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ザキング 永遠の君主 29.「新たな戦場が拓かれて」
カフェが空いている時間帯に洗い物をしながら、ナリは最近のウンソプについて考えていた。
どうも何かが変わった気がする…
ウンソプの変化にナリが気づかないはずはなかった。
口数も少なくなって柄にもなくカッコつけて歩いたり…
たまにとんでもない事にのめり込むウンソプだったので、ナリは心配だった。
「 あいつ、まさかまた変な夢でもできた…? 」
客が入ってくるドアベルの音に、ナリはゴム手袋を脱いで水気を切った。
「いらっしゃいませ。」
ナリは明るい声で客を迎えた。
見るからに気位の高そうな表情でカフェをきょろきょろと見回しながら入ってきたのは、ソリョンだった。
ソリョンはク・ウナのスタイルであるジーンズと運動靴ではなく、パンツスーツとヒールで身を固めていた。
「大韓民国のク・ウナ」はもうここにはいないのだから…
カウンターに近づき、好奇心に満ちた目でメニューを眺めたソリョンはミルクティーを注文した。
「 これをください、テイクアウトで。」
「 5.800ウォンです。」
ソリョンは現金を手のひらに載せて一つずつ数えた。
慣れない小銭さえも興味深かった。
もちろん、同じ顔の別人が存在するもう一つの世界があったという事実ほどではなかったが。
「 少々お待ちください。」
チリンチリン…
ドアベルがもう一度鳴り、新しい客が入ってきた。
ナリがドアの方を見て、ぶっきらぼうに挨拶をした。
「 来たの?ちょっと待ってて。」
無意識に後ろを振り返ったソリョンは一瞬で固まった。
ドアを開けて入ってきた男がチョ・ヨンと同じ顔をしていた。
二人の視線が交差したまま停止した。
驚きのあまり目を逸らすこともできなかった。
1秒… 2秒…
二人にだけ長い静寂だった。
ミルクティーを作っていたナリがヨンに話しかけなかったら、そのまま止まっていたかもしれない程に…
「 ウンビとカビならまだだけど。なんでこんな早く来たの?」
素早くまばたきをしたヨンは、さり気なくソリョンの横を通り過ぎてカウンターに向かった。
ウンソプを真似るための方言はもうだいぶ板についてきていて、自信もあった。
ヨンはウンソプの厚かましい態度を演じた。
「 チャプチェ(※)は?」
「 いつのチャプチェよ。今更あるわけないでしょ! 」
「 お前がチャプチェを取りに来いって言ったんだろ。あげると言ったならくれないと!早く。」
ソリョンのすぐそばでナリとヨンがなんだかんだと言い合っていた。
ソリョンは横目でそんなヨンの様子を伺った。
バレたかと不安になり、焦った。
全神経をヨンに向けていたソリョンの前に、ナリは出来上がったミルクティーを置いた。
ソリョンがウンソプを気にしているように感じたナリは、ソリョンの顔をチラリと見上げた。
客の前なのに私語をして無礼を働いてしまったと思ったナリはすぐに謝った。
「お飲み物お待たせしました。すみません…離乳食から一緒の仲なんです。」
ソリョンは平静を装い頷くと、ナリが差し出したミルクティーを一口飲んでから口の端を上げた。
「 おいしいですね。 」
「 またどうぞ。」
後ろを向いたソリョンにナリが挨拶を返した。
そしてヨンをキッと睨んだ。
「 ちょっと、お客さんがいるの見えないの? 髪もなんで切っちゃったのよ!もう髪の毛掴めないじゃん…! 」
しかし、ヨンには息巻くナリの言葉がまるで聞こえていないようだった。
カフェの外に出るソリョンに気を取られていた。
ソリョンが完全にカフェを出て扉が閉まるや否や、ヨンはナリを急かした。
「 ナリ、そこに停めてある車を貸してくれ。」
「 免許もないくせに何言って…死にたいの?」
この前発給されたウンソプの免許証を、ヨンはナリの目の前に突き出した。
驚いたナリは、すぐにヨンを連れて庭へ出た。
庭にはナリの自慢の愛車がズラリと並び、ヨンはその中から一台を選べばよかった。
車が一様に派手なことが少し問題ではあったが…
ヨンは赤色のスポーツカーを選び、猛スピードでソリョンの後を追った。
ソリョンの車と間隔を開けて運転しながら、ヨンはウンソプの携帯からテウルに電話をかけた。
“テウルさん”
何度コールを鳴らしても、テウルは電話に出なかった。
顔をしかめて電話を切ったヨンはシンジェにかけ直した。
幾らも経たないうちにシンジェが応えた。
ー チョ・ウンソプ?
