安井息軒《時務一隅》(四)後段c
17-01 御府內戶口相ひ增さざる法は、戶籍を正し候ふ外、之れ有るまじく候ふ。御府內・田舎とも、編伍の法、正しく行はれ候はば、此の弊忽ち相ひ止み申すべく候へ共、是れ迄蟻聚致し候ふ小賈等、盡く其の在所へ御差し返しに相ひ成り候ひては、路頭に迷ひ候者多く、美意より出ても、御善政とは申し難く候ふ。
意訳:江戸府內の人口を増やさない方法は、戶籍を正しくします以外に有り得ません。江戸府內・田舎ともに、「編伍の法」(五人組?)が正しく実施されましたら、この〔江戸への人口流入という〕弊害はたちまち止まり申し上げるはずですけれども、これまで砂糖に群がる蟻のように〔江戸へ〕集まっておりました小売業者(小賈)などを、ことごとくその故郷(在所)へ追い返しに成りましては、〔例えば農家の次男・三男などは故郷に戻っても耕す農地がありませんから、〕路頭に迷います者も多く、〔寛政之改革の「旧里帰農令」や天保之改革の「人返し令」などもそうでしたが、〕立派な意志(美意)より出たとしても、ご善政とは申し上げにくいです。
余論:息軒による帰農令批判。
江戸への人口集中は、耕作放棄地増加による年貢収入減少や、江戸城下の犯罪増加による治安悪化といった問題を引き起こしており、寛政之改革(1787-1793)では「旧里帰農令」、天保之改革(1830-1843)では「人返し令」という帰農令が出された(が、効果は薄かった)。
息軒は、出稼ぎ労働者や博徒はともかく、同じ地方出身者でもすでに店舗を構えて安定した生活を送っている商人などは、無理に返すことに反対し、「美意より出ても、御善政とは申し難く候ふ」(善意であっても、善行ではない。The road to hell is paved with good intentions.)とたしなめる。
17-02 然らば先づ田舎の戶籍を正し、譯ありて出で候ひても、其の郷を出で候ふ者は、村役人より其の領主・地頭へ相ひ願ひ、送り狀持參致させ申すべく候ふ。送り狀之れ無き者は、御府内の町役人共請け込み候ふ儀、決して相ひ成らず、若(も)し內證にて請け込み、跡にて露顯に及び候はば、品に依り地面共御取り上げに成られ候ふ樣、仰せ出されたく候ふ。
意訳:そうであれば、まず田舎の方の戶籍を正し、何か理由があって故郷を出るにしましても〔無断で出ていくのではなく〕、その故郷を出ます者は、〔同じ農民である〕村方三役より地元の領主や地頭へ願い出て、転出届(送り狀)を持参させるようにするのがよいです。転出届(送り狀)が無い者は、江戸府内の町役人たちも決して〔転入を〕請け入れてはならず、もし内緒で受け入れ、後で露見に及びましたら、程度によっては〔罰として〕所有地没収などの罰に処されますよう、お言いつけになってほしいです。
余論:息軒による都市への人口流入抑制策。
「田舎の戸籍を正す」とは、全ての人間を戸籍に登記するということであろう。当時は各村が数年おきに「宗門人改帳」を作成して領主に提出していたが、仏教寺院から寺請証文を発行してもらえなかった村人は「宗門人改帳」から削除され、透明な存在(無宿人)となった。こうなると真っ当な社会生活は送れなくなり、後は都会へ紛れ込んで、生活のために犯罪に手を染めることになる。息軒が問題視するのは、こうした「透明な存在」が江戸城下へ集まり、組織化することである。(前節で、宗門人改帳から削除される時点で捕捉し、改悛の意志が認められなければ、そのまま蝦夷へ送り込んでしまえと言っている。)
17-03 御仁澤四方に行き屆き候ふ後は、此の二條の御取り計らひ方、如何程も之れ有るべく候得共、只今にては、人情動揺の端に相ひ成るべく候ふ。此れ等の處にて差し置かれたく候ふ。(未完)
意訳:現在のように、幕府による支配(恩恵)が日本の隅々まで行き届くようになりました後では、〔自由出家と都市部への人口集中という〕この二つの問題の処理の仕方には、どのような方法も取り得るのですけれども、ただ今のところは、〔あまり一気に取り締まると〕きっと民心が動揺するきっかけになると思います。ですから、これくらいのところで止めて置いて欲しいです。(未完)
余論:息軒の現実主義路線。
どうも息軒は、あまりに極端な変革は好まない傾向がある。提言する政策を実施した場合、どれくらいの費用がかかってどのような影響が出るか、コストとデメリットやきちんとシミュレートしたうえで、そこそこのところで調整した(悪くいえば妥協した)プランを出してくる。
息軒の言説には、”理念や理想を全面に押し出し、これを実現すべく、現実など無視してひたすら突き進む”という「若気」が見えない。これが、息軒が明治新政府が実際に施行した政策を先取りしたような政治プランを数多く提言しながら、「維新の思想家」として認知されにくい原因であろう。
息軒という人は、たぶん「今よりちょっとだけ世の中を良くする」ことを常に考えている人間なのだと思う。往々にして我々日本人は、「一切の妥協なく、完璧なプロセスを以て、完全な理想社会を実現するべく邁進する」か、もしくは「完全な社会なんてできっこないから、もう何もしない」という二者択一に陥りがちだ。だが息軒は「絶対に看過できない問題だけ確実に修正し、それ以外は後日にまわしていい」という考え方をしているようだ。読者に対して「譲歩的請求」を仕掛けているふしがある。
ちなみに幕末、若かりし日の勤王志士佐々木高行は安井息軒を訪ねているが、24歳の佐々木から見た息軒の印象は「因循」(古いしきたりに従って改めようとしない)というものだった。この時、佐々木は息軒相手に「参勤交代は廃止すべきだ」というディベートを仕掛けるも、「幕府は威權を以て立つて居る。威權が衰へれば、幕府は立たんじやないか。ソンな暴論は止めて、チット遊びに來て、碁でも打つて行くが好い」さんざんに叱り飛ばされ、そのことを大橋訥庵に訴え、大橋訥庵から「一体德川幕府は、倒れても差支はないが、我皇国が立たなければどうする積か。そんな小さな議論じゃ仕方がない」という言葉を引き出して大いに溜飲を下げている。
が、後年次のように述懐している。
〔大橋先生は〕總てかういふ風の氣質であつたから、數年を出ずして、〔「坂下門外の変」を起こして〕奇禍に罹られたのである。
安井先生は、日向飫肥の儒者で、大家でもあり、老功でもあつたから、猥に自分等の如き麁暴の一書生と、天下の大事を談ぜざるは、尤もの事で、自分は血氣の至りで、因循なりとして不平を起したのは、今日から思へば、却てその淺慮を恥づる次第である。