悲観の無意味さ
生まれで9割が決まってしまうことへの悲観
ぼくはよく悲観する。なぜか。
これまでの人生の中で、自分の努力に見合った成果が出なかったことが多々あったからだ。そしてその原因の大部分が、単に生まれに依存することに気づいたからだ。
大学生くらいまでは、上手くいかないことがあると、自分の努力不足と思い、責めていた。
それは、基本的な考え方を形成する小中学生時代のほとんどの時間は野球に費やしており、その環境が極めて昭和的な指導法だったことに起因する。
上手くいかないことは、「気合が足りないから」「努力が足りないから」「自分が怠惰だから」と叩き込まれていた。
だからぼくは、野球のことも、そして野球以外のことも、上手くいったときは「自分の努力の賜物」と思っていたし、上手くいかないときは「自分の努力不足」と思っていた。
例えばぼくは体が細かった。
体が大きい部員を見ると、この人たちはどれだけ血のにじむような思いでご飯を食べているのだろうと思っていた。ぼくは毎食2合以上は必ず食べ、可能なら3合食べていたが、精々50kgくらいの体重だったからだ。だから、彼らに比べて僕は努力ができない人間だと自分を卑下し、落ち込んでいた。
でもやはり、だんだんその考え方に無理があるとわかってくる。
大学時代クラスに居た、本当に優秀な生徒。
自分が24時間ずっと勉強をしていても、絶対この人のレベルにはなれないと悟った。じゃあこれはぼくの努力不足か。
大人になって日本に来て、10年以上日本に住んでいる海外の人。
めちゃくちゃ言語が好きで、ずっと日本語を話していても、日本語ネイティブでないことは誰が聞いても分かる。じゃあその日本語しかしゃべれないことは、その外国人の努力不足か。
上手くいかなかったことを自他依らず事例をかき集め、落ち着いて遡っていくと、結局は生まれや環境まで戻ってしまう。生まれた国、親の経済力、教育意識、愛情の与え方…
ぼくが当時信じていた「10割が努力」は完全に間違っていて、「9割は生まれ、1割が努力」が現段階のぼくの見解だ。
小さい時、よく周りの大人が「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」とアインシュタインの言葉を言っていた。
本当に残酷なことを言うバカ野郎共だよな。
断言する。
アインシュタインが数多くの功績をあげたのは間違いなく、彼が元々天才だったからだ。そうであるが故に、努力が自然に追随したからだ。
人生はほとんどが生まれで決まるということを年々確信していき、空しく思った。
もちろん努力で変えられることもたくさんある。
だがそれも、「努力できるという才能」を賜り、それを発揮したにすぎない。結局は生まれだ。
頑張るのがバカらしいと思った。
人生を悲観した。
全てがくだらないと思った。
そんな期間が、20歳ごろからずっと続いていた。
悲観は何も生まない、与えられた状況で出来ることを
でも今回、そういった「悲観」に対する意識が少し変わるきっかけがあった。
扁桃腺摘出手術という手術を受け、1週間ほど、人生で初めての入院をしないといけなかった。
喉の手術のため食事もまともに喉を通らないのと、基本ずっとベッドにいないといけないため、とにかく暇だった。
身体的に何もできない人ってどうやって人生を楽しむんだろう、それこそ悲観続きではないのだろうか、と疑問に思い、いろいろ調べていた。
その中で、「しょうこちゃんねる」という、交通事故で首から下に麻痺が残った方の動画が特に印象的だった。
https://youtu.be/Hi_kQwNxXaI?si=hCbIJfelZzxhGBXt
30本くらいの動画を一気見した。理屈っぽい考え方と、綺麗ごとに対する穿った視点が自分に似ていて、スッと内容が頭に入ってきた。この人が出してきた結論は、自分の人生のショートカットになると思い、しょうこさんの著書「生きる」を早速kindleで購入し読んだ。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784828207339
結論から言うと、「この考え方良いな」と思う内容がたくさんあって、とても勉強になった。
自分に使えるTipsとしてまとめると、
結局、自分自身だけを見つめていればいい。
「自分が○○であるために、いま△△をする」というシンプルな発想だけでいい。
周りは気にしないでいい。
ということだ。
△△の部分の効率が、生まれで決まることを、ぼくは強く悲観していた。
でもそんなこと考えたって、自分の人生は幸せにはならない。
例えば、体の大きさに恵まれて、それだけでプロ野球選手になれる人がいる。
体が小さい人がプロ野球選手にあこがれて、体では勝てないので「守備」「足」「バント」などで活躍を目指す人がいる。この人が「ああ、親の体が大きくて遺伝だけで体に恵まれてプロ野球選手になれる人はいいな」と思ったところで、何も幸せにはならない。自分がプロになるためにできることが守備足バントしかないのなら、それだけ見つめて磨けばいい。
見つめるのはいつだって自分自身だ。未来の自分のイメージと、過去の自分の実績だ。その差分を正しく受け入れ、いま自分に与えられた状況下で可能な、最大限の行動をするだけだ。
その行動対効果の効率を他人と比較する意味はない。自分の目標を達成するために、他人との比較が必要なわけがない。
「出来ないこと、与えられなかったこと」ではなく、「出来るようになったこと、与えられたこと」に目を向けよう。
生まれや運で物事が決まってしまう残酷な世の中でも、できる限り楽しんで生きよう。
「悲観」という何も生み出さない感情を、少しでも減らして生きていこう。