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ザキング 永遠の君主 10.「待つという恋しさ」
テウルは下ろした髪を一つにまとめ上げ、本に顔を近づけた。
図書館を再び訪れることになるとは思わなかったが、いつの間にか来るようになっていた。
最初から存在しなかった人のようにゴンが消えてから数日が経っていた。
テウルはゴンが座っていたその席に座り、並行宇宙に関する本を何冊も読んでいた。
半分以上が知らない言葉だったので理解出来るようで出来ないのが苦しかった。
本を読んだ時間が半分、理解できずぼんやりゴンとの記憶をたどる時間が半分だった気がした。
ぐったりした腰を起こして伸びをすると、テウルはすぐに本を閉じてその場から立ち上がった。
頭上に太陽が昇っていた時間に来たはずが、いつの間にか外は真っ暗になっていた。
駐車場に止めていた車に向かって歩きながら、テウルがキーを取り出した時だった。
キーと身分証の紐がからみ合い、ポケットから身分証まで一緒になって出てきてしまった。
紐を解いている間、車のキーに取り付けられたライオンのキーホルダーが音を立ててテウルの気を引いた。
誰がいつ付けたのかは分からないが、ゴンが消えた後に現れたせいか、目鼻立ちがはっきりしていてどことなくゴンに似ているような気がした。
テウルは身分証と車のキーの絡まりをすべて解いた後も、じっとそのライオンを眺めていた。
ちょうどその時、後ろから自転車に乗った少年が近づいてきていたことにも気づかず…
自転車は危うくテウルをかすめて通り過ぎた。
テウルは咄嗟に自転車を避けたが、その拍子に手に持っていた身分証を落としてしまった。
少年がブレーキをキーキー鳴らしながら自転車を急停止させたが、テウルの手から落ちた身分証はすでに排水口の底へ落ちた後だった。
「 す、すみません…僕が…取りましょうか? 」
「 取れないよ……沈んで流れちゃった……私の人事、私の昇進…… 」
しゃがみ込んだテウルは虚しく真っ暗な排水口を見下ろした。
少年はじっとその様子を見つめていた。
テウルはポケットから震える携帯電話を取り出した。
科学捜査班キョンランからの着信だった。
どうせ後戻り出来ないことに時間を費やすのはテウルのスタイルではなかった。
テウルは携帯を持ったまま少年を見送った。
「 大丈夫だから、もう行きなさい。わざとじゃないでしょ? 」
その言葉を聞いても申し訳ないのか、しばらくテウルから視線を離さなかった少年だったが、すぐに再び自転車に乗って去っていった。
ちょっと面倒ではあるが、身分証は新たに発給して貰えば済むことだった。
ふと、ゴンが11月11日付で発給された自分の身分証を持っていると言っていたことを思い出した。
しかし、すぐに考えを片付けた。
今日