安井息軒《救急或問》18

(16頁)

一民間ニ必ズ令スベキハ孝悌力田ナリ、漢代ノ循吏【①】ハ、此三者ヲ重ンジ、支配中ニ三者有レハ必賞美シタリ、禁ズベキハ洗子、賭博・淫奔ナリ、賭博ハ盗ノ源ナリ、淫奔ハ風ヲ亂ルノ始メナリ、皆禁ゼザルベカラズ、洗子ハ下世話ニ云ヘル、子ヲ間引キナリ、親タル者手ヅカラ子ヲ殺セバ、其惡俗タルヿ(こと)言フニ及バズ、此惡俗ヲ改ムルヿ容易ナラズ、忠實ニシテ辨才アルモノニ命ジテ、家毎ニ説キ人毎ニ諭シ、嚴刑ヲ立テ其命ニ從ハザル者ヲ罪スベシ。其法婦人妊身セバ、五人組合立会ひ見届ケシ上、ソノ筋ノ役人ニ届ケ、萬一間引ナバ、當人ハ死罪ヲ宥メ、五人組ハ當人ヨリ二等

(17頁)

輕ク罰スベシ、但シ其ノ事ヲ知ラハ死罪タルベシ、若シ藥術ヲ以テ堕胎セシメバ、其事ニ與リシ醫師・穏婆ハ死罪タルベシ、此事十年行ハレバ、其後ハ嚴禁ヲ待タズシテ自ズカラ止ムベシ。親子ノ情ニ本ヅク故ナリ。

注釈:
①循吏:真面目で職務に熱心な役人。司馬遷《史記》や班固《漢書》など、中国の歴代史書には〈循吏伝〉がある。ちなみに「循吏」と対比されるのは「酷吏」で、やはり歴代史書は〈酷吏伝〉を設けている。「循吏」も「酷吏」も、どちらも社会を良くすることに成功した“正義”の役人であり、前者が人情派ヒーローだとすると、後者は悪党を倒すためなら法律の曲解も辞さないダークヒーローである。

意訳:為政者が絶対に民間に向かって法令を定めて命じなければならないことは「孝」(親孝行すること)・「悌」(親以外の年長者を敬うこと)・「力田」(農作業に精を出すこと)である。漢代の「循吏」と呼ばれる真面目で職務に熱心な民政官たちは、この三つを重視し、担当区域の人民の中にこの三つを備えた者がいれば、必ず〔大勢の前に呼び出して〕褒め称えた。

 逆に絶対に禁止しなければならないのは「洗子」(堕胎)・「賭博」(ギャンブル)・「淫奔」(不倫・売春)である。「賭博」は盗みの源であり、「淫奔」は風紀が乱れる始まりであり、みな禁止しなければならない。

「洗子」とは所謂る“子を間引くこと”である。親である者が自らの手で子を殺すのだから、これが悪習であることは言うまでもない。だが、この悪習を改めることは容易ではない。

 〔どうするか具体的に説明すれば、〕まず誠実で話すのが上手な者に命じて、〔堕胎(洗子)が倫理的に正しくないことを〕一軒一軒まわって説明させ、一人ひとりに教え諭し、そのうえで〔「洗子」(堕胎)を禁ずる〕厳刑を制定して命令に従わない者を処罰するという手順を踏むのがよい。〔教え諭すだけでも、厳罰を定めるだけも不十分であり、その両方を実行する必要がある。〕

   その法律では、もし婦人が妊娠すれば、“五人組”が立ち会って確認したうえで、その筋の役人に届け、万一“間引き”をすれば、当人は死一等を減じ(死罪にすべきところを許して、一等低い罰を科す)、五人組は当人より二等軽い罰とするのがよい。ただし〔五人組が、堕胎することを〕事前に知っていたなら死罪とすべきである。したがって、もし薬物でもって堕胎させたなら、その事に関与した医師・産婆は死罪にすべきである。

