安井息軒《時務一隅》(四)前段

《如蘭社話・後編》巻8、頁23-26

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《時務一隅》      安井息軒

一 民間の政令法度ハ、簡易なるを貴び候、法令煩敷(煩しく)候得者、淳良【①】の民も從ひ兼【②】候、且土地に依て、風儀【③】習俗、少々宛(ずつ)相替り候故、關東の善政、西國に施し難き事も御座候、但太平の餘澤【④】にて、年々奢侈に流レ候儀ハ、天下之同弊に御座候間、奢を禁じ、檢に導候儀、何方(※イヅク)ノ國に於ても急務に御座候、中にも關東の婚禮、伊勢迎【⑤】など、分に過たる事に御座候、關東にて婚禮候者【⑥】、如何成ル貧民にても、損料【⑦】にて摸樣物【⑧】打掛等、借受相用候事の由、少し富候【⑨】者は、其奢侈莫大之事に相聞エ候【⑩】美濃【⑪】尾張【⑫】邊にて、參宮【⑬】致し候者ハ、迎として、おつヾり馬【⑭】、仕立遣し候由、富民ハ其數相增、四五匹に至候者も有之樣に候【⑮】、此等ハ財を費し候計りに無之、僭上之罪不輕(輕からず)候間、屹と御制禁被成度(に成られたく)候、猶【⑯】諸國に是に相類し候【⑰】宿弊【⑱】可有之(之れ有る可く)候【⑲】、中にハ心得宜敷者も有

(p.23裏)

之、甚迷惑致し候【⑳】へ共、一統【㉑】之風俗と相成候上ハ、若習俗通り不致(致さず)候得者、謗議【㉒】沸騰致し候故、無餘儀【㉓】(餘儀無く)致し候事と相見え候、箇樣の事ハ、嚴禁不被仰出(仰せ出されず)候而者、決して相止ミ不申(申さず)候、扠(さて)關東ハ奢侈の外に、一大害御座候、卽子を間引(マビキ)【㉔】候事に御座候、凡天地間に生を受候者、鳥獸虫魚の類に至まで子を愛せざる者無御座(御座無く)候、然者萬物の靈たる人と生れ、親たる者、手づから子を殺し候儀、天道神明【㉕】への恐れも御座候、此儀嚴禁無之(之れ無き)ハ、一大闕典【㉖】と奉存(存じ奉り)候、去ながら此も嚴禁バかりにてハ、行屆ク間敷候、先ヅ人として自身子を殺し候事、天地神明【㉗】の罰を蒙リ候所より、親子の情愛、人間【㉘】の道理を委敷(くわしく)書取リ、心得有之役人に命じ、愚民にも分り易き樣に、口上にて能々(よくよく)相諭し、貧民三人以上子供生育致し候者へハ、見計らひ相當に手當下され、若シ子を殺候者有之(之れ有る)節ハ、當人ハ不及申(申し及ばず)、組合【㉙】までも御咎ノ被仰付(仰せ付けられ)候樣、

(p.24表)

前以て御申渡シ被成度(に成られたく)候、富民にハ別段に、人生ハ互に相救べき道理を相諭し、上に御厄介不相掛(相ひ掛けず)、貧民子育の儀、致世話(世話致し)候者ハ、其人數に應じ、村中の高席、苗字帯刀、又ハ格式【㉚】等被下シ置(下シ置かれ)、手當を蒙り候子、十五歳より五十歳までハ、報恩の爲、月々一兩度づヽ、其家に手傳に相赴き、一生親同樣に心得罷在(まかりあり)候樣、被仰付度(仰せ付けられたく)候、若シ奉公に出るか、又ハ他村へ片付候者ハ、右之筋合を以て、兩家熟談【㉛】【㉜】の上、不義理不相成(に相ひ成らざる)樣、如何程も取計方可有之(之れ有るべく)候、天道【㉝】より御生ミ被成(に成られ)候人民の事に候へバ、一人助り候ても、莫大の御奉公に相成、金子差上候抔と同日之論に無御座(御座無く)候、況(まし)て數人相救候者共へ、苗字帯刀等被仰付(仰せ付けられ)候ても、濫賞【㉞】と申筋にハ相成不申(申さず)候、右御法相立候上ハ、無慈悲にて子育の手當不致(致さざる)者ハ、家柄富民たり共、手當差出候者の末席たるべく候、習俗ハ至て難變(變じ難き)物にて、右之通御法相立候ても、頑

(p.24裏)

愚【㉟】の民、墮胎致し候儀難計(計り難く)候、若(もし)墮胎の手傳致し候穏婆【㊱】有之(之れ有る)節ハ、人殺の罪に處せらるべく候、墮胎相賴【㊲】候當人及五人組ハ、子を間引候物と、同罪たるべく候、此法十年行れ候ハバ、親子之至情【㊳】、自然と子を殺すに不忍(忍びざる)樣相成可申(申すべく)、幾十萬の人民相助り、人君の御務第一の事と奉存候、私在所【㊴】飫肥(※オビ)【㊵】封內にても、往年より、子を間引候惡俗御座候處、三十二三年前、大略前文通りの法度相立、一人の罪人も無之程能行ハれ、只今にてハ、打棄置候ても子を間引候者一人も無御座候、親子の至情、さも可有之(之れ有るべく)事に御座候、

