長期履修制度の申し込みについて覚書
1.はじめに
私は、2022年の1月に文学部にて長期履修制度を申し込んだ。20日の大寒を控えた、寒い日だった。申請のための書類を持って、 研究室での面談に向かうべく、学校に足を踏み入れた。大学に行くのは、実に2年ぶりのことだった。
長期履修制度を申し込むまでに、私は1年降年、1年休学している。 そもそも申請するまで、5年も学部生をやっている。だから、話せばずいぶん長くなる。この記事を読むひと、あるいは長期履修制度を申し込もうとしているひとにとって、私が私のことを語る事は、果たして意味があることなのだろうか。ここから書く事は完全なる私事である。書く前から、書かないほうが本当は良いような気がしてならない。しかし、個人的な事情と言うものがどのようなものなのか、私はそれを書いておかなくては、どうにも気がすまない。だから、 以下につらつらと述べられている私の長期履修に至るまでの道のりと言うものは、結局、申請に至るまでの流れを思い出すために書いたようなものだから、手続きだけを知りたいという方は、「2.経緯」は読み飛ばしてもらって構わない。 もっとも、私がこうして自分のことを書くのは、何か事例研究などに役立つかもしれないと言う淡い希望があってのことであり、そうした意味では私事であっても、書き残しておくことにも多少なりとの意味はあるのかもしれないと思っている。
2.経緯
私は2017年の4月に東京大学の文科三類に入学した。私の高校は首都圏ではあるものの、東大に合格する人は少なく、実際、私には同期も先輩も学部には誰もいないと言う状況で大学に入った。塾にも予備校にも通っていなかったから、そちらの友達と言うものもいない。つまり、 私はまず、大学に入るにあたって、人脈を確保しなくてはならないと言う難題に突き当たったのである。 私は自閉スペクトラム症(ASD)である。 幼い頃から、人の話に入ることが苦手だった。それ以上に感覚過敏がひどく、味覚過敏で食べられるものが極端に少ない、聴覚過敏で、静かな部屋でないと話している人の声が聞き取れないなど、日常生活に支障を来している。そもそも私は大学に入った段階において不利だった思う。もっとも、ASDの診断が下りたのは7月に駒場の保健センターで受けたWAIS-IIIと生育歴の聞き取りの結果が出た時であり、入学時の私は「多分そうだろう」ということしかまだ知っていなかった。
私はいくつかのサークルに入ったけれども、 飲み会等にはほとんど参加しなかったし、だからあまり深い人付き合いと言うものはなかった。サークルはある程度同じ興味を共有している人たちが集うから、メンバーと会って話が続かないと言うような事はひとまずなかった。 ただ、私が所属していたサークルは、2つとも理系のメンバーが多かったから(サークルの会合で、私一人以外の十人が全員理一だったこともある)、彼らが基礎実験やら数理科学やら、必修の授業の話をしている中で、私は蚊帳の外と言うことが度々あった。しかし、大雑把に見れば、サークルで完全に浮いているということはなく、ある程度は馴染めていたと思う。
むしろ惨憺たる状態だったのはクラスである。 クラスと言うのは、興味も関心も違う学生が、1つの外国語を履修していると言うだけの共通点において結ばれるコミュニティーだから、そこでは雑談などのより一般的なコミュニケーションが求められるのだが、私にそれはとても重荷であったし、じっさいほとんど馴染むことができずに終わった。 クラス制度は入学時に誰も知り合いのいない(主に地方出身の)学生を救済する働きを担っていると言う言説がある。これは確かにそうだと思う。けれども、 入学時に誰も知り合いがいない+人と付き合うことに致命的な欠陥を抱えていると言う二重苦の人間は救済できていない。もっとも、そんなどうしようもない人間なんて、私を除いたらほとんどいないのかもしれない。けれども、そんな彼らも何らかの形で支援を受ける権利がある。
1年のAセメスターの1月から体調を崩した。Aセメスターが始まった10月くらいから、大学に居場所がないと言うことが、身に染みてわかってきた。7月に私に降りた診断には、「強いASD傾向」と書かれていた。それも私は受け入れきれていなかった。冷え込みの厳しい日だった。私は狭い部屋の中で、突然泣き出した。 決壊するような、自分の心が水浸しになって沈んでいくような、経験したことのない泣き方だった。 私は恐怖を覚えた。 必修だけは何とかテストに行ったが、それ以外は受けられなかった。第二外国語の中国語のテストの時だったと思う。私は半分も埋まっていないような回答用紙に、書けるようなことがもう何もなくて、ぼんやりと窓の外を見ていた。雪が降っていた。 私は、その日初めて、雪がほんとうに白いと言うことを知った子供のように、それをいつまでも眺めていた。
その時点での私は、長期履修制度と言うものを知らなかったから、前期課程では結局申し込むことができずに終わってしまった。私が本格的に体調崩したのが1月であり、申し込みの期限が3月だから、もし知っていても申請まで間に合わなかった可能性が高い。長期履修制度は、その学部に入ってからの在学期間が1年未満でなくては使えないと言う規定がある。
