐには、米に代えて稗(ひえ)を備蓄するようにするのがよい。稗は数十年間備蓄しておいても腐らない〔ので、入れ替えの手間がいらない〕。味も美味しくなく、価格も低いので、持ち出される心配もない。それでも飢饉の際の非常食とするには、草の根や木の皮より栄養は十分である。
    飢饉の際にはこの稗を食糧の基本として、老人・幼児・病人などの体力を補う。〔《春秋左氏伝・僖公十三年伝》で晋恵公が秦穆公に泣きついたように、飢饉になってから隣国の〕米を買い求めるのは容易な事で〔飢饉の救援策とはいうほどのものではないので〕ある。
 人民に教え諭して自分たちで稗を備蓄するようにさせるのが最もよいけれど、急に実行するのはきっと難しいだろう。そこで先に政府(上)からその事(=稗の備蓄)を始め、年貢高の百分の一を稗で納税させるのがよい。稗はいたって繁殖しやすい作物であり、痩せた土地を開墾して植えておくだけでさほどの労力を費すことなく、通常の米(常穀)よりもたくさん収穫できる。

 百分の一ということは、藩の石高が十万石なら稗による納税は一千石になる。しかし稗は米より繁殖しやすく価格も低いため、米の2倍の量を納めさせてもよい。これを中国の税法で「折色」(せつしき)という。折色とは、本色(本来、税として納めるべきもの)の代替品のことである。

 薪・炭・塩・茶・繩・竹・キノコ、または豆・麦、海産物であれば鰹節の類などの、一般家庭における日用必需品をその年の米価と照合して〔"薪1束は米何升に相当する"というように交換率を定め〕、人民で希望する者には、年貢の米の代わりに物納させ、藩士で右の品物を希望する者には、〔交換率に応じてその品物に相当する〕扶持米を別途差し引いた上で現物を支給する。〔この折色という納税制度なら、農民が手元に多くの米を残せるので〕収穫量の少ない年には、民間にとって大きな助けとなるだろう。

余論:息軒による飢饉に対する備蓄政策。
 中国では、戦国前期の孟子の「天人合一」思想が伝統的に主流で、天災は悪政に対する天の警告もしくは天罰と解釈されてきた。これを否定したのが戦国末期の荀子で、”雨乞いして雨が降るのはなぜか。何でもない。雨乞いしていないのに雨が降るのと同じである”といい、「天人分離」思想を唱えた(★)。荀子は政治と天災の因果関係を切り分けて考えることを提唱したのだが、これは漢代に入って”陰陽五行の感応法則に準じて、ヒトの行為が天災を引き起こすのだ”という機械論的自然観へと回収されていき、結局、”政治の乱れが天災を招く”という目的論的自然観へと回帰していった。

 息軒の災害観は、荀子の天人分離説に近い。天災を理不尽に到来するものと認識し、君主の道徳性によって天災を回避できるとは考えない。荀子から直接影響を受けたというよりは、おそらく荀子を重視した荻生徂徠の影響かと思われるが、そもそも毎年のように台風や地震が襲来する日本列島にあって、天災の責任を為政者に対して追求するような天人合一説は受け入れられにくい思想的土壌があるように思う。

 息軒は飢饉を防ぐことよりも、飢饉はいつ何時でも起こり得るという想定の下、事前にそれに備えておくことの重要性を主張する。2020年の新型コロナの世界的流行において、過去にSARDSの被害を受けていた国と地域はすみやかな対応を見せて感染封じ込めに成功し、戦前のスペイン風邪以来感染症の被害を受けていなかった欧米は後手後手に回って被害を拡大させた。日本は、SARDS被害を受けていない割にはよくやってきた方ではないかと思う。


補論:「天人の分」について。
 《郭店楚簡》という、孟子とほぼ同世代の人物の墓から出土した竹簡のなかに「天に分有り、人に分有り、天人の分有り」という語句があり、「天人の分」というフレーズ自体は、荀子が生まれる以前からあったらしい。
 ただし《郭店楚簡》の「天人の分」は福徳不一致について述べたもので、荀子の「天人の分」とはテーマが違う。

 福徳不一致の問題は、孔子が顔回の死に際して「噫、天予を喪ぼせり」と嘆いたり、死病に罹患した伯牛の手を取って「之を亡ぼせり、命なるかな。斯の人にして斯の疾有ること、斯の人にして斯の疾有ること」と嘆いているが、結局のところ「仁を求めて仁を得たり。又た何ぞ怨みん」というように、「福」の定義を世俗的な幸福からずらすことで解消することになる。

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