安井息軒《救急或問》16
(14頁)
一諸國官署ニ一大弊アリ、一署ノ官人幾人アリテモ、皆上官一人ノ成法ヲ承テ、自ラ謀ヲ發シ慮ヲ出ダスヿ能ハズ、是レ一府ノ事一人ノ處置ト成リテ、衆人ハ員ニ備フル迄ナリ、此ノ如クニテハ多ク官員ヲ備フル甲斐ナシ、洞家【①】ノ法論【②】ハ沙彌【③】ヨリ始ム【④】ト云フヿアリ、沙彌ハ小僧ナリ、和尚先ヅ法ヲ説ケバ其餘ハ口ヲ開ヿ能ハズ、故ニ小僧ヨリ段々上ニ押上セテ衆論盡キタル後、和尚之ヲ斷スルナリ、浮屠ノ法ヲ論
(15頁)
ズルスラ此ノ如シ、增シテ一國ノ政府ニテ、衆官ノ言ヲ盡サシメズ、上官タル者一人ノ了簡ニテ事ヲ處置スルノ理アランヤ、故ニ上官タル者ハ先ヅ屬吏末官ニ言ヲ盡サシメ、其善ヲ擇ンデ之ヲ取リ、若シ衆議未ダ善ヲ盡サズンバ、其時己ガ見ル所ヲ述ベテ之ヲ行フベシ、此ノ如クスレバ衆人ノ智ヲ盡シテ一事ヲ謀ルユヘ、必ズ敗事少ナキナリ。
注釈:
①洞家:曹洞宗
②法論:仏教における議論。教義をめぐって行われる論争。宗論や問答。
③沙彌:未熟な僧。年齢により、駆烏沙彌(7~13歳)、応法沙彌(14~19歳)、名字沙彌(20歳以上)の三種に分ける。
④出典未詳
意訳:諸藩の官公庁には一大弊害がある。それは、一つの部署に官吏が何人いようと、みな役職者一人が決めたことを受け入れるだけで、下の者たちが自ら計画を発案したりアイデアを出したりできないことだ。これでは役所全体の事をたった一人が処理していることになり、その他大勢は単なる定員合わせに過ぎない。このようでは多くの官吏を揃えている意味がない。
曹洞宗には“法論は沙彌より始めよ”という言葉がある。「沙彌」とは小僧のことである。例えばある寺院で仏法をテーマにディスカッションを開いたとして、〔その寺院で最上位に位置する〕和尚が一番最初に自分の考えを話してしまったら、残りの者たちはもう口を開くことができなくなる。だから〔その場で最下位に位置する初学者の〕小僧から発言させて段々と上位に押し上げていき、全員の議論が出尽くした後で、和尚が裁定を下すのである。
仏教徒(浮屠)が仏法を議論する場合ですら、このような工夫がある。まして一藩の政府で、官吏全員に意見を出し尽くさせることなく、役職者ただ一人の了見で物事を処理する道理があろうか、いやない。
だから上役たる者はまず自分の部署に所属する部下たち全員に意見を出し尽くさせて、その中から最善案を選んで採用し、もし全員で議論してもまだ最善案が出てこなければ、その時に初めて自らの見解を述べてそれを実行するというようにすべきである。このようにすれば、大勢のヒトが智慧を尽くして一つの事案を検討するため、必ず失敗する事は少ないものだ。
余論:息軒による、組織における議論の仕方。LTD(話し合い学習)にも応用できるだろうか。
①目下から順に発言させる:目上の人間が先に発言すると、目下の人間は、同意見なら自分が改めて発言する必要はないと考えるし、反対意見なら「自分の考えは間違っていたんだな」と合点してしまうので、もうそれ以上何も言えなくなり、議論はそれ以上発展しなくなる。だから、目下から順に発言させる。目下の意見に対しては、補足することも反対することも気兼ねがいらないので、目下の意見を”イジる”形で議論が進展する。
②トップは自分の意見を披露しない:部下に出させた意見の中から、最善案を選ぶようにする。理由の一つは部下に手柄を譲り、今後の議論の更なる活発化を図るためで、もう一つは失敗した時の責任を部下に負わせるため(だろう)。どうしても最善案が出ないときに、初めて自分の意見を出す。
③決めるのはリーダー:話し合いは全員で行うが、意志決定はリーダー一人が行う。リーダーが多数派の意見に流されることはあるにせよ、最終的な意思決定を多数決に委ねることは決してない。ここが議会制民主主義と根本的に違うところであろう。
谷干城が日記に記した所によれば、息軒の輪読(漢文の読解演習)の授業もだいたいこんな感じだったらしい。いつも目下から順に自分の解釈を述べていき、息軒は基本的に聞いているだけ、弟子同士で意見が割れてどうにも決着がつかない時に、弟子たちが息軒に裁可を求めるとその時はスパっと答えてくれる。息軒の解釈には必ず文献上のエビデンスがあって、みな納得させれられたという。
「衆議」について。中国歴代王朝というと皇帝による独裁政治というイメージが強いが、服部宇之吉《支那研究》によると、実際はものすごく「会議好き」だそうだ。服部宇之吉は、日清戦争に敗北した清朝が日本に倣って立憲君主制の導入を図った際にアドバイザーとして招聘されており、清朝朝廷を内部から観察した所感を記している。
それによると、朝廷ではほとんど毎日のように会議が開かれ、皇帝の御前で大勢の官僚があぁでもないこうでもないと激論を闘わせ、だいたい意見が出尽くしたところで宰相が皆の意見を取りまとめて結論を出し、それを皇帝に奏上して裁可を待つ。皇帝は特に異論がなければーー合格率0.0003%という科挙をくぐり抜けてきた天才たちが議論し尽くしたうえで出してきた提案に、世襲で帝位を継承しただけのただのヒトが異論など持ちようはずもなくーー、「良きに計らえ」(お前に任した)と言うことになる。
そうすると、明治新政府の〈五箇条の御誓文〉の「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」にしても、別に「広く会議を開く」事自体は東亜の伝統であって、「会議」という漢語がそれ以前に無かったにせよ、コンセプト自体は目新しくも何ともない。
重要なのは「公論ニ決ス」の決し方で、これが会議参加者全員に依る多数決や合意形成を意味していたのか、それとも天皇による裁決を意味していたのかが、よく分からない。