安井息軒《時務一隅》(一)02b
02-01 君は天下の心に御座候、心暗弱に候へば、手足健やかなりと雖も、其の用を爲すこと能はず、何事も人並みには出來兼ね申し候ふ。是の故に賢姦の進退、國用の奢儉、國家の貧富、天下の治亂、孰れも君上の賢不肖より起こり候事、和漢の先蹤、歷々相見え申し候ふ。當將軍家、御英明わたし爲され候ふ由(よし)、天下の大幸此事に御座候。然かれども未だ御若年の御儀、殊に風俗弊壞、外夷窺隙、容易ならざる御時節に候へば、君德御輔導の儀、今日の急務と存じ奉り候ふ。
余論:上の本文は、原文を読みやすいように整理し直している。
本段は本節の導入部分に相当し、君主は暗愚であってはならないという前提条件を確認する。ここから将軍の教育問題へと話をつなげる。
02-02 德行修明の儀、貴賤となく、學問を主と致し候ふ事ゆえ、儒臣御親近し候ふ儀、勿論の事に御座候。然かれども儒臣も林氏の外は禄秩卑く、講義の外は、何事も申し上げ兼ね申すべし。尤も奥儒は、頗る御親しみも在り爲され候ふ事と相ひ見え候えども、是れも亦た日々進講と申す程には之れ有るまじく、縱令(たと)ひ日講仰せ出され候へども、講義相ひ濟めば、直に退出致し候ひては、補益少なく候ふあひだ、進講後も御留め遊ばされ、時務形勢等、御話し申し上げ候ふ樣成されたく候ふ。右の通り仰せ出され得ば、先づ其の本は立ち申し候へども、儒官は朝夕侍從の臣に御座無く候ふあひだ、兎角御補益多からざり候ふ。
余論:14代家茂将軍に対する教育方法について、提言する。
家茂将軍(1846-1866)は安政5年(1858)に13歳で将軍職に就任し、文久年間(1860-1864)でもまだ15~19歳のティーンエージャーであった。それゆえ息軒は、家茂の人格形成に焦点を当てて、まず儒臣を身近におくこと、そして儒臣から儒学のみならず時事問題や国内外の情勢についてレクチャーを受けさせることを提言する。
ただ、たとえ講義後に雑談の時間を設けたとしても、儒官は家茂将軍と一緒に過ごす時間がそもそも短いため、家茂将軍が薫陶を受けるには十分ではない。この不足をどう補うかを次に論じる。
02-03 古語に「習慣如自然」(習慣は自然の如し)と申し、「僕臣正厥后克正、僕臣諛厥后自聖」(僕臣正しければ厥(そ)の后(きみ)も克く正しく、僕臣諛(へつら)へば厥の后自(みずか)ら聖とす)とも申し候ふ。朝夕左右に陪侍致し候ふ衆は、御親しみ深く、自然氣習に御染み遊ばされ候ふ儀、人情の常に御座候あひだ、御用・御側以下、御小納戸・御小姓衆等、總て近侍の方は、忠實にして、志操ある人を御撰用相ひ成り、晝間は成る丈け御表に在り爲され候ふ樣成されたし。御輔導の筋は、東照公天下の爲にご苦勞遊ばされ候ふ儀、御歷代樣御高德の筋は申し及ばず、和漢の盟主、天下之事に御心を盡され候ふ事より、當時天下の形勢、民間の利害等、事に觸れ機に投じて御話し申し上げ候ふ樣成され候はば人君之道聢(シカ)と御合點遊ばされ、御志相ひ立ち、御心得益〻正しく、御高慢の氣も出申さず、御才德の進み候ふ事、朝日の昇る勢に成り爲さるべく候ふ。
余論:息軒は、《孔子家語》の孔子の発言を引用して”若い頃に身につけた習慣が性質と化して取り除けなくなる”といい、そして《尚書・冏命》を引用して”臣下の人格が、君主の人格形成に対して大きな影響を及ぼす”という。
以上を踏まえて、家茂の近くに一日中伺候している御用人や小姓に「志操ある人」を選抜することを提言する。息軒の提言を待つまでもなく、将軍の小姓には人品が最も重視されたという。
それから儒官の役割にもどって、家茂に与えるべき教育内容について言及する。儒学に限らず、歴代徳川将軍や日中両国の盟主など、歴史上の優れた君主の事績。それから現在の社会情勢や民間の問題。これらについて、何かにつけて解説を施し関心を育めば、家茂自身が「君主の道」について自分なりに何かを掴むという。
ちょっと面白いのは「晝間は成る丈け御表に在り爲され候ふ樣成されたし」という唐突な一文であろうか。家茂は幼少の頃は風流を好んだが、13歳で将軍となってからは文武両道を修めるよう努めていたという。それでも息軒から見れば、家茂は運動不足に見えたのだろうか。家茂は慶應2年(1866)に脚気で没している。享年20歳。