安井息軒《時務一隅》(四)後段b

16-04 然れども千三百年來、人々肺腑に淪(し)み候ふ佛法、速やかに御潰(つぶ)しに成られ候ひては、天下の民心に相ひ響き、騒動の基に御座候ふ間、先づ古制に御復しに成られ、寺社奉行より、度牒御渡しなき者は、披剃相ひ成らざる趣、嚴しく仰せ出され、是れ迄披剃致し候ふ者も未だ一寺の主と相ひ成らざる者は、其師より願ひ出て、改めて度牒御渡しに成られ候ふ樣致したく候ふ。
 此儀は度牒之れ無く披剃致し候ふ者を御防ぐの手筋に候ふ間、本寺より歎訴致し候ひても、其旨を御諭しに成られ候へば、少しも御構ひ之れ無き事に候ふ。

意訳:しかしながら1300年来、人々の肺腑に染み込んでおります仏教を、〔民間の面倒事になっているからといって、〕すぐさまお潰しになられましては、日本全体(天下)の民心に影響し、騒動のもとでございますので、まず〔律令時代の〕古代制度へお戻しになられ、〔今後「度牒」は各宗派の本山ではなく、幕府の寺社奉行のみが発行することとし、〕寺社奉行より「度牒」をお渡しになっていない者は、出家(披剃)できない趣旨を厳しくお言い付けになり、これまでに出家(披剃)いたしておりました者も、まだ住職(一寺の主)となっていない者は、その師匠より〔寺社奉行へ〕願い出て改めて「度牒」をお渡しになられます様に致していただきたいです。〔当然、寺社奉行の「度牒」を取得できなければ還俗するものとします。〕

 この件は〔政府機関発行のライセンスである〕「度牒」無しで出家(披剃)いたします者を未然にお防ぎになるための手段ですので、〔これまで自由に「度牒」を発行してきた各宗派の〕本山(教団本部)より嘆き訴えて(歎訴)まいりましても、その主旨をお諭しになられていますので、少しも相手にしなくてよい事であります。

余論:息軒による緩慢な廃仏毀釈令。
 息軒がこの文章を書いた文久1-2年(1861-1862)からまだ10年と経っていない、明治元年(1868)に明治新政府が神仏分離令を出すや、全国で廃仏毀釈運動が燃え広がった。前段でいう「民間の難儀」が如何ほどのものであったかが、うかがえる。
 なお廃仏毀釈は一般的に民衆運動と見なされているが、南九州などでは諸藩の主導で徹底的に推進された。そのなかで佐土原藩(宮崎市佐土原町)は、本家筋にあたる薩摩藩からの廃仏要請に対して、「一宗派一寺残す」という方針を打ち出して乗り切った。おかげで、南九州では唯一佐土原町にだけ、近世以前の仏像が残っている。裏を返せば、少なくとも南九州では、廃仏毀釈は民衆運動ではなく、明治政府の政策だった。

 息軒は、各宗派の教団本部(本山)から僧侶資格(度牒)の発行権限を取り上げ、政府機関へ移譲するよう提言する。これは、仏教教団を政府の管理下に置くことにつながる。反政府的な人物には「度牒」を発行しないという処置が取れるからである。なお、本山についていえば、例えば浄土真宗の場合、総本山の西本願寺と東本願寺以外にも多くの派があり、派ごとに本山がある。
 なお明治新政府は明治2年(1869)に大教宣布を公布して神道国教化を宣言するものの、明治5年(1872)には宣教使による神道布教をほぼ断念し、僧侶を教導職に登用する神仏合同路線へ引き返すが、教導職となった僧侶には三条教則などに従うよう強いて、自由な宗教活動を制限した。結局、明治6年(1873)にキリスト教を解禁したことで、全国民を一律に教化する政策は実施困難となり、明治8年(1875)には神仏合同布教も破棄され、代わって「信教の自由」が宣言され、神道無宗教論が唱えられるようになる。


16-05 僧徒流罪以上の罪を犯し候ふ節は、其の寺をも破却致し、墳墓は其の儘差し置き、最寄り同宗の寺、請け持ちたるべく候ふ。又た末寺・小菴等破壞致し、三年以上無住の地も同樣たるべく候ふ。
 此の法制相ひ立ち候はば、往々僧徒の數、幷びに寺數相ひ減じ、身持ちも宜しく相ひ成り、民間の患苦、少しは相ひ除き申すべく候ふ、」

意訳:僧侶が流罪以上の罪を犯しました時は、〔彼が所属する〕その寺院をも壊して無くし(破却)ますが、境内の墓地(墳墓)はそのままにしておき、最寄りの同じ宗派の寺院が管理を受け持つのがよいと思います。また各宗派の本山(=本部)以外の末寺(=支部)や小庵(=出張所)などは破壊いたし、三年以上住職のいない寺院(無住の地)も同様にするのがよいと思います。
 この法律制度が成立しましたら、徐々に僧侶の人数ならびに寺院の数も減少し、僧侶一人ひとりの品行もよくなり、〔これまで仏教が原因で〕民間が受けていた苦しみも、少しは取り除かれ申すはずです。

余論:息軒による廃仏毀釈令。江戸幕府は本末制度によって、各宗派の寺院を本山ー末寺の関係で組織化させることで、宗教統制の効率化を図っていた。息軒は、本山を残して末寺を全廃することを提言する。
 息軒は「度牒」の発行制限によって僧侶の数を減らし、末寺の破壊により寺院の総数をも減らそうとしている。こうして見ると、明治初年の廃仏毀釈が果たして神道家の画策・扇動と言い切れるのか、疑問に思えてくる。

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