安井息軒《時務一隅》(一)03b
03-01 國の治亂盛衰は、賢不肖の取捨に依り候ふ儀、少し道理を辨(わきま)ヘ候ふ者は、孰(たれ)も存じ候ふ事にて、申し迨(およ)ぶも之れ無く候。然れども此を知る事は至て易く、此を行ふ事は極めて難く候ふ。百年以來、人材御選擧の儀、恐れ乍(なが)ら其の筋を失ひ候ふ歟(か)と存じ奉り候ふ。
總じて士の本色は、進むに禮を以てし、退くに義を以てする者に御座候ふ。清廉退讓の風御座無き候ふては、物の用に立ち申さざる候ふ故、古人は第一に此の儀を主張致し、古語にも「君子難進而易退(君子ハ進メ難シモ退キ易シ)」と申し候ふ。然る處百年以來、御選擧の樣子、窃かに相ひ伺ひ候ふ處、自身より御願ひ申さざり候ふては、御番入りも成り難き候ふ由、況(まし)て要路に當たり候ふ役義は、其の事を主(つかさど)り候ふ役家、並びに權門等に日々相ひ伺ひ、其の上内證より手筋を以て願ひ立て候ふ事の由、是は大切なる御役人、又は御從衞に御用ひ成され候ふ爲めに先づ其の廉恥の心を先と爲し候ふ御手筋に御座候。
人として、廉恥の心を失ひ候えば、欲に耽(ふけ)り、利を貪り、己を先とし、君を後と致し候ふ故、國家の用に立ち候ふ儀、極めて少なく候。況(まし)て小吏無耻の徒に至りては、他人の財を借り請け、賄賂に相ひ用ひ、願望を遂げ候ふ事故、借財山の如く相ひ嵩(かさ)み、幸ひにして一官を得し者は、必ず其の役筋に隨ひ、賄賂を貪り、下民を虐(しひた)げ、舊借を埋め、猶ほ又た餘財を蓄へ、後來進官の本手と致し候ふ故、清廉の吏極めて少なく候。
意訳 国の治乱盛衰は、〔君主が臣下を登用する際に、〕優秀な者を選び取り愚劣な者を捨て去ること(賢不肖の取捨)にかかっておりますことは、少し道理をわきまえている者なら、誰でも存じております事で、申すまでもありません。しかしながら〔《尚書・説命中》で殷代の名臣傅説が殷王高宗に「之を知るは艱きに非ず、之を行ふ惟れ艱し」と申し上げたように〕、理解することは至って容易ですが、実行することは極めて困難です。ここ百年来の、〔幕府が〕人材を選抜して官吏に挙用なさっておられる件(選擧)ですが、恐れながら道理(筋)を失っているかと存じ申し上げます。
総じて「士」(=知識人・読書人)とは、本来〔《孟子・萬章上》で、孟子が孔子を弁護して言ったように〕出処進退に際して、個人的利害ではなく、社会正義(礼と義)にもとづいて判断するものでございます。〔ですから、もし組織に〕清廉潔白さや譲り合い(退讓)を重んじる土壌(風)がございませんでは、〔「士」は〕何の役にも立ちませんので、昔の人は第一にこのことを主張いたしまして、昔の言葉にも「「君子」(人格者・紳士)は、君主に呼び出されてもなかなか御前に進み出ようとしないが、退出を命じられればすみやかに退出する」(《禮記・儒行》)と申します。
