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The 10 best albums of 2022

  今年は配信者を好きになったのもあってあんまり音楽聴いてないなあと思いつつ選出した。推しの音楽は好きになる以外の選択がないので(というか好きな音楽をやっているから推しなのだし)、推しのアルバムはこの選考からは除いている。それにしても推し以外のK-POPをたくさん聴いた年だったなあというのが統括的な感想。


BEST ALUBMS

10. 赤頬思春期 - [Seoul]

 赤頬思春期はいつも良い音楽をくれるなあと思う。いつも朝、すこしだけ白んでいる空を見上げながらこのアルバムを聴くと、なんだかその日が良い1日になるような気がする。人で溢れかえってちょっと湿っぽい空気に満ちた駅を歩きながらこのアルバムを聴くと、なんだかすこしだけ呼吸が楽になる気がする。夜、どうしても眠れない時に布団のなかでまるまってこのアルバムを聴くと、いつのまにか夢のなかに落ちている。赤頬思春期はいつもわたしに半径1メートルのちいさな膜をくれる。その膜のなかは外の世界よりもすこしだけきれいで、空気がみず色に澄んでいる。さわやかでやさしくて清々しい、ラムネ色の星空に満ちたとうめいでやわらかな空間が、時々わたしを生かしてくれる。


9. maco marets - [When you swing the virtual ax]

 「Separated」の歌詞がとても好きだ。「あなたのプールのなか / 流されては / さらわれてはまた / 同じ場所に打ち上がる」。maco maretsの声はわたしにとっては海である。聴いているといつも、ゆびのさきからふっとほころんで、爪のなかまでふやけて、そうしてじぶんの輪郭があたたかな海のなかにとろけて消えていくような感覚がある。ゆらゆらと水面に揺れる太陽の光を水のなかから見上げているような感じ、なにもかもの形がゆるやかになって、感情も感動もぜんぶ角が取れてまるくなって、ほんのすこし青いまろい世界にどこまでも埋没していく感じ。とてもとても疲れた日の寝る前によく聴く。夢も見ずにぐっすり眠れる。


8. 柴田聡子 - [ぼちぼち銀河]

  もちろん入ってる曲みんな好きだけどやっぱり「ようこそ」を初めて聴いたときのときめきは今年のハイライトのひとつだと思う──「言ってみたかったんだ今日こそ / ようこそ!」
 外はかんかん照りの太陽が容赦無く降り注ぐ夏の日に、クーラーもつけず机に突っ伏して、コップのなかで麦茶浴びせられた氷がくずれる音とあるか無きかの風に精一杯呼応する風鈴とが共鳴するの聴きながらこのアルバムを再生した。なんだか柴田聡子はいっつも不気味で、でもできれば日常のなかにいてほしい。柴田聡子の跳ねるゴムまりみたいな声で案内される世界はかわいくて歪で奇妙で最高、しかもちゃんと格好良い。歌を聴いているというよりも、あったかくてふっくりとしたしろいてのひらに手を引かれて、あちこち不思議なものを見ながら歩いている気分になるのだ。なんだか魔法の呪文に似ているし、それなら「ようこそ」はとびきり素朴で素敵な魔法に違いない。いつかこれをかけながらだいすきなおんなのことの同居1日目をはじめるのが夢である。


7. FIFTY FIFTY - [THE FIFTY]

 このアルバムと出会ったのはほんとうに偶然だ。Spotifyを垂れ流していたらたまたまLovin' Meが流れてきて、そのまま虜になってしまった。必死で自転車を走らせて、帰ってすぐにパソコンを立ち上げてアルバムを検索した。良い音楽との出会いは彗星との偶然たる遭遇みたいなもので、ちゃんとその尻尾をつかまえておかないと次いつ出会えるかわからない。今回わたしはちゃんと捕獲に成功したからよかったなあと思う。とにかくLovin' Meは最高だ。サビが歌声だけになって、時間をきざむ時計の音だけが聴こえるようになる瞬間が特に好きだ。歌詞がわからなくても、この歌が祈りなのだとわかる。切実で、たぶん、もう遠くに行ってしまったひとに帰ってきてほしくて、でもそれは霞の向こうに消えてしまったまぼろしを写真に撮るくらい不可能なことで、いまここにはただ、千切れた時間の切れ端だけがある。わたしはこれを握りしめて、冷たい雨が降るなかを立ち尽くすしかできないのだ。そういう光景がふと頭に浮かぶ曲だ。Tell Meも虹のうえを船で進んでいるような曲だし、Log inはサビの声の重なりと音の呼応がものすごく心地よい。全曲通して聴いたときの満足感がとても大きいし、どんな日のどんな場面に聴いても「ああ、わたしは音楽を聴いてる」という充足を得ることができる良いアルバムだと思う。


6. 優河 - [言葉のない夜に]

