安井息軒《時務一隅》(五)中段a
22-01 王室御盛の時は、唐の租庸調を祖として、財用を御制しに成られ候ふ故、金錢至って少なく候得共、上下共少しも不自由御座無く候。
租庸調とは、田あれば租あり、身あれば庸あり、宅あればば調ありと申し候ひて、天下の征税を三つに定め、其の間に折色と申す事ありて、土地の名產、公用に相ひ成り候ふ物は、前以て製し置き、本税と貴賤輕重を平均致し、其の品を以て、年貢・運上へ差し當て候ふ故、人君たる者は、一色も市に買ひ候物之れ無く、下民も品物にて、互に交易致し候ふ故、金錢の入用少なく、商賈は唯だ其の窮する所を通じ候ふ迄に御座候ふ故、四民の中にて、商賈の數、至って少なく候。之に因りて耕民多く、遊手少なく、自然に生之者多、食之者寡(之を生ずる者多くして、之を食ふ者寡なし)の道理に相ひ叫(かな)ひ、上下共に富貴致し候ふ。
意訳:〔鎌倉時代より前の〕皇室の勢力がお盛んだった時は、唐朝の租庸調を元として、財貨をご統制になられておりましたので、世間で取引に使われる貨幣(金錢)の量はとても少なかったのですけれども、政府(上)も民間(下)も少しも不自由はございませんでした。
租庸調とは〔律令時代の税制で〕、田があれば米を現物納する「租」があり、身体があれば労役である「庸」があり、家屋があれば布製品を物納する「調」があると申しまして、天下の徴税をこの三つに定め、その間に「折色」と申す事があって、その土地の名産品や公用になる物は事前に製造しておいて、本税〔である米〕と市場価格(貴賤)や重要性(輕重)を平均いたしまして、その品でもって年貢や運上に差し替えますので、君主たる者は一品も市場で買います物品は無く、人民(下民)も品物で互いに物々交換いたしますので、金銭を使用する場面が少なく、商人はただ〔その物資が特に不足して〕困窮しているところを融通しますまででございますので、〔士農工商の〕四民の中で商人の数は至って少なかったのです。
これにより田畑を耕やす人民が多く、働かずに遊び暮らしている者(遊手)は少なく、自然と《礼記・大学》が「生財の道」として説く「農作物を作る者が多くて、これを食べるだけの者が少ない」という道理に一致し、政府(上)も民間(下)も経済的に豊かでした。
22-02 歴史を考へ候ふに、王室にて金銀御鑄立(ふきたて)の儀、三四に過ず、足利氏の時、金銀乏しきに付き、明國へ申し遣はし、永樂錢三十六萬貫を申し請けられ、天下の金錢、不足御座無く候ふ。今日豪商は、一人にても、右の十倍は儲蓄致すべく候ふ。是にて古の世柄を御推知下さるべく候ふ、
意訳:歴史を考えますに、朝廷(王室)で金貨や銀貨をご鋳造(鑄立)になったのは、〔富本銭と和同開珎の後は、800年間で金貨1種・銀貨1種・銅貨12種(皇朝十二銭)など〕三度か四度に過ぎず、足利氏の時代(=室町時代)は〔日本国内の〕金銀が乏しかったため、明国へ申し入れて永樂銭36万貫を輸入して〔これを通貨として日本国内で使用したので〕、日本社会(天下)の貨幣(金錢)は不足することがございませんでした。今日の豪商は、一人で右の〔銅銭36万貫の〕10倍は貯蓄いたしているはずです。ここから昔の世相をご推知できるでしょう。
22-03 豐臣氏以来は、庸調を租に合はせ、田地の税を五、六倍に相ひ增し、諸侯大夫は、米を賣りて諸品を買ひ入れ、百姓は金納とも申す事相ひ始まり候ふ。米穀を賣り、金子を上納致し候事に相成候故、上は人主より、下は百姓に至り候ふ迄、金錢なくては、一日も暮れ難く候。
意訳:豊臣氏以来、〔労役の〕庸と〔布を納める〕調を〔米を物納する〕租に統合して一本化し、〔庸・調を廃止した分〕田地の税を五、六倍に増やし、諸侯や藩士(大夫)は、米を売って〔得た現金で〕諸々の品々を買い入れ、百姓は「金納」とも申す事が始まっています。〔「金納」とは米を物納するのではなく、百姓側で年貢相当の〕米を売り、その金を納税いたします事になりますので、上は君主より下は百姓に至りますまで、貨幣(金錢)がなくては一日も送り難いです。
余論:「百姓は金納とも申す事相ひ始まり候ふ」とある。「百姓」は漢文では人民一般を意味するが、ここでは“商人を含まない”という意味で、現代語と同じく農民の意味であろう。
百姓が納めるのは租税であり、その現金納付が文久年間には一部始まっていたらしい。地租の現金納付は明治6年(1973)の「地租改正」に始まるものだとばかり思っていた。