自主留年をすることもなく、2年生になった。2Sセメスターはほとんど学校に行かなかった。出席をとらない授業ばかりとって、週に1度しか大学行かなかった。 当時の私は躁状態がひどくて、 とにかく遊びまわっていた。少しばかり友人もできた。3月にTwitterを始めて、 そこで知り合った同級生もその輪の中に何人かいた。 疲れたけれども楽しかった。思えばあのわずかの期間だけが、私が大学生らしく大学生をしていた唯一の時期かもしれない。8月、進振り条件に必要な46単位に2単位足りず降年が決まった。特に何も思わなかった。 秋の訪れとともに躁が過ぎ去って、また誰とも付き合わない鬱状態に沈んでいった。Aセメスターが始まった。学生証も1年生になり、1年生と同じ授業を受ける。私の意識に、降年したという事実が実感をもって重くのしかかってきた。
2019Sセメスターは、あまり授業をとらず、無理のない履修をした。前期課程の修了要件は、すでにセメスターのうちにほぼ満たしていたから、余裕があった。6月に入り進学選択の季節になった。もともと私は、地理学の研究者になりたかった。けれども、後期教養の地理空間コースには15点以上も点数が足りなかったし、かといって工学部の都市工のハードなカリキュラムには体調的についていける気がせず、 また経済学部や農学部で地理をやると言うのも何か自分にはしっくりこなかった。それに、そもそも点数が65点ぐらいしかなかったから、もしかしたらその二学部には落ちるかもしれないという計算もあった。 それで私は結局、卒業することを第一に置いた。その中で色々検討した結果、国文学科に進学することにした。国文学ならば、今の私の体調でも、何とかついていくことができるかもしれない。 WAIS-IIIの結果が言語理解だけ凸だったというのも追い風だった。もっとも私は本来、文学に全く興味がなかったし、それまでにほとんど文学作品と言うものを読んだことがなかった。だから、進学先で何とかやっていけるようにと、半ば詰め込むかのようにして様々な作品を読んだ。
2019Aセメスターは、 国文学科の進学が決まって、後期の本郷での授業が主体となった。10月ごろまでは通えていた。けれども11月になって、精神的に辛く、通えなくなった。もともと、私はどこかで休みたいと思っていたのだが、2018年の降年後には、親からの許可が下りず、結局そのまま通い続けることになった。降年した後のAセメスターは、学費を抑えるために、休学すると言う学生も多いが、体調を崩して降年したと言う場合についても、ある程度履修のめどが立っていれば休学するのも1つの手段だと思う。 私はとうとう大学に通えなくなった。その頃から、右目がよく見えないことに気づいた。眼科へ行ったら、網膜剥離だと診断された。東京の大学病院に2週間ほど入院して、手術を受けた。 当時の事は、あまり覚えていない。ただ、大学にはもう通えないと思った。そして私は多分退学するのだろうと思った。
休学届を提出したのは、2020年の1月だった。期間は、2020年4月から翌21年の3月まで、つまり1年間休むと言うものだった。 どちらかと言えば、復学せずに退学することを本線に据えていた。ASDの二次障害のうつ状態も、もともとかなり悪くなっていたし、右目は失明こそ免れたものの、視野が歪んで見えると言う状態が続いていたから(3年経った今もあまり良くなっていない)、生きていくのがやっとで、とても大学に行ける気がしなかった。私が一通りの手続きを終えて実家に戻った頃、ちょうどコロナ禍が始まった。休学したからといって、特に何か普段と違うことをすることもできずに、家に篭る日々が続いた。新しい人との繋がりはできなかったけれども、とにかく学校から離れて休むという最低限の目標は達成できた。 とりあえず2021年4月から復学することになった。
2021年からは、まだまだオンラインの授業が多かったので、この年度は結局、大学に全く行くことなく終わった。冒頭で触れた丸二年間学校に行かなかったというのは、1年の休学と1年のオンライン授業があったからである。半年やってみて、だいぶ単位が取れた。これならもしかすると卒業できるかもしれない。私は行き先を退学から、卒業へと変えた。それと同時に9月から研究室や教務課へ連絡を取るなどして、長期履修制度の申請を始めた。
3.実際の申請手続き
ようやくここからが本題である。先に述べたように、私の場合、文学部に進んで初めて授業を受けた2021年度は、そもそも退学を見据えていたから、 長期履修制度をその時に申請する事はなく、結局1年在学してから申請することとなった。本当は、初年度から申請したほうがいいと思う。私は1年目が始まった時点でそもそも卒業する気がなかったから、 申し込まずに先延ばししてしまったのだが、こうした特殊な事情でもない限り、進学と同時に長期履修を組むべきだと思う。私はあまり把握できていないのだが、そのほうが学費的にも安くなるはずだ。私の場合、履修計画としては、後期課程が通常の2年間のところを3年間に伸ばすことにした。長期履修制度を使う学生は、2年を3年よりも、4年に延長する方が圧倒的に多い気がする(観測数が少ないので私の思い込みかもしれないが)。