【★以下、息軒による補足】
先年在所に於て、右の法相立候節、板敷【㊶】と申村に一人の老人有之、此令を承候て、我等も子供七人生れ候ヘ共、貧窮故四人間引、三人育候處、三人の子供、追々【㊷】死去致し、遂に養子を致候事に相成候、此御法度、三十年前被仰出(仰せ出され)候はヾ、今日の難儀【㊸】ハ致間敷者をと痛哭致し候由、此言を承り候者、皆尤と致感動(感動致し)法令行はれ候一助と相成申候


注釈:
①淳良:素直で善良なこと
②兼:底本は正字体に作る。表示できないので、新字体を用いる。
③風儀:①しきたり、②行儀作法、品行、③風紀。ここでは①
④餘澤:先人が残してくれた恩恵。また、あり余って他にまで及ぶ広大な恩沢。
⑤伊勢迎:伊勢詣。江戸時代には年間100万人を越える人々が伊勢神宮を参拝した。伊勢参拝者を通じて、都市文化が地方の農村へと伝えられた。
⑥關東にて婚禮候者:《救急或問》(p.17-18)では、婚礼費用の高額さが貧農を中心に生涯未婚者を生み、彼らは独身の身軽さゆえに都会へ出て行き、耕作放棄地の増加ひいては年貢収入減少、さらに犯罪件数や私娼窟の増加を引き起こしていると指摘し、婚礼規模に法的制限を課すことを提言する。
⑦損料:衣服や器物をレンタルした時の料金
⑧摸樣物:柄物の衣服
⑨打掛:女性用和服の一つで、一番上に羽織るもの。
⑩候:底本は草書体に作る。表示できないので、隷字体を用いる。
⑪美濃:岐阜県
⑫尾張:愛知県
⑬參宮:伊勢神宮参拝
⑭おつヾり馬:未詳
⑮候:底本は草書体に作る。
⑯猶:底本は正字体に作る
⑰候:底本は草書体に作る。
⑱宿弊:古くから続いている弊害
⑲候:底本は草書体に作る。
⑳候:底本は草書体に作る。
㉑一統:統一
㉒謗議:悪し様に批評すること。
㉓餘儀:他にとるべき手段
㉔間引:子殺し。経済的事情などから育てられないと判断した嬰児を、産後すぐに殺すこと。《救急或問》にも、間引き根絶の必要性とその手法が提言されている。
㉕天道神明:「天道」は天地自然の法則、「神明」は神を指す。注㉗では「天"地"神明」に作る。
㉖闕典:規則・規定などが不完全なこと。不完全な点。
㉗天地神明:天と地にいる数多の神々。
※㉕「天"道"神明」との違いに注意。ここは、人民に教え諭す内容を述べているので「天地神明」(神々)という言葉を使っているが、息軒は《弁妄》にて、日本の国産神話をキリスト教の天地創造神話と同じ、草莽の民が生み出した迷信と一蹴している。そのうえで、為政者はこうした人民の素朴な宗教心・超越者への畏怖心を統治や教化に利用するべきで、祭祀儀礼は民心を安心させるためのデモンストレーションと割り切る。こうした功利主義的宗教観は、後には福沢諭吉が、先には荻生徂徠が提唱している。中国では先秦末期に荀子が唱えた。
㉘人間:社会、世間。
㉙組合:五人組。江戸時代に人民統治のために敷かれていた相互監視制度。ある一家の人間が犯罪を起こすとその身内のみならず、その家と五人組を構成している他の四家の人間も連帯責任として処罰を受けた。
㉚格式:身分や家柄に関する礼儀作法。身分制階級社会では、一目で所属階級が判別できるよう、着衣可能な衣服の色や素材、儀礼の規模などが決まっていた。
㉛熟談:底本は「熟」字を「熱」字に作る。誤字であろう。今、訂正する。
㉜熟談:懇談。十分によく相談すること。話合いで折りあいをつけること。
㉝天道:天地自然の法則、天理。なお息軒は《弁妄》にて、生命の自然発生説を支持している。
㉞濫賞:無闇と賞を与えること、やたら褒めること。
㉟頑愚:頑固で道理にくらいこと
㊱穏婆:産婆
㊲賴:底本は正字体に作る。
㊳至情:①この上なく深い心、まごころ。②きわめて自然な人情。
㊴在所:郷里である田舎、国もと。
㊵飫肥:現在の宮崎県飫肥市と宮崎市清武町。薩摩(島津)と領界を接する。息軒の出身地である。
★以下の段落を、底本は文字をやや小さくし、段落全体を一マス下げる。
㊶板敷:地名
㊷追々:時間が経つにつれてだんだんと
㊸難儀:苦労、困難



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