 優河の声はなめらかな絹みたいだと聴くたびに思う。彼女の声が、ゆるやかに脈打つ長い長い帯となってわたしを取り囲み、取り巻いて、その内側に横たえてくれるような感覚がいつもある。ことこのアルバムに関しては、暗い夜の黒い森のなかでぱちぱちと爆ぜている焚き火を見つめているようなしずけさや、ささやかなあたたかさや、そういう時にしか感じられない風のにおいや木の呼吸みたいなものをけっこうずっと感じていて、けれど最後の「28」が流れるのにあわせて、まるで幕がめくられるようにゆっくりと、森の向こうからひかりが満ちて、しずかに、だれも知らないままに夜が明けて、わたしたちはここにたしかに立っているのだということに気づく。鏡のように凪いだ心で、きちんと地を踏みしめているじぶんの存在に相対する。夜が去ったあとに、わたしはわたしと出逢うのだ。このアルバムを聴くのは夜がいい。日が落ちて、暗くなり、じぶんの輪郭を確かめる方法を失ったときに、またじぶんと巡り会うための、霧につつまれた架け橋のようなアルバムだ。


5. 日食なつこ - [ミメーシス]

 日食なつこは救わない。
 というかそもそも日食なつこはわたしのことを見ていない。彼女は世間を糾弾するし夜明けに向かって吠えまくるけれど実際わたしに興味などない。彼女の紡ぐ声が歌がわたしを励ましたり奮い立たせたり掬い上げたりしたところでそれは結果論であり、彼女はわたしを救おうなんて微塵も思っちゃいないのだ。彼女はただただ前を見ている、どういうわけだか知らないけれど彼女は立ち止まったら死んじゃうみたいだ。足は血みどろ髪はぼさぼさ、ピアノに節ばったながい指を乗せ、前髪の向こうでぎょろぎょろひかる目ばっかり果敢に血走らせて、彼女は吠える、吼える、歌う。彼女が前に進むために、たぶん、日食なつこが日食なつこであるために。それに勝手にわたしが救われているだけだ。彼女はわたしに興味などない。彼女が追い求めているものが一体なんなのかなんてたぶん彼女にもわかってなくて、でもそれでいいんじゃないのかな。夢も行き先も成し遂げたいことも彼女の原動力にはならなくて、彼女を動かしているのはただ、彼女の心臓、燃える赤、青い衝動、まっしろな感性。持ってるものといえばそれだけで、あとはピアノが一台あれば、彼女はどこまでだって突っ走る。音楽のかみさまに取り憑かれたなんて生やさしいものではない、音楽にじぶんから取り憑いたみたいに日食なつこは歌いつづける。その音楽に、たぶんわたしは一生虜だ。


4. mimirose - [AWESOME]

 リリース直後に「こんな良い曲あるなんて信じられん」と三日三晩騒ぎ倒したのは良い思い出である。とくに2番サビ、弾けるような音とともにぜんぶの歌が静止して、まっしろになった空間に響き渡る口笛の音色には膝を打った。いや絶対曲展開としてはそう来るだろうなとは思ってたけれど、来るぞ絶対こう来るぞ来るぞと待ち構えていたところにちゃんとカッチリハメてキメてみせてくれたときの快感たるや脳髄が破裂する。しばらくRoseしか聴いてなかったし、でもじつはいちばん好きなのはlululu。なんかどう考えても新人の歌声じゃない歌声した女がいる。
 やっぱりどうしたってガールズ・プラネット999、他人の人生にも夢にも責任なんて取れないのにオーディション番組観てしまうのがオタクの業だ。ほんとうに良くない。ユン・ジアはこうしてミミローズとしてデビューできたけれど、そうならなかった子だってたくさんいる。ガールズ・プラネット999に参加して、夢を叶えた子も、残念ながら叶わなかった子も、どうかどうかみんなが幸せであることを切に祈っている。本当に、ひとりのこらず、無条件に、ぜったいにしあわせになってほしい。無責任にうら若い少女たちの人生を消費してしまった罪悪感は消えないから、どうしたって無かったものにはならないから、だからいつまでも祈っている。祈っている。


3. Cwondo - [Coloriyo]

 あんまりだれかに信じてもらえたことはないのだけれど、保育園くらいのときわたしには妹がいた。妹はとうめいで、いつもポニーテールがゆらゆら揺れていて、ピンクのワンピースをひらひらさせながらわたしの前を歩いていた。ポニーテールが独自の意思を持っているみたいにほんとうによく揺れたので、つつじの生垣に幾度となく絡まっていたのをうっすら覚えている。階段の溝とか、母のパジャマが入った引き出しの奥とか、ひとまとめに掛かっていた保育園のみんなのレインコートの間とか、そういうところによく手とか足とか突っ込んではかき回していた。だれにも見えていなかったけれど、わたしにだけは見えていて、絵本の読み聞かせをしてやると手を叩いて喜んでくれた。手をつなぐこともできなかったけれど、たぶん妹のほっぺは丸くて、寒い日にはりんごみたいに真っ赤になっていたと思う。声も聴こえなかったし、だれも妹のなまえを呼ばなかったけれど、でも妹はたしかにいて、わたしと一緒に保育園に行っていた。わたしと一緒に生きていた。わたしのとなりに歩いていた。
 妹の、あるはずだったぬくもりや、たぶんたくさん忘れてしまった思い出の数々を、このアルバムを聴いていると、なぜだかとても近くに感じられる。忘れていたもの、たぶんもう思い出せないもの、紅茶のなかに溶けてしまったミルクみたいにあたたかくてかたちがない、あいまいであやふやな体温が、音のなかに溶けている。