「 チョ・ヨンです。 チョン刑事が電話に出なくて。汝矣島(ヨイド)方面に来てください。 助けが必要です。」
ー お前、ウンソプの携帯も持ってるのか? 何の用だ。俺に借りを作るのか?
「 お待ちしてます。 」
きっぱり言ったヨンは電話を切った。
そしてソリョンの車を追う事に集中した。
大通りを右折して4車線の道路に進入すると、車通りが減っていた。
ヨンはアクセルを強く踏み込んでエンジンを吹かし、一気にソリョンの車を追い越した。
スポーツカーはキーッと音を立てて斜めに割り込み、ソリョンの車の前に立ちはだかった。
反射的にブレーキをかけたソリョンの車からも、聞きたくない騒音が上がった。
車から降りたヨンはつかつかとソリョンの車に近づいた。
そして運転席に乗ったソリョンを窓越しにじっと見つめた。
そうしてしばらくヨンと睨み合っていたソリョンだったが、ようやく車から降りてきた。
二人の視線が冷たくぶつかり合った。
「 ちょっとあんた!!!」
ソリョンの赤い唇から出た最初の言葉にヨンは驚いた。
ヨンとしては全く予想できなかった第一声だった。
「 どんな運転してんのよ!!死ぬところだったじゃない…!! 」
顔を引きつらせたソリョンが言い放った。
堂々としていて抜け目のない、優雅な大韓帝国の首相には似合わない言葉づかいだった。
ヨンの眉間にしわが寄った。
目の前の女性は、思ったよりも悪質かもしれない。
いや…すでに大韓民国に来ているだけでもそうだろうが。
「 ここで死ぬ訳にはいかないでしょう、ク・ソリョン総理 。 」
「 総理…?私が国に養われてる人間に見える?人違いよ。 」
「 間違いないかと。」
皮肉を言って否定するソリョンだったが、ヨンは動じずに冷たく応えた。
ソリョンと同じ顔の女性が大韓民国にもいるかもしれない。
しかし、目の前の女ははっきりと自分を見抜いた。
ク・ソリョンでなければそんなことはできなかった。
苛立ったソリョンは声を1トーン上げた。
「 人違いだと言ってるでしょ!?あんまりしつこいと危険な目に遭うわよ…! 」
ソリョンの最後の言葉は意味深だった。
不穏な気配を感じたヨンが、後ろを振り向こうとした瞬間…
タァーンッ!!
それよりも速く弾丸が飛んできた。
猛スピードで走ってきた黒い車に乗った殺手隊が窓を開け、ヨンに向かって発砲したのだ。
銃弾を受けたヨンは激しくアスファルトの上に倒れ込んだ。
突然銃声が聞こえ、道を歩いていた市民が悲鳴を上げながら倒れたヨンの元へ詰め掛けた。
「 通報しないとダメなんじゃない…!?」
「 112、112に電話だ!」
騒々しくなる周りを見回しながら人混みに紛れていたソリョンは、すぐに車に乗り込んだ。
苦痛にあえぎながら、それでもヨンはソリョンを目で追い続けた。
今すぐ追いかけなければならないのに、体を起こすことすら出来なかった。
白銀の車は悠々と走り去って行った。
と同時に、回転灯の音とともにシンジェの車が一歩遅れて現れた。
「 あ、警察だ。 すみません!ここに人が倒れてます…!! 」
市民の一人が叫んだ。
倒れたヨンを見つけたシンジェは驚いて駆け寄った。
「 いまの銃声は何だ…おい、チョ・ヨン!!しっかりしろ…!!! 」
半分目を閉じ苦しんでいるヨンの状態を確認したシンジェは、すぐに周辺を収拾した。
「 訓練です…!大丈夫です、安心して下さい。ただの訓練です!!」
ざわついていた人々は少しずつ散っていった。
大韓民国は銃器所持の許されない国だ。
ソウルのど真ん中で銃撃戦が行われることは、軍事訓練より非現実的だった。
離れていく人々を背に、シンジェは急いでヨンを助け起こした。
※チャプチェ…春雨を炒めた韓国の定番家庭料理
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ホテルに到着し、ヨンは鏡の前で着ていた防弾チョッキを脱ぎ捨てた。
シャツのボタンを外して確認すると、銃弾が撃ち込まれた胸の上にはすでに真っ黒なあざができていた。
あざを確認したヨンは、眉をひそめてシャツのボタンを再びかけ始めた。
生地が擦れただけで、胸はズキズキと痛んだ。
部屋に入りながら、鏡に映ったヨンを見たシンジェが頭を横に振った。
「 本当に病院に行かなくてもいいのか?大韓民国の病院は最高だぞ。」
