感性の毛穴が広がったので記事を書きます。
ふと思いたって久しぶりに、個人のnoteアカウントに投稿をしてみたいと思います。
記事を書くこと
最近は、自分の考えベース、思いベースで記事を書くことにちょっとしたビビり的な印象を持っていました。
少し話は遠回りしますが、つい最近、ナビラズの公式Twitterアカウントを僕個人のアカウントに変更しました。
なかなかTwitterまで仕事の手が回らず、ナビラズの公式アカウントを名乗っていながら、特段、ツイートはしないというアカウントに成り下がってしまっていた為です。
僕個人のアカウントといっても、プライベート用というわけではなくナビラズの砂畑龍太郎としてアカウントを運用しています。
そんなこともあり、Twitterを使って「学生ライター」がどのくらいいるのかなと調べてみたんです。
すると、びっくりしたことに結構、多い!
自分は学生なのにライターをしているなんて特別な存在だ、なんて本当に思っていないですが、自信を持ってアカウントのプロフィールに「学生ライター」と書いている人がこんなにもいるんだと、衝撃を受けました。
その人たちがどんな記事を書いているのかなと少しだけ覗くと、いわゆるHow to系の記事だったり、SEOを狙いにいった記事だったり、「ああ、これがwebライターなのか」と感じます。
僕も学生のライターとして活動をしていますが、How to系の記事だったり、SEOを狙いにいった記事を書いている方々とは市場というか、世界というか、分野が違うのかなと思います。
僕が記事を書いているのは、取材をして、相手の魅力を読者に届けること、そして、読者の方々が記事を読んで少しでも何かを受け取ってくれたり、何かを考えてくれたりすればいいなと思うからです。
ナビラズでは毎日、日報を提出しています。
ちょうど昨日の日報で「ライター」について書きました。
僕にとって、取材相手がいる場合、ライターというのは主役になってはいけないし、脇役とも違うポジションの存在である。むしろ、読者の方々からはライターという存在が見えずに、取材相手にだけ視線がいく、みたいな存在であるべきだというような日報を書きました。
こんなふうに書いたのには明確な理由があって、今でも忘れられない経験があります。
それはやはり、フクリパでの博多織の記事執筆でした。
それまでの僕は、自分が思っていること、自分が考えたこと、をあたかも「自分、文章かけるっす」みたいなノリで記事にしまくっていました。
そう、記事の主役は自分だったわけです。
ただ、初めて本格的に取材をするという経験をさせていただき、その記事が世の中に解き放たれました。
すると、記事を読んでくれた方々からこんなようなコメントが返ってきたんです。
「博多織ってあんなに魅力があるんだね!」
「名前は知ってたけど、柄にこめられた思いが素敵でびっくり」
「伝統工芸を次の世代に繋げる取り組みが本格的に行われてるんだ!」
というようなコメントです。
そう、僕のことに関して触れられたメッセージは本当にひとつもありませんでした。(母親からのコメントでさえ、博多織に関すること・・・)
博多織の記事執筆前の自分ならそのコメントを受けて「え!僕のことについてのコメントないの!?」とひねくれたり、落ち込んだりしていたと思います。
しかし、たくさんのコメントをいただいた僕はとても嬉しくなりました。
自分にとっての「博多織の魅力」や、取材をして聞くことができた「思い」を正確に届けることができて、また、それについて読者の方々が気づいてくれたからです。
それからというもの、僕にとって記事を書くことは「相手の魅力を届けて、読者の人にしっかり受け取ってもらうこと」であると捉えるようになりました。
とんでもなく話は長くなり、遠回りしましたが、冒頭に書いた「自分の考えベース、思いベースで記事を書くことにちょっとしたビビり的な印象を持っていました」というのはこれが関わります。
僕にとって記事というのは魅力を届けるものなのだから、自分の考えベースで記事を書くんだとしたら、僕に魅力がないといけません。
でないと、それは記事ではなく、日記やブログに近いものになります。
だからこそ、そんなに自分のことを書きたいなら、たくさん勉強しないといけなし、たくさんの経験をしないといけないし、複数の世界の見方を知らなければなりません。
なので今は勉強中、修行中であると捉えています。
ナビラズで福岡の企業の社長さんたちのお話をたくさん聞いたり、フクリパではコテンラジオに関わる方々にインタビューをする連載を担当させていただいたりと、勉強中です。
じゃあ何でお前は今、取材もせずに記事を書いてるんだ、自分に自信あんのかっていう話ですが、前置きとして「別に背伸びしているわけでも調子に乗っているわけでもないんですご容赦ください」ということを書こうと思ったら、こんなに長々となってしまったんです。
個人noteを更新したきっかけ
では、本題に入っていこうかなと思います。