私は3年で十分修了できると思っていた。実際、残り1年となった現在、残っている単位は4コマ8単位(うち必修2単位)と、卒論12単位なので、履修計画としては4年よりも3年で良かったと思う。ただ、私の場合は、オンラインである程度単位数を稼げたという事情があるので、対面授業がほとんどとなる今後は、あくまでも私見だが、私のような3年間よりも4年間の方が良いと思う。
履修登録の手続きは、メールを通して主に行ったので、当時のメールを読み返して、大体の内容を再現することとした。
私はまず最初に文学部の教務課にメールで問い合わせたのだが、メールの文面には、「長期履修制度に関して、申請には担当教員や学科長の承諾印、診断書の他にリハビリテーションの状況や履修計画についての説明が必要」とあった。また、 当時はコロナ禍による特別措置としての長期履修制度が存在し、その場合は手続きを急ぐ必要があると言われた。 私は、 従来の長期履修制度に該当するので、規定通り在学年限1年以内に申請すれば良い。ただし、その場合の申請に関しては、3月に開かれる教授会での審査を通さねばならず、そのためには2月の早い時期にひととおりの書類を揃えなくてはならないとの事だった。
文学部の後期課程の長期履修制度の申請には、研究室主任の印と指導教員の印がまず必要である。これに加えて、診断書等を用意しなくてはならない。それからリハビリテーションの状況と履修計画。おそらく、他の後期課程の学部においても同じなのではないかと思う。 私の学科では、指導教員は4年生の卒論を書く段階で決まるので、この場合は研究室主任教員が指導教員の欄にも印を押す。教員との面談も、事前にメールで何度か連絡をとっていたこともあって、比較的スムーズに進み、無事に印をいただいた。 もともとその先生の授業をオンラインで受講していてある程度事情がわかっていたのも、手続きが円滑に進んだ理由かもしれない。
この点、後期課程進学初年度から 長期履修制度を利用する場合の方が、教員とのコンタクトが取りにくく、困難が多いかもしれない。 こうした場合は、まず教務課とよく相談し、教務課の方から研究室の方へコンタクトをとってもらうなどの方法が良いかもしれない。場合によっては、学生相談所やコミュニケーションサポートルームなどに相談しても、何か手がかりが得られると思う。
リハビリテーションと履修計画という点については、指示が少なかったのでどのように書くべきか迷ったものの、教務課に問い合わせたところ「リハビリテーションの状況と履修計画については、「長期履修制度申請書」の長期履修の必要性・履修計画に記入していただければ大丈夫ですが、スペースが足りない場合は別紙記載として任意のA4別紙に記載していただいても大丈夫です。」との回答だった。長期履修制度申請書は、私の場合、教務課に問い合わせてメールで送られてきたPDFを印刷して、それに手書きで書いたが、読みやすさを重視してWordなどで作成したい場合は、そちらで書いたものを別紙として提出しても良いと思う。
私の場合、これまでのあらましと現況(この記事で書いた入学~申請時点までの状況の要約と、通院状況など)を書き、履修計画については、すでに履修した後期の単位が何単位で、残りの分はおよそこのように割り振って修了する予定であることなどを、ごく大まかに書いた。それでも結局、申請書のスペースでは不足したので、別紙を添付することとした。順番が前後してしまい恐縮だが、これを書き上げた時点で、指導教員に見せて、印を貰ったと記憶している。
診断書は、すでに休学などで提出し慣れていたので、特に問題なく用意できた。
こうしてひととおりの書類を用意し、教務課まで郵送した。実家から大学が遠いこともあり、一連の手続きでは教務課に対面で行くことがなく、研究室も一回行っただけだった。
書類は2022/1/26に郵便局にて発送し、翌日には教務課からメールで受け取りの旨通知があった。そして3月3日に、教授会で審査が通った、と教務課からメールが来た。審査が通ってホッとしたのを覚えている。
【おわりに】
「私は生き直すことができない、しかし私らは生き直すことができる。」
いつの頃からだろうか、私はこの言葉を胸に刻んで生きるようになった。先日亡くなった大江健三郎が『晩年様式集』に綴ったものである。
思えば私の生き方と言うものは失敗の連続だったと思う。良かったことよりも、悪かったことの方が圧倒的に多い。 状況が悪いなりに、努力した方だとは思う。それでも100点満点で言えば、20点もあげられない気がする。けれども、生きているのは私だけではない。昔の私のような誰かが今もどこかにいて、そうして私が昔に抱いたような苦しみを抱えている。それは私の空想ではなくて、真実なのだろう。私の過去はもう戻ってこないけれど、「私ら」は続いていく。そうした「私ら」の中に、かつての私と同じ目をした私よりも若い誰かを不意に見出すことは、きっとあるに違いない。私の過去は変えることができない。けれども、その同じ目をした誰かの生き方を、よりよい方に変える手助けはすることができるかもしれない。
私がこの文章を書いて、それがもし1人でも、過ぎ去った日の私と同じ苦しみの中にいる誰かに届いたのならば、私が経験したことも、私が生きてきて、またこうして生きていることも、全くの無駄では無いのかもしれないと思えた気がしている。
執筆:はるぴょん Twitter:(@harupyon_hirata)