安井息軒《時務一隅》(二)04c
04-07 小身御家人等は、節儉を宗とし、廉恥を養ひ、師友を撰び、放蕩を愼み、功を立て、名を揚げ候ふ儀に志し候ふ樣、御仕向け成されたく候ふ。
其の中に志宜しき者は、御賞美成され、才學成就に赴き候ふ者は、御撰用下さるべく候。是れ迄も御賞典は立て置かれ候得共、多くは文具に流れ候ふ。
意訳:身分が低い御家人などは、質素(節儉)を宗とし、恥を知る心(廉恥)を養い、〔彼らは内傅を置くだけの経済力はないため、どこぞの家塾へ通はざるを得ないでしょうから、その際には〕教師と学友(師友)をよく吟味し、酒食に溺れること(放蕩)を慎み、功績を立て、名声を揚げますことを志します様、〔幕府の方より〕仕向けていただきたいです。
その中で心がけがよい者はご賞美あそばされ、才能と学問(才学)が完成に向かいそうな者は、何らかの官職にご登用くださるのがよいでしょう。これまでも学業優秀者に対するご褒美(賞典)の規定は設けておりましたけれども、多くは文房具などでお茶を濁していました。〔そうではなく、登用をご褒美とするべきです。〕
余論:息軒による御家人教育法。徳川家臣は大きく三つに分けられ、俸禄1万石以上を大名、1万石未満で将軍に謁見する権利を有する者を旗本、有さぬ者を御家人という。そして幕府において大名が高級官僚、旗本が中間管理職、御家人が平役の職員に任用される。前段では大名と旗本向けの教育改革案を述べたが、本段では御家人向けの教育改革案を述べる。
注目すべき点としては、まず幕府の方から目標とすべき人材像を明確に提示し、その目標を達成した人材に対しては、褒賞として文房具など物品の贈呈して済ませるのではなく、きちんと官吏に登用すべきだと提言する。
04-08 且つ賞あれば必ず罰あり、賞罰は政事を助け候ふ大用にて、離れざる者に御座候ふ。聖人の世と雖も、此を弄(あなど)り候ひて、治を致す事は、決して出來申さず候ふ。當時昌平黌の御法は、賞ありて罰なし。譬ふれば慈婆の愛孫に菓子を與ヘ候ふ類にて、恐るる處之れ無く候ふ故、有り難しとは存ぜず、却て跡ねだりを致し候ふ。
無罰の賞は、何事も右に類し候ふ故、古より學校にも罰を立て置き候ふ。「夏楚二物、以収其威」(夏楚二物は、以て其の威を収む)、又た「左學」より「右學」に移し、甚だしきに至り候ひては、「三年不齒」(三年齒せず)などと申す儀《禮記》に相ひ見え、何れも學校の罰に御座候ふ。
意訳:かつ「賞」があれば必ず「罰」があるもので、「賞」と「罰」の二つは政治を補助します大切な働きで、政治から離れないものでございます。聖人の治世といえども、この賞罰を軽視しましては、治政を行うことは、決してできません。
ところが現在(※江戸時代)の昌平黌の規定では、「賞」だけがあって「罰」がありません。これを譬えれば“優しい祖母が可愛い孫にお菓子を与え〔て言うことを聞かせようとす〕る”類のことで、孫にしてみれば何も怖くありませんので、お菓子をもらってもありがたいとは思わず、かえって“もっとよこせ”と後ねだりをします。
無罰の賞は、どんな場合でも右に類した結果になりますので、昔から学校でも罰則規定を設けていました。例えば「榎(えのき)のムチと荊棘のムチは、教師の威厳を守る」(《礼記・学記》)とあり、また劣等生は王府の東郊外に設置された「左學」(小学)から西郊外の「右學」(大学)に移し、甚だしきに至っては「三年間、会合に参加させない」などと申しますことが《禮記》に見え、いずれも学校内の罰則規定でございます。
余論:息軒による教育現場への罰則規定導入の提言。息軒は、「賞」しかないのは不完全で、「賞罰」と二つ揃わなくては効果がでないという。
現代の教育現場を見れば、生徒や児童に対する懲罰は全く容認されておらず、ただ褒めて子供のやる気を引き出すという方法が推奨されている(ように見える)。息軒がいうところの「賞有りて罰なき」状態であり、確かに「慈婆の愛孫に菓子を與ヘ候ふ」やり方に似て、児童・生徒も教師に対して「恐るる處之れ無く候ふ故、有り難しとは存ぜず、却て跡ねだりを致し候ふ」有様ではある。
だからといって体罰を復活させろとは思わないが(自分の中学・高校時代に受けた体罰を振り返ってみても、納得のいく体罰というのは一つもない)、ただどうしても「勉強をしたい」という気持ちになれない子供はいるだろうから、彼らのために「勉強しないとまずい」という気持ちにさせる仕掛けの一つとして、例えば「落第」とか「奉仕活動」といった何らかの罰則を設けて”あげる”必要もあるのではないかと、個人的には思う。
