愛を受けて育った人間は、自分もまた愛に縛られる

すごく偏見を言うが、周りからの愛情をたくさん受け、多くの人に助けられて育った人間ほど、決断力がなく、抽象的なことを言い、誰が定義したのかもわからない正義を振りかざしている印象がある。

愛情を注がれれば注がれるほど、常識から外れた選択をとりにくくなる。
自分に与えてくれた愛情を裏切ることが出来ないという感情から、周囲の共通項を抽出するような生き方をしてしまう。
誰にでも優しくあらないといけないと囚われ、常に性善説的な発想で世の中を生きていく。

これは客観的に見れば、明らかに自分の人生の幅を狭めており、一定の幸福感は得られるだろうが、逆にそれ以上の幸福は得られない、常に70点くらいの生き方だと捉えられるだろう。

人間は不思議なもので、恩を仇で返すようなことは中々できない。
その瞬間、かなりのストレスを感じるように体が作られている。
だから、多くの人から多くの愛情を与えられた人間は、よっぽど精神力の強い人間でない限り、70点付近の人生を送ることになる。
(彼らの主観では100点満点の人生なのだろうが。)

愛情を受けて育つことが、果たして良いことなのだろうかと考えることがある。

ぼく自身、魅力的だと思う人は、愛情って何?みたいな人が多い。
理想論でなく現実的で、
抽象的でなく具体的で、
逃避的でなく洞察的で、
常識を疑って自分の頭を信じて。

・(少なくとも表面に見える部分では)考え方がドライ/論理的で
・未来を恐れず決断力があって
・腹をくくっている

ぼくも、そういう人間でありたい。

すべての行動を、自分の頭で考えて、自分の責任で決定するクセをつけていたい。
屍を築くことに罪悪感を覚えることもあるだろうが、強く受け入れて、処理する。

愛や善といった抽象的なものでは、支えられるものに限界がある。
論理的で現実的で、残酷な内容を含むような決定こそ、強く何かを支えられるようなものであると思う。

そういう決断力を持って生きていけるような人間でありたい。
愛情のような抽象的で道徳的な概念は、決断を鈍らせる材料になり得る。
そうならないように、具体レベルまで落とし込んで都度考えて、足かせでなくメリット部分だけ享受できるよう意識したい。

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