2. ROTH BART BARON - [HOWL]

 わたしたちはどうしようもなく人間だ、と思う。同じ時間の同じ世界にようやく辿り着けたのに、わたしたちは人間で、どうしたってちがういきもの。手をかさねても肌がつっかえ、頬をあわせても体温は混ざらない。きみの吐息を吸って呼吸することはできない。とても近く、近くにいるのに、きみの虹彩にうつる景色をわたしが見ることは絶対にない。「糸の惑星」を聴いていると、当たり前すぎるその事実が、なんだかとてつもなく大きく膨れ上がって、わたしの上に影を落としているような感覚になる。そうだ、わたしたちは孤独だったのだ。どうしてかいつもは失念しているけれど、実はずっと、わたしたちは孤独だったし、いまも孤独だし、これからも孤独なのだ。そのことがちょっとだけ怖くなる。人間に生まれたことを恨めしく思う。でもわたしは人間だから、きみとはちがういきものだから、きみとは違う場所へ行くことができるのだ、と「KAZE」を聴いて思い出す。「君が西へ / 行くというなら / 僕は東へ / 向かうとするよ / まあるい星のその裏側で / あなたにいつか会える気がするから」。わたしたちは孤独だ。ずっと孤独で、たぶんそれは変わらない。その事実に絶望してるし、これからもなにかにつけては、孤独に打ちひしがれたり、呑み込まれそうになったり、泣き叫んでもうなにもかも放り出して暴れたくなる時があるだろうし、じっさい数えきれないくらい暴れるだろう。そうして、絶望して、打ちひしがれて、呑み込まれて何度も暴れて、ずたぼろになった先にそれでも生きて、いつか、きみのそばで会おう。
(で、このアルバムのいちばん怖いのは、「糸の惑星」のつぎに「KAZE」じゃなくて、「KAZE」のあとに「糸の惑星」を配置しているところ、なんだけど)


1. 羊文学 - [our hope]

 羊文学が歌う滅亡はなんでこんなにいつもきれいなんだろう、と思う。世界がこんなふうに壊れていくはずはないのだ。世界はもっと、騒がしく、唐突に、みっともなく、いつになくぐちゃぐちゃに汚れながら、醜く終わっていくはずなのだ。なのに羊文学の滅亡ときたらいつもしずかで、ほのかなひかりに包まれて、まるで眠るみたいにゆっくりとしている。ジオラマに灯されたネオンサインがひとつずつまぶたを閉じるみたいに、パウル・クレーの絵から一色ずつ色が消えていくみたいに、ゆるやかならせんを描きながら羊文学の世界は滅ぶ。それが、ずっと、夢みたいだ、と思う。
 「OOPARTS」は、その時代の技術や知識の水準に全くそぐわない人工物のことをいうそうだ。「地球はオーパーツ」と羊文学は歌う、「100億年の夢」。
 地球はどうやら船らしいけれど、じゃあだれが行き先を知っているんだろう。みんな行き先を探しているみたいだけれど、でもほんとうは、みんな知りたくないんじゃないかな、とたまに思う。駅のホームでぼんやりと、電車に乗り込むひとの横顔を眺める。だってここにいる何人が、じぶんの行き先を知っているんだろう。ちょっと前までは、ここで交差するひとたち全員に、わたしの知らない行き先があって、わたしは知らないたいせつななにかがあって、わたしには提示されない感情があって、わたしは知ることのない明日があるんだろうと思っていたけれど、ほんとうはそんなものないんじゃないかな、と今は思う。わたしたちはどこへ行くかだれも知らない。だってそもそもわたしたちが何者なのかもわからないんだから。
 乗せきれないほどの夢で膨れ上がった地球は一体どこへ行くんだろう。その夢のなかは空っぽなのに、わたしたちはここ以外のどこへも行けないはずなのに、それでもどこへ行こうとしているんだろう。内容のはっきりとしない、輪郭のぼやけた夢のチケットを握りしめて駆け出して、駆け出した先に、地面はあるのかな。酸素はあるのかな。それとも、酸素があるところまで、わたしたちは逃げていく? 
 羊文学は、卑怯なわたしたちのことを糾弾する。いや、糾弾はしていない。ただ見つめている。ほんとうにそれでいいの? と見つめている。ほんとうに捨てられると思ってる? 逃げられると思ってる? 彼女たちはなにも言わない。ただそこに立って、わたしたちを見つめている。そのまなざしはとうめいで、鋭くて、いつだって全然容赦がない。だから羊文学の音楽はこわい。


 以上、2022年のベストアルバム10選でした。

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