◯
息軒はここで「《禮記》に相ひ見え、何れも學校の罰に御座候ふ」というが、《礼記》のどこに書かれているのか、最初の「夏楚二物、以収其威」が《礼記・学記》に見えるほかは、引用元が分からない。識者の教導を待つ。
2つ目の「左学」「右学」という単語は《礼記・王制》に見え、殷代の制度で、ぞれぞれ退職した高齢者を養い、年少者に「孝悌」について学ばせる教育機関と説明されているが、”片方からもう片方へ移す”というのが、どこに書かれているのか分からない。
特に「左学」が一般人の高齢者を養う「小学」で、「右学」が士大夫の高齢者を養う「大学」なので、左学から右学へ移すことがなぜ処罰に相当するのかも、よく分からない。待考。
3つ目の「三年不齒」という語句は《礼記》にはない。経書のなかでは《周礼・秋官司寇・司圜》に見える。「司圜」は罷民(=遊民)を収監して矯正教育を施す役職である。矯正不可能な者は処刑し、あとは程度に応じて1~3年で出所させるが、「雖出、三年不齒」、出所してから3年間は集会に参加する資格を停止するという。教育機関に関わる罰則規定ではあるが、文脈が多少ズレており、適切な事例とは思えない。
04-09 此の法は、廉恥を重じ候ふ。當時の士には施し難く候得共、旣に御賞典之れ有る上は、相應の罰もなくて叶はざる事に御座候ふ。此れ以後出精せざるの者、又は一旦御褒に預かり、其の後怠り候ふ者は、相應に御咎め仰せ出だされ候はば、嚴父の物を與へ候ふに、僅か一塊の菓子にても、其の子有り難く存じ候ふが如く、恩威並びに行はれ、風俗改まり候ふ助けとも相ひ成り、人材輩出致すべく候ふ。
然れ共是れも亦た依怙の沙汰生じ易き筋も御座候ふ間、御目付・徒目付・舎業【①】抔の節、不時に其の席に臨み候ふ樣成されたく候ふ。左樣相ひ成り候はば、師弟共凛然として、教育一人行き屆き申すべく候ふ。
注釈:
①舎業:未詳。幕府の役職の一つであろう。
意訳:これらの罰則は〔痛みに対する恐怖心や罰金に対する打算の心に訴えかける性質のものではなく〕、ヒトの”恥を知る心”(廉恥)の働きを重視します。
〔これらは古代中国の社会制度を前提とする罰則規定ですので、〕現代(※江戸時代)の武士に対しては実行するのは難しいのですけれども、すでに褒美(賞典)の規定がある以上、やはり相応の罰則規定もなければなりません。これ以降は勉学に精をださない者や、または一旦はご褒美に預かりながら、その後怠けております者は、それ相応に譴責(御咎)なされましたら、厳父が物を与えますのに、僅か一塊りのお菓子でも、その子供はありがたく存じますように、温かい情け(恩)と厳しい態度(威)が同時に実行され、〔昨今の武家社会に蔓延している緩みきった〕風俗・習慣が改善されます助けにもなり、〔幕政を委ねるに足る〕人材も輩出するはずです。
しかしながら、これもまた〔評価担当者側に〕依怙贔屓という行為が生じやすいという面もございますので、〔幕政の監督と諸大名を監察を担当する〕御目付や〔幕吏の執務状況を内偵する〕徒目付、あとは舎業などが公務の折に、前触れ無く〔昌平黌を訪問して講義をしている〕その席に臨みますようになさっていただきたいです。そのようになりましたら、師弟ともにピリッと引き締まり(凛然)、教育はひとりでに行き届くはずです。
余論:息軒に依る教育現場における罰則規定導入論の続き。息軒が考える教育現場における罰則規定とは、「廉恥」、すなわち児童や学生の”恥を知る心”に働きかけて猛省を促すもので、痛みに対する恐怖心で支配する体罰や、金銭的損害に対する打算に付け込む罰金とは根本的に異なる。そうしてみると、息軒は「罰」という言葉を使っているが、我々が言う所の「罰」ではないようだ。
04-08 學問は其の才に隨ひ教を施し、各〻國家の用に立ち候ふ樣、仕立て候ふ儀、勿論の事に候得共、此の儀は師儒の才不才に依り候ふ事故、縱令(たとひ)仰せ出され候ふても、一概には行き屆き申すまじく候ふ。
但し教育の大體立てず候ひては、御用に立ち候ふ人才出來兼ね申すべく候ふ。心を正し行を修むるは、學問の主意たる事、申す迄も御座無き候ふ。然れ共箇樣相ひ心得候ふばかりにては、有體無用の誹りを免れず、國家の益に成り候ふ事少なく候ふ。之れに依り學問修行の趣は、「君子〔以〕多識前言往行、以畜其德」(君子は〔以て〕多く前言往行するを識(しる)して,以て其の德を畜ふ)と申す辭を主として、其の極功は、「修身以安百姓堯舜其猶病諸」(身を修めて以て百姓を安んずるは堯舜も其れ猶ほ諸(これ)を病めり)と申す語を志し候ふ樣成されたく候ふ。