このnoteのアカウントを作ったきっかけはゼミでした。ということで、今回記事を書いているきっかけもゼミ。
昨日のゼミは、1コマ目が自己分析ワーク、2コマ目がお世話になりまくっている後藤さんの講演会でした。
たくさん学びがあるゼミでしたし、後藤さんのお話でした。
ゼミの後はナビラズのメンバーと仕事をしていましたが、ここが勉強になったよねとか、こんな考え方を発見しただとか、ゼミの話で盛り上がりました。昨日のメンバーの日報にはゼミの話、後藤さんの話が書かれていました。
そんな具合に、学んだことを忘れないように、また、自分のものにできるように人に話したり、文字に起こしたりしていたわけですが、その時にふと思ったんです。
後輩たちは、どうやって、学びを自分に落とし込んでいるのか、と。
おっと、さっきまで弱気な文章だったくせに、後輩相手になると急に強気になったなって感じですが、本当に疑問だったんです。
僕の同期でいえば、学びがあったタイミングですぐに同期同士で話をしていたし、noteに記事を書いている友人も何人かいました。僕もnoteに書くことが多かったと思います。
今の後輩たちはもしかしたら、距離という壁を超えて、チャットを使ったり、電話をしたりして学びを共有しているのかも知れません。
しかし、その学びを言語化したものを目で見たことがないなと思ったんです。
なんとなくですが、最近というか、ここ一時、ゼミの先生から執拗に「ちゃんとわかっている?理解している?」と投げかけられることが多い気がします。
それはきっと、きっとでしかないけど、きっと、学びが文章になって発信されていないからとかではなくて、
もうすでに学んでいるはずのことが、プロジェクトや日々の活動に全くと言っていいほど反映されていないからなのでは、と思います。
講義での学び、ゼミでの学びは教室やPCの前だけでは完結しないものである、僕はそう思います。
ゼミの学びの風景を見ていると、メモをしている後輩はとても多いように思えます。
ただ、取材をしながらよくメモをとっている僕からすると、メモって、とても上手にとらない限り、もしくはよほど記憶力が優れていない限り、しっかりと見返して、メモした材料たちを抽象化して、自分の中に落とし込む、そして抽象化されたモノを文章にしたり、言葉にしたりして、もう一度具体化してあげなければ、ほとんど意味のないものであると思っています。
昨日のゼミの後、後藤さんが「大学で学んでいるということはとても価値のあるこだ」と話してくださいました。
本来なら価値のあるものですが、その価値を拾いに行くかどうかは学生次第だし、それを生かすかどうかは学生次第です。
学びを価値あるものにするきっかけは人それぞれ。僕は将来が不安だからという理由だったり、自分の武器がないことほど怖いことはないという理由だったりをきっかけにしていました。
という感じで、せっかくこんなに時間をかけて学んでいるんだから、そしてせっかく普段会えないような方々がゼミに来て、90分もお話してくれるんだから、もっと自分のものにすればいいのになと思ったんです。
オンラインベースになりコミュニケーションは図りやすくなったけど、とりにくくなった!?
なんとなくゼミのことを書いていますが、何がそんなに違うんだろうと考えてみました。
まずそもそも、僕が所属する福大商学部飛田ゼミは、後輩を採用するときに「自分たちの代よりも優秀であること」を条件に、先輩学生が選考を行っていきます。
だから、自分たちよりも優秀な学生だけど、どうやって学ぼうとしているのか、また、学びを生かそうとしているのか考えました。
(もちろん、僕たちよりも優秀であるからこそ、わざわざ学びを言葉にしなくても、ゼミのプロジェクトに反映させなくても、自分の人生には生かしているのかも知れません)
すると一つ浮かび上がってきた理由は、オンラインベースの講義であること
でした。
オンラインのゼミというのは非常に便利だと僕は捉えています。友人と直接会えないのは寂しいけれど、移動することなく、もしくは前後の予定にあまり左右されることなく学びの機会を得られるからです。
しかし、オンラインのゼミを受けていて、また、オンラインで自分が発言をしてみて感じることが一つあります。
それはリアクションをするかどうか、態度に表すかどうか、は受講する側100%委ねられているということです。
オフラインでゼミをしているときは、目の前に先生や講演者がいるわけですから、目をみて話を聞いたり、うなずいたり、笑ったりします。
しかし、オンラインゼミで目に入るのはPCに小さく表示されたワイプのみ。
さらにzoomというのは良くも悪くも画面オフ機能があります。画面オフをしたり、自分は小さなワイプにしか映っていないと自覚すれば、リアクションを無理してとらなくてよいし、画面に写っていないところでは好きなことができるし、目を見て話を聞くという行為すら無くなりました。