 これを十年間実行すれば、その後は厳禁するまでもなく自ずから“間引き”などしなくなる。なぜなら、この“間引き”禁止は、親子間のごく自然な情愛に本づくものだからである。

余論:息軒による新ルールの普及のさせ方、もしくは悪習根絶方法。息軒の実務方面の業績として、まだ30代だった飫肥藩士時代に成し遂げた“飫肥藩内における「間引き」(子殺し)の根絶”がある。本段は、その際に息軒がとった方策を説明するものである。

ポイントは、新ルール実施に際して、以下の三つを実施することである。

①一人ひとりにきちんと話して、それぞれ納得させること
②自主性に委ねず、監視システムを敷くこと
③違反者には厳しいペナルティを科すこと

①をせず、皆が納得していない状態で②③を施行すると、《論語・為政》で孔子がいう「之を導くに政を以てし、之を斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥無し」という状態、つまりみんな「バレなきゃいい」と考えるようになり、隠れて不正を働くヒトが後をたたず、いたちごっこになる。

①だけで②③がないと、人々は「現状維持バイアス」から、たとえ非合理・非効率と分かっていても、従来のやり方を維持しようとしてしまうから、新ルールはいつの間にかウヤムヤになってしまう。

 息軒が①を主張するのは儒者としてある意味当たり前だが、②③を掲げるのはもっと注目されていいと思う。息軒は、どうもヒトの感情というものをあまり信頼していないらしく、必ず”そうせざるを得ない環境(例えば罰則)”を同時に整備しようとする。
 確かに、我々は何かに感動して”やるぞ”という気持ちになっても、たいていそれは一時的なもので、気がつけばこれまでどおりの怠惰な生活を送ってしまうものだ。朱子学や陽明学では、そこのところを「当人の自覚」に委ねるのだが、息軒や古学は「仕組む」ことを考える。

 また注目すべきこととして、妊娠が判明した場合、これを「その筋の役人に届け」させる点がある。これは、戸籍制度の整備につながる。
 江戸時代の幕府や諸藩には戸籍制度がなくて、檀家制度の関係から各人がどの宗派に属しているかを調査した「宗門人別改帳」や各寺院が信徒を管理するための「過去帳」がその役目を代行していた。言い換えると、武士政権はその土地ごとの農業生産量(石高)は把握していても、そこに住む領民の実態は把握していなかったのである。
 一方、中国は古代から戸籍制度があって、《周礼》にもそれが記されている。この戸籍があるからこそ、徴兵が可能になるのである。だから律令時代にも戸籍(庚午年籍・庚寅年籍)が編纂されたし、明治新政府も徴兵制に先立って全国の戸籍を整備している。息軒の提言はその先駆けと言えよう。

 間引き(洗子)について。それが発生した原因を考えると人口問題に行き着く。そもそも人口は農業生産量に制限され、農業生産量は農地面積に比例する。そして日本列島が自前で支えられる人口の上限は、現在の農業技術を以てしてなお3000万人程度と言われる。江戸時代の人口は260年間を通してほぼ2600万人程度で一貫しているのは、当時まだ北海道が本格的に開拓されていないことを差し引けば、ほぼ維持可能な人口の上限に達していたといえる。その意味で「間引き」は悪習ではあるけれども、人口を抑制するための”必要悪”だったともいえる。
 したがって息軒の案に従って「間引き」を根絶すれば、当然、時を置かずして食糧問題に直面することになる。これに対処するためには、食糧を外国から輸入するのでなければ増産するしかなく、増産するためには農地面積を拡大するよりほかない。さりとて260年間のうちに諸藩は領内の開墾可能な土地はすでに開墾し尽くしている。そこで飫肥藩では港湾を埋め立てる新田開発計画が立ち上がったが、息軒は「塩害」を防げないと反対して家老と対立し、これが藩職を辞して江戸へ移住するきっかけとなった。
 かくして息軒は〈蝦夷論〉を執筆し、内地の人間を北海道へ移住させてアイヌと雑居させ、屯田兵制によってロシアの南下に備えると同時に農業開拓を推進することを提言した。

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