木村大輔

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ロジカルシンキング③:理学療法の推論は仮説演繹法か?

仮説演繹法という言葉を聞いたことがありますか? 「仮説を立てて」というフレーズから始まるこの方法論は、実は意外と複雑です。カール・ポパーの提唱した仮説演繹法について、米盛裕二氏は、これが仮説をテストする演繹的手法であると指摘しています。つまり、仮説が決定された後、実験的テストを通じてその仮説を演繹的に吟味するプロセスです。言いたいことは、仮説演繹法では「仮説は最初から決まっている」ということです。 しかし、ここで一つの疑問が生じます。 仮説は本当に最初から「決まっている」

    • ロジカルシンキング②:各推論の種類は定式化できるか?

      パースの研究者である米盛裕二によると、推論は大きく2つのタイプに分類されます:分析推論(演繹法)と拡張推論(帰納法とアブダクション)です。 演繹法の典型例である三段論法は、次のように展開されます: 前提:全てのMはPである 前提:SはMである 結論:したがって、SはPである 演繹法の特徴は、その結論が前提の中に既に含まれている点にあります。前提を分析することで答えを導き出すため、この推論は「分析的」と呼ばれます。例えば、連立方程式がこれに該当します。重要な点は、前提が

      • ロジカルシンキング:論理的は倫理的か?

        科学的で論理的な思考は、論理学の文脈ではしばしば「推論」と呼ばれます。一般的には数学と深く結びついている論理学ですが、数学は推論を実施する学問であり、一方で論理学は推論自体に焦点を当てて研究する学問です。心理学がヒトの実際の思考を探求するのに対し、論理学はどのように思考すべきかに焦点を当てています。 論理的思考や推論は、良いか悪いか、正しいか正しくないか、妥当か妥当でないかを評価し、批判し、統制する行為とみなすことができます。これは倫理的であり、道徳的な行為の一環であると言え

        • 教育的にやって良いことと悪いことをどうやって判断するのか?

          大学教員としての仕事では、自分のアイデアが教育的に優れているかどうかを判断することがしばしば求められます。日常ではあまり「先生」としての意識はないものの、判断を下す際にはやはり「教育的な価値があるか」という観点が欠かせません。 大学に限らず病院でも、何か意見を言うとリアクションがあり、それには反発や反対意見、賛成、修正意見などが出てきます。そして、アイデアが受け入れられるにしても、誰もが賛成することは稀です。 誰もが賛成してくれればありがたいことですが、そういった理想的な

        ロジカルシンキング③:理学療法の推論は仮説演繹法か?

          老害に便乗する若者にどう対応すればいいのか?

          人は常に流れに身を委ねがちです。古い価値観が根付く年功序列のもとで形成された慣習が、暗黙のうちに既得権益を生み出していることは疑いの余地がありません。年齢を重ねることで自動的に権威を得、それに伴いルールを制定し、権力を手に入れる。しかしこのプロセスは、深い考慮がなされずに過ごされ、現在の状況に適応するだけのものです。この結果、変革への足かせとなり、時代遅れの行動が社会の衰退を招くことは避けられません。これが一般に指摘される『老害』という現象でしょう。 ただし、この問題につい

          老害に便乗する若者にどう対応すればいいのか?

          研究できる大学教員はスゴイのか?

          どこの大学にもパワフルでエネルギッシュで頼りがいのあるスーパーウーマンと呼べる先生がいる。 その先生との会話。 僕:「あの先生って論文たくさん書いていてすごいですよね。」 スーパーウーマン:「本当にそう思っているの?」 僕:「・・・?」 スーパーウーマン:「それは他の人が代わりに色々やってくれているだけ」 「目から鱗」というか、正にそういう解釈かという発見でもありましたし、おそらく真実だと思います。結局、学会で有名な誰それも、SNSで偉そうなことを言っている誰それも

          研究できる大学教員はスゴイのか?

          「運動学習」と「教育における学習」は似ているか?

          神経系の理学療法をやっている人は教育に興味を持っている人が多い印象が僕にはあります。その理由は、運動学習理論と知識や認知的なスキルの習得に焦点を当てた教育学の学習理論が似ているからだと勝手に考えています。 まず両者には目標の設定があります。 医療者教育では、最近はアウトカム基盤型学習が推奨されており、目標の設定が重要視されています。「生徒に何をできるようにならせるか」を設定します。一方、運動学習は運動制御と裏と面の関係です。どう制御されているかを理解しなければどう学習させる

          「運動学習」と「教育における学習」は似ているか?

