安井息軒《時務一隅》00
序
安井息軒は、幕末維新期の儒宗である。その《論語集解》や《左伝集釈》といった大作が、戊辰戦争のさなかに諸藩の資金援助を得て翻刻され、明治に入ってすぐ出版されたという事実は、幕末維新期の日本社会に占める息軒のポジションを端的に物語るであろう。
《時務一隅》は、文久年間に息軒がある老中(幕府の最高職)の下問に答えて書いた政策論で、内篇10篇、外篇15篇からなり、当時の時事問題を分析して、必要な制度改革を提言している。当時、息軒は昌平黌の儒官に着任した頃でーー息軒は古学者を以て自認していたが、幕府は「寛政異学の禁」を自ら破って息軒を招聘したーー、幕府の老中から下問を受けたのもその縁であろう。
この老中とは誰か。在任期間が文久年間にかかる老中は14人ほどおり、そのうち誰が下問したかは未詳である。
息軒の人間関係を見直せば、まず息軒は「安政の大獄」で幽居の身となった水戸斉昭に海防論を献策して揮毫を授かった過去がある。その斉昭の息子で後に15代将軍となる一橋慶喜は、息軒が昌平黌儒官に着任した時の副将軍であった。また文久2年の「文久の改革」によって、「安政の大獄」以来逼塞していた一橋派が復権するが、この「文久の改革」を主導した島津久光は明治6年に息軒《辯妄》に序文を寄せ、和文版の出版を後押ししている。このあたりから、下問した老中を絞り込めるかもしれない。
《時務一隅》を、同じ和文の政策論集である《救急或問》と比較した場合、《救急或問》の視点が藩政レベルに留まるのに対して、《時務一隅》は幕府レベル(国政)で制度改革を論じているという差異がある。両書の先後関係は未詳だが、”息軒の視野が藩政から幕政へと広がった”という関係で理解するのが妥当ではないか。
文久年間(1861-1864)は、開国からまだ6年ほどしか経過していない。「安政の大獄」(1858)や「桜田門外の変」(1860)の記憶も新しく、「文久の改革」を契機として、「文久の政変」「蛤御門の変」「薩英戦争」と時勢が急変していく時期である。
《時務一隅》は、幕政中枢に近い位置から、当代随一の知性によって執筆された時事論であり、維新前夜の一次資料として価値がある。
凡例
一、底本について
底本には、1916年刊行の如蘭社事務所編《如蘭社話・ 後編》2,3,6,8,18,20集に収録された活字版を用いる。底本の詳細は下記の通り。なお下記の篇番号の不統一は、底本に基づく。
1. 安井息軒、《時務一隅》、如蘭社事務所編《如蘭社話・ 後編》2、如蘭社事務所、 1916年。
2. 安井息軒、《時務一隅》承前、如蘭社事務所編《如蘭社話・ 後編》3、如蘭社事務所、 1916年。
3. 安井息軒、《時務一隅》三、如蘭社事務所編《如蘭社話・ 後編》6、如蘭社事務所、 1916年。
4. 安井息軒、《時務一隅》、如蘭社事務所編《如蘭社話・ 後編》8、如蘭社事務所、 1916年。
5. 安井息軒、《時務一隅》(五)、如蘭社事務所編《如蘭社話・ 後編》18、如蘭社事務所、 1916年。
6. 安井息軒、《時務一隅》(六)、如蘭社事務所編《如蘭社話・ 後編》20、如蘭社事務所、 1916年。
二、原文の表記について
原文の表記は底本に準じ、漢字は正字体を用いる。ただしUnicode未収録の字体は、異体字を以て替える。
例えば「青」字の正字体は“月”部を“円”部に作る。IBM拡張文字に収録されているため多くの機種で「靑」と正しく表示されるが、環境依存文字であることを鑑み、「青」字を用いる。
三、記号について
①句読点は底本に準じる。
②( )はふりがな、【 】は注釈を示し、いずれも翻訳者による。ただし底本に付されたふりがな・注釈(双行)は、その都度その旨を「※」印で示す。
四、意訳について
①作者が引用した典籍の出典や簡単な解説は、脚注で別途示すのではなく、訳文のなかに織り込み、できるだけ自然に読めるようにした。
②原文の文体は所謂る「候(そうろう)文」である。意訳に際してはその雰囲気を残すべく、「ですます文」を採用した。