それにも関わらず、〔幕府における〕ここ百年来の御挙用(選擧)の様子をひそかに窺いましたところ、〔広く人材を探し求めるどころか、逆に〕幕士(旗本・御家人)自身より挙用を御願い申し上げませんと、「御番入り」(役職の無い旗本・御家人が小姓組・書院番・大番などに任命されること)して役付になるのは難しいとのこと、まして幕府内でも重要な地位(要路)にあたる役目ともなれば、その役目を司る一族(役家)や権力者の一族(權門)などに日々ご機嫌うかがいをし、そのうえで内緒で伝手(つて)を通して願いでる必要があるとのことです。これには、重要な御役人、または近衛にお登用なされますためには、まずその当該人物の「廉恥の心」を最優先項目とするという方法がございます。
人として、「廉恥の心」を失いますと、私欲にふけり、私利を貪り、自分のことを優先して、主君のことを後回しといたしますので、〔こうした人物が〕国家の役に立ちますことは、極めて少ないです。まして恥知らずの小役人連中に至りましては、他人の金を借り受けて、賄賂に使って、〔官吏登用という〕願望を遂げますので、借金は山のようにかさみ、幸運にも官職を得た者は、絶対にその役所内の決まり事には逆らわず、〔役得と称して〕賄賂を貪り、人民を虐(しひた)げて〔金品を巻き上げ〕、昔の借金を穴埋めし、さらにまた余財を貯えて、今後の出世のための資金といたしますので、清廉潔白の官吏は極めて少ないです。
余論:幕府の人事・人材抜擢がうまく機能していないと、現状を批判する。儒家的素養の持ち主は「控えめ」を美徳とするのに、現状では幕臣自ら図々しく売り込まない限り挙用されない。いったい人事制度というのは、当該組織がどういう人物を求めているかを反映するべきなのに、幕府の人事制度は自身の儒教政策と矛盾していると言わざるを得ない。結果、人事関係では賄賂が横行しており、賄賂を用いぬ清廉潔白な官吏というものが存在していない。この現状に対して、次段にて対策が述べられる。
◯
息軒は和文で《時務一隅》を執筆しているが、中国古典からの引用は漢文で記すことで、引用文であることを示している。
冒頭の「然れども此を知る事は至て易く、此を行ふ事は極めて難く候ふ」は、《尚書・説命》に「之を知るは艱きに非ず、之を行ふ惟れ艱し」という同義の言葉が見えるが、漢文で書かれていない。
実は《尚書・説命》三篇は、いわゆる偽古文尚書と呼ばれるもので、東晋時代に梅賾が偽造したとされる。息軒の著作には《書説摘要》という《尚書》の注釈書があるのだが、これは偽古文尚書を全て省いて、今文尚書だけで編成されている点に特色がある。こういう今文尚書だけを集めて刊行したのは、日本では大正時代に刊行された息軒《書説摘要》が一番早く、昭和の加藤常賢《真古文尚書》よりも早い(青山大介《安井息軒《書説摘要》考》)。
要するに、〈説命〉は偽古文尚書だから、息軒もこれを引用しなかったのだろう。
◯
「君子難進而易退」。2020年末から2021年初頭、例えば「緊急事態宣言」を出して、若者たちに呑み会・追いコン・謝恩会を控えるよう要請しながら、自分たちだけは飲食をともなう会合を開いたり、深夜に銀座のクラブへ出張ったりする政治家。女性蔑視発言で国際的に炎上して、各国大使館から批判を集めている東京五輪会長。
誰も辞めようとしないのは、誰も君子じゃないからか?