          リハビリテーションの研究はすぐに役立つことが必要か?

          タイトルはよく相談されることでもあります。 「臨床に役立つ論文でないと意味がない」とか、「何でもかんでも平均値にするな」とか、これらのような言葉をよく耳にします。それの成否はさておき、こういった言葉が出てくる背景は一体何なのでしょうか。 それらはその研究方法がもっている世界観に依存しているようです。 例えば、「すぐに役立つことが必要だ」と言うのは、決まって臨床研究をしている人です。なぜこのような言葉が出てくるのか、それは、臨床研究が「有用性」に重点をおいた研究方法だからで

          リハビリテーションの研究はすぐに役立つことが必要か?

          「やることに意味がある評価」って、どういう意味?

          世の中には「やることに意味がある評価」というものが存在している。 「こんな評価をやる意味あるのか」と思って質問すると、「この評価にはやることに意味があるんですよ」という答えが返ってくる例のやつである。 今回はそのことについて少し考えてみた。結論、それらの意味を考えてみると5つに分類されたという話です。 1つ目は、学びをドライブするための評価 たとえば、大学や高校受験時の面接試験がこれにあたる。一般試験では、筆記試験の割合が高く、面接試験の割合が低いのが一般的だろう。そこで

          「やることに意味がある評価」って、どういう意味?

          教員の人事評価は線形か?

          春はどこも人事評価の季節でもあります。 「人より努力→結果→評価→出世・報酬」といった分かりやすい因果律のテンプレートがこのシステムの下にあると思います。 しかし、嘘っぽく感じながら、人事評価を受けているのも実際なのではないでしょうか。これで、給料爆上がりみたいなツイートってみたことが僕はありません。むしろ、論文の業績ないのに出世したとか、年功序列とか、下の人に何でも任せてその人には実力がないとか、そんな不平不満が多いように見受けられます。 何なんでしょうね、僕らが抱くこ

          教員の人事評価は線形か?

          リハビリテーション医療もUberEats化する?

          UberEATSの画期的な面白さは、ヒトが機械を動かすという従来型ではなく、機械が人を働かせるという、ベクトルの逆転にある。 医療は、ほとんど患者が病院に来て医療を提供するという大学病院のスタイルを基本としている。逆のサービス提供の方法としては、在宅医療がそれにあたるだろうか。リハビリテーション医療の分野でいえば、訪問リハビリテーションが、居宅要介護者に対して日常生活の自立を促進するために、訪問するという形をとっている。これらもベクトルは逆ではあるが、特段、機械に指示されて

          リハビリテーション医療もUberEats化する?

          養成校としての大学教育はペダゴジーか、それともアンドラゴジーか?

          成人学習理論ではアンドラゴジーは「成人の学習を援助するアートと科学」である。自己決定性や自己経験が尊重されるそうだ。対置するものが、子供のアートと科学を援助する、ペダゴジーである。アンドラゴジーは学びたいことを学ぶ、自己決定性や経験を尊重する。一般に自由な大学教育を想起させる。一方、ペダゴジーは知識や技術を教え込むことであり、義務教育や初学者の学習が想起される。 リハビリテーション専門職種などの養成校の教育はどちらであることが好ましいのか? このテーマは割と議論の余地が大き

          養成校としての大学教育はペダゴジーか、それともアンドラゴジーか?

          さまざまな「書く」ということ

          僕は仕事で好きなことを問われたら、答えの一つとして必ず「書くこと」を挙げると思う。 『わかりやすい省察的実践』(医学書院)の中に「様々な書くこと」(P104)という項目があった。そこでは、カルテを記載するような記録として書く、根拠に基づいて相手を説得するために書く(論文や批評)、相手に向けて理由や事実関係を説明するために書くが、例として挙げられていた。 この部分に不思議と興味をひかれた。『「待つ」ということ』という鷲田先生の本を思い出した。一言で言うと「待つ」という行為を

          さまざまな「書く」ということ

          新実存主義とサバイバル・マインド

          哲学とは、人間と他の生存物との違いをどう線引きするかを考える学問である。この分野で特に興味深いのは、ロックンローラーのような人気を誇る哲学者、マルクス・ガブリエルの考え方だ。彼のほぼ全ての書籍を読んできた僕も、彼のファンの一人である。彼は、心と脳を同一視する立場に反対し、その代わりに「条件モデル」を提唱している。 心と脳の条件モデルによれば、心は単に脳に還元することはできない。例えば、サイクリング(心、意味の場)と自転車(脳、宇宙、もの)の関係を考えてみよう。自転車の素材、

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