安井息軒《救急或問》08

(八頁)

一、古ハ世祿アレ共世官ナシ、祿ハ功ヲ賞スル者ユヘ子孫及ブベシ、官ハ君ヲ助ケテ國ヲ治メ民ヲ安ズル者ナレバ子孫ニ及ブノ理ナシ、然ルニ先祖ノ功アリシヲ以テ、國家第一ノ重職タル大夫ヲ世官トスルハ、沙汰ノ限リナルコトナリ、且大夫トナルノ家、五六軒ニ限レバ、其家ニ生マレタル者、小兒ノ時ヨリ早々大夫ニ爲リタル心ニナ

(九頁)

リ、人モ從テ尊【「尊」字は正字体。】敬スルユヘ、自然驕傲ノ心生ジ、安逸ニシテ學問ヲ勉メズ、多クハ並ビナキ馬鹿者トナル、然ルヲ家柄ナリトテ、國家第一ノ重職に居ラシムルハ、萬鎰ノ玉ヲ小兒ニ磨カスルヨリ危キヿナリ、然レドモ【「ドモ」は合字】海內一同ノ弊風ナレバ、急ニハ變ジ難カルベシ、姑ク舊法ヲ變ジテ中士以上ハ才ニ從テ大夫ニ任スル令ヲ下サバ、其撰稍々廣ク成リテ、人材得易ク、家柄ノ者モ自ラ勵ミテ、其中ヨリ人才ヲ生ジ、實ハ世家・巨室ヲ保全スルノ道ニモ叶ヘリ。

意訳:いにしえは世襲の俸禄はあっても、世襲の官職はなかった。俸禄は、功績を賞して与えられたものなので、〔個人の財産であり、遺産として自分の〕子孫に相続させることができる。しかし官職は、君主を助けて国を治めて人民を安心させるために〔ふさわしい人物を特に選んで〕与えられるものなので、〔私物化してはならず、自分の〕子孫に継承させてよい道理はない。それにも関わらず先祖に勲功があることでもって、藩で一番の重職である家老職(大夫)を世襲の官職とするのは、正気の沙汰ではない。
 かつ家老(大夫)となれる家柄は、藩内でも五、六軒に限られるので、その家に生まれた者は、子供の頃から早くも家老(大夫)になったような気持ちになり、周りの大人たちもこの子供に服従して尊敬の態度をとるため、自然と傲慢な気持ちが生じ、〔師範役も厳しく指導しないから〕楽な方へ流れて学問に勉めず、その多くは並ぶ者のない馬鹿者と成り果てる。然るに、〔家老の〕家柄だからといって、藩で一番の重職に就かせるのは、秘蔵の宝石を幼児に磨かせるより危険なことである。
 しかしながらこれは日本国内共通の悪習なので、急には変えにくいだろう。しばらくは〔家老職に関する〕旧法を改定して“中間階級以上の武士であれば、才能に応じて家老(大夫)に任命する”という規定を公示しておけば、その選択肢はやや広くなって、〔家老にふさわしい〕人材を得やすくなるし、〔家老の〕家柄の者も危機感を持って自発的に勉学に励むようになって、その中から才能ある人物(人才)を生み出すし、〔つまり私の提言は門閥解体を唱える反体制的な主張に見えて、〕実は〔守旧派が常々いう藩内の秩序を維持するためにも〕名家や権門勢家〔の権威〕は守られるべきだという考えに沿うものだ。

余論:もし「この文章を書いたのは坂本龍馬だ」と言ったら、本気で信じる人間が割と何人もでてくるのではないかと思う。それぐらい”近代的”な主張だ。

 何度でも繰り返すが、儒家は孔子の時から一貫して「世襲反対」を主張している。朱子学もそれは変わらない。”門閥を打破して実力者(=自分たち知識人)を政治に参画させろ”というのが、儒家に限らず諸子百家、すなわち中国思想全体に共通する立場である。現代の中国共産党でさえ、内部に太子党と共青党の相克を抱えている。だから江戸時代が世襲貴族制で、江戸幕府が朱子学を公式学問にも認定していたとしても、両者には何の因果関係もない。現に19世紀の西洋諸国を見れば、儒学など関係ないのに、世襲貴族制でないのは米仏二カ国ぐらいなものだ。

 当然、息軒がここで門閥政治と官吏の世襲制を否定し、”宰相職は家柄ではなく才能で選べ”と主張するのも、言うなれば儒家の伝統に則るものに過ぎない。

 そうすると冒頭の話に戻るが、大河ドラマなどでよく維新志士がアメリカ社会を見聞して感動し「日本もこれからは実力主義にならにゃいけんのじゃ、家柄で全て決まるのは間違っとるぜよ」(似非土佐弁)と言い出すシーンがあるが、別にアメリカに関係なく、息軒も言ってるよね?っていう……。

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