03-02 清廉の吏極めて少なく候えば、上下の爲、一として宜しき事御座無き候ふ。是れ皆な選擧の法正しからざるより起こり申し候ふ。扠(さて)選擧の法種々御座候へども、大略當時には相ひ應じ致さず、但だ周漢の世に、郷擧里選と申す事御座候ふ。是も周の世は、手數多く候ひて、制度風俗改めず候ひては、容易に行ひ難く、粗かた漢代の法を御參用成され候はば、十の六七は間違ひ申すまじく候ふ。
其の法、支配頭より、年十五歳以上の男子、嫡庶の差別なく、心得身持ち宜しきは、年々其の廉(かど)を書き出させ、三年續き、益々宜しく相ひ成り候ふは其の近鄰心得之有る老人等へ、不時に御問ひ合はせに成られ、愈々(いよいよ)相ひ違ふ無く候はば、俊秀帖へ御付け込み爲され置き、以後三年目毎に、右の通り成されるべく、格外不行跡の者も、同樣と爲すべく候ふ。此の法相ひ立ち候はば、幕士の賢不肖、預め相ひ分かり申すべく候ふ。
但だ箇樣の筋には、私情贔負の沙汰起こるまじきにも、御座無き候ふあひだ、其の段は前以て支配ヘ厳しく仰せわたせられるべく候。萬一善を惡とし、不才を才と致し候ふ儀、露顯に及び候はば重く御咎め仰せ付けられるべく、諭し置かれ候はば、組頭其の外組中、重立ち候ふ者にも相ひ謀り申すべく、且つ差し當たり御用ひ成され候ふ譯にも、御座無く候へば、取捨自ら正しく、十の六七ハ相ひ違ふ之れ有るまじく候ふ。
意訳:清廉潔白の官吏が極めて少なければ、上は君主にとっても下は人民にとっても、一つとして良い事はございません。これはみな現在の人材を選抜して官吏に挙用する方法(選擧の法)が正しくないことより起きております。さて、人材の選抜挙用の方法(選擧の法)には種々ございますけれども、ほとんどが現代(※江戸時代)には相応しくありませんが、ただ中国の周朝・漢朝の時代に「郷挙里選」と申します制度がございました。これも周代の制度は手間が多くて、現代の主要な制度や風俗を改めませんと、容易には実行し難く、おおよそ漢代の制度を御参考になられましたら、十のうち六、七は間違いないはずです。
その方法とは、〔御老中が、ご配下の小普請支配の〕管理主任(支配頭)に命じて、年齢15歳以上の男子は、嫡出・庶出の区別なく、心がけや品行がよければ、年ごとにその旨を書き出させ、この観察評価を三年間続けて、〔その人格・品行が〕ますます良くなっていれば、その近隣に住む心がけのよい老人などへ、〔彼の者について〕抜き打ちでお問い合わせになられ、いよいよ間違いないとなれば、「俊秀帖」へお書き置かれ、以後三年目ごとに、右の通りなされるのがよろしく、並外れて品行が悪い者も、同様になされるのがよいでしょう。この制度が成立しましたならば、幕臣(旗本・御家人)の賢不肖も〔登用する前に〕あらかじめ知ることができます。
ただこの様な方法では、私情や贔屓といった行いが起こってはならないのですが、無くはございませんので、その点は〔御老中の方から〕前もって管理主任(支配頭)ヘ厳しくおっしゃって置かれる必要があります。万が一、善良な者を不良(悪)と記録したり、凡人(不才)を秀才と記録いたしましたことが露顕に及びましたら、必ず重い処罰をお命じになられると、諭しおかれましたなら、組頭やその他の組員、主だった者たちにもご相談申しあげることができ、かつ〔よく分からない人物を〕差しあたりご挙用になられるわけもございませんので【★】、人材の取捨選択は自動的に正しくなり、挙用した十人中六、七人はきっと間違いがないはずです。
補注:
★部分の意味はよくわからなかった。とりあえず上記の様に訳しておく。
余論:人材選抜方法として、中国古代の郷挙里選を推薦する。科挙は推薦していない。漢代の郷挙里選は地方の役人が地元の優秀な人材を中央に推薦するシステムであり、ここで息軒が提言している長期に渡る観察評価を継続する制度は、どうも主旨が異なる様に思う。
一般的に日本は、朝鮮やベトナムと異なり、科挙を導入しなかったとされる。確かに全ての人に門戸が開かれた官吏登用試験という意味での科挙は採用されなかったが、主に幕臣(旗本・御家人)のみを対象とした儒学の筆答試験である「学問吟味」が、寛政4年(1792)から慶應4年(1868)までの76年間に19回、すなわち科挙と同じく4年に1度のペースで実施されている。
この試験は学業振興が目的であったが、優秀成績者を役職に挙用する慣行があったため、非役の小普請にとっては実質的に科挙(官吏登用試験)と同じ意味を持った。