これによって学びへの姿勢に主体性がなくなったように思えます。
加えて思うのは、リアクションを感じにくい環境で話すというのは簡単ではないということです。
オフラインで対面しつつ話をするときはリアクションや姿勢に比例して内容がより肉付けされたり、想定したよりも伝わりやすい表現ができるような気がします。
この二つが相まって、学生の学びへの姿勢というものは衰えていっている気がします。
もちろん学生だけではないとも思っております。
先日、数十人の社長さんたちの前で40分ほどオンラインで話す機会をいただいたのですが(ナビラズには関係ない)、話していてもみなさんミュートにしているので音声的リアクションはもちろんありませんし、画面はオンになっているが明らかに違うことに集中されている方もいましたし、割と深めの眠りについている方もいらっしゃいました。
もちろん僕の話し方や、扱ったテーマに課題があることは承知の上ですが、
オンラインであることで、聞き手側の主体性がオフラインと比べてどうしても下がってしまうこと、と、話す側の心理的なプチダメージ、によって全体的な質が下がっているように思います。
そんなこんなでオンラインでの学びの機会を攻略するには、オフラインベースで過ごしていた時よりも、受けて側の強い意志が必要であるように感じました。
じゃあどうすんの
そう。じゃあどうすんのっていう話なのですが、めちゃくちゃ書きたいことがあります。
しかしそれはフクリパでのコテンラジオに関わる方々へのインタビューで得た僕にとって大切な学びですので、記事公開までは書きません。
じゃあ、どうすんのってとこです。
今日の後藤さんの講演、ワークというのは(もちろん捉え方は人それぞれという前置きはしつつ)「よく見ること・考えることの重要性」を一つのキーワードにされていたように思います。
例えば後藤さんのお話で印象に残ったものに「知らないのに想像で埋めている」というものがありました。これはナビラズ営業のあさみも印象に残ったようで日報に書いていました。
これ、どういう意味か考えてみたんです。
知らないのにというのはそのまま知らないのにということ。
で、想像で埋めているということは、先にも書いたように「自分の考えベースでしか、自分の思いベースでしか」想像することはできないのだから、
知らないのに自分が持っているモノで想像しているってそんな怖いことないなって話です。
「知らない」という穴を「知っている」という土で埋めているってことです。そんな怖いことあっていのかと。
ただ、実際それはよくあることだろうと思います。
では、知らないことを想像で埋めてしまわぬようにするにはどうすればいいのか。
それは考えることだと思います。
例えば、今日の後藤さんの講演で使われていた資料の表紙には、「感性の毛穴を開く」という言葉が使われていました。
普通に考えて「感性」に「毛穴」はないので、そんな言葉知りません。
では、この「知らない」に対してゼミ生はどのくらい真剣に「考えた」のかなと想像しました。また、どのくらいのゼミ生が、この知らないを自分の知っているで埋めたのかなと想像しました。
すると、ほとんど、というか全員が土で埋めちゃったんじゃないかと思います。それがまさに落し穴。
感性の毛穴が開いた、というより後藤さんによって感性の毛穴を開かれた僕は知っています。感性の毛穴が開いたのであれば、ゼミが終わった後のアフタートークタイムに絶対に参加して、うまく話せなくてもそこに居座り続けるはずだ!と。
もちろん5限の講義があったり、アルバイトがあったりした学生もいるかもしれないし、個人的にメッセンジャーを送っている人もいるかもしれません。
そう、だからそんなに考えることが習慣化されていないんじゃないかという仮説が出てきたんです。
考える力がなければ学びを自分に落とし込むことは難しいです。
また、学びへの姿勢が衰えていると、そもそも学ぶことはできません。
さらに、オンラインベースでは、より一層、学びへの姿勢というものが必要です。
ということで、学びへの姿勢を身につける、もしくは取り戻すことが重要であると考えました。
その方法は人それぞれだと思いますが、やはりそこに主体的な意志がなければ難しいと思うので、学ぶ意味を考えてみればいいのかなと思います。
と思ったら、考える力がないと学ぶ意味を考えられないのか!と一周。
学びの機会を、すでに自分が持っている考え方や見方という想像だけで捉えているからこそ、学びへの姿勢が衰え、考えることができないという負のスパイラル。
これはまるでモンテヴェルディのオルフェオか!と。
まあ、オルフェオにおいては妻の死に絶望する主人公の前に太陽神アポロが現れて救ってくれるんですが、現実にはそんなことあり得ないので、どうにかするしかないんです。自分で。
というような具合に、自分の考えを記事にすることにビビっている僕でも、文章にできるほど学びや刺激のあったゼミでした。
今日はこんな感じで、POISON。