「 大韓帝国の防弾チョッキの方が最高です。 筋肉や靭帯が痛むだけで、骨や内臓の損傷はないかと。」
「 銃で撃たれても病院に行かないのか、大韓帝国は。 」
舌打ちをしたシンジェが、ヨンに向け車のキーを放り投げた。
「 ドライブレコーダーは消しておいた。 ナリにはお前が返せ。」
「 ……っ!!! 」
車のキーを受け取ろうと手を伸ばしたヨンは思わず呻いた。
小さな動きにもかなりの苦痛が伴った。
シンジェはポケットから取り出した携帯でテウルに「どこにいる?」とメッセージを送りながら、再びヨンを追及した。
「 本当のことを正直に言え。大韓帝国の人間が何をして銃で撃たれた?言い訳なり説明なりしてみろ。言わないなら逮捕だ。 」
「 ……二度はないことです。陛下が戻られたらお話します。」
「 あいつはいつ戻る? 」
ゴンに対する無礼な呼び方に、ヨンの眉はすぐに跳ね上がった。
「 参考までに…陛下の名をみだりに口にすれば打ち首です。」
「 …お前にとっては皇帝でも、俺には関係ない。」
二人はソファに座って話を続けた。
「 覚えているのでは…?陛下が泣いておられた日のことを。」
「 ……お前はいつから警護してるんだ。」
「 4歳の時からです。」
「 …話を盛るな。」
初めてゴンに会った日を思い浮かべながら、ヨンは力なくふっと笑った。
ー お前はこれから“天下随一の剣”だ。
8歳のゴンがそう言って自分に差し出したおもちゃの剣…
4歳の幼いヨンが、泣いているゴンを見て一緒に泣いた時だった。
ゴンは父親を亡くして泣いていたにもかかわらず、泣きじゃくるヨンを慰めるためにおもちゃの剣を渡した。
その日からヨンは、ゴンの天下随一の剣となった。
ゴンは幼いヨンを見ながらよく笑い、ヨンは時々意地悪を言われることがあっても、総じて暖かい兄のようなゴンが好きだった。
ヨンにとってゴンは兄弟であり、友人であり、国家だった。
「 陛下が8歳で、私が4歳のとき…即位式を行う陛下に初めてお目に掛かりました。その時思ったんです。陛下には幸せであって欲しいと…運命だったと思います。 」
主君の影となって彼を守る運命が嬉しかったのは、その主君がゴンであったからだ。
静かにヨンの話を聞いていたシンジェが言いにくそうに口を開いた。
自分とテウルともまた違う…なんとも言い難い、ヨンとゴンの深い結びつきを感じて戸惑った。
「 住む世界が違うせいか、何て言うべきか分からないな。……お前ら付き合ってんのか?」
重くなった雰囲気を薄めるシンジェの問いに、ヨンはクスリと笑った。
「 時々そんなスキャンダルが起きたりもします。でも、カン刑事とチョン刑事も守っておられますよね?法と正義を…命懸けで。私にはそれが陛下なのです。」
淡々としていて、しかし重みのある言葉だった。
シンジェはしばらく目を伏せた。
いくら軽く考えようとしても軽く考えられない世界だった…大韓帝国は。
「 …あいつはあの時なんで泣いてたんだ? 」
シンジェがゴンの慟哭をテレビで見た時、幼いシンジェは何も知らなかった。
なぜ太子がそんなに悲しく泣いているのか…正確な理由も分からなかった。
「 陛下の初の公務でした。先帝の国葬です。」
「 あいつ父親がいないのか…先帝はなんで死んだ? 」
「 兄に殺されました。陛下の目の前で… 」
あまりにむごい話だった。
シンジェの額にしわが寄った。
ゴンの悲しみを思うと、ヨンは自然に胸を痛めた。
自分が承諾した者以外は誰も体に触れさせない皇帝…
その日の名残である身分証を常に握って寂しさを紛らす皇帝…
時々悪夢に悩まされ、また時々現実にも悩まされる皇帝…
消えない首の傷跡を抱えて生きる彼が、不憫で仕方なかった。
「 そうしてその夜から、陛下は毎晩死を枕にして眠る皇帝となりました。」
「 ……!」
「 陛下にとって宮は最も安全な家であり、最も危険な戦場でもあったのですから。 今、陛下は新たな戦場へ進まれました。それが陛下の運命なら、追従するまでです。そこがどんな戦場であれ… 」
シンジェは予感した。
その戦場に、もしかしたら自分も属することになるかもしれないと。
いや、すでに属しているかもしれない。
他人の人生を生きている自分の運命が、その戦場にあるような気がして…。
ザキング 永遠の君主
29.「新たな戦場が拓かれて」