右孰(いづれ)も孔子の語にて、學問の筋を包括致し候ふ。才に大小あり、志に高卑ありて、人々右の場合に至り候ふ譯には、參り兼ね候得ども、右二語は、學問の大本に御座候ふ故、此處(ここ)に志し候得ば、才の大小、志の高卑とも、國家御用の間に合ひ申すべく候ふ。
意訳:学問はその才能に合わせて教育を施し、各々が国家の役に立ちます様に仕立てますことは、勿論の事ですけれども、この事は教師(師儒)の能力によります事ですので、たとえ〔教師に“そのようにせよ”と〕お申し付けになられましても、一概に行き届くはずがありません。ただ教育の大まかなところが定まりませんでは、お役に立ちます人才は養成できないでしょう。“心を正しくし、行いを修める”事が、学問の主意である事は、申すまでもございません。しかしながら、この様に理解しているだけでは、「実体があっても用途がない」(有体無用)という批判を免れず、国家の利益になります事は少ないです。
ここから、学問修行の趣旨は「立派な人物(君子)は昔の人の格言や事績を学んで、自らの徳を養う」と申します言葉を主として、その究極の成功は「私人として行いを正しくして身を修めつつ(修身)、同時に公人として天下万民の暮らしを安寧に導く(安百姓)ことは、堯や舜といった古代の聖王にとってすら容易ではなかった」と申します言葉を目標としますようになさっていただきたいです。右はどちらも《論語》に見える孔子の言葉で、学問の手立てを包括いたしております。
ヒトの才能には大きい小さいがあり、志には高い低いがあって、全ての人々が右の境地に至りますわけには参りかねますけれども、右の二つの言葉は学問の大本にございますゆえ、ここを目標としましたら、才能の大きい者も小さい者も、志の高い者も低い者も、それぞれのレベルに応じた形で国家のご用を果たすには間に合うことができます。
余論:息軒にとっての教育の目的。要するに国家に有用な人材を育成することが目的である。
儒家では学問を目的に応じて「爲己之学」と「爲人之学」に分ける。前者は”自分自身を高めるためにする学問”であり、後者は”他人に認められるため=就職するための学問”であり、前者を重視してきた。
とはいえ、儒者の多くが前者を標榜するのは、ぶっちゃけて言えば、就職できていないという自分の現状を受容するためである。江戸時代は私塾がいくつも開かれて、平民で儒学を学ぶ者が増えたが、平民が儒学を学んだところで、中国のような科挙制度は無いので、政治に参画する可能性はない。では、彼ら平民は何のために儒学を学ぶのか。ある者は文献考証学へ耽溺したが、多くの者は儒学を倫理学と位置づけ、「爲己之学」を掲げて、「修養」(倫理的に正しく生きること)を目的とした、というか、目的にせざるを得なかった。
一方、息軒や荻生徂徠ら古学派は、儒学を政治学と位置づける。彼らは武士であったし、特に息軒の場合、三計塾の塾生には町人は一人もおらず、武士で占められ、みな近い将来幕政や藩政に参与することが約束されていた。その彼らが三計塾で儒学を学ぶ目的は「治国平天下」であり、息軒もそのつもりで教育を施した。
04-09 此れ等の事を、「功利の學」と稱し、賤しめ輕んじ候得共、總て學問は、民を輔(たす)け世を安んずるの道に候ふ間、此の道に外(はず)れ候ひては、道は天人を究め、理は豪毛を析し候ひても、國家の事に益なく候ふ。世上學問の是非は姑く之を置き、人材教育は、右の趣意を本と成され候ふ樣致したく候ふ。(未完)
意訳:〔朱子学者などは〕こうした事を「功利の学」と称して、卑しめて軽んじますけれども、総じて学問というものは、人民を助けて世の中を安定させるためのものですので、この道を外れましては、たとえ〔道学だの格物窮理だのと自称して〕天道と人道の相関性を研究したり、毛髪の「理」までも分析し尽くしましても、何の国益にもなりません。こうした世間一般でいう「学問」の是々非々はしばらく置くとして、人材教育は右の趣意を基本となされますように致したいです。(続く)
余論:息軒の「功利主義論」。
息軒は、君主個人の利益でも、幕府という組織の利益でもなく、国家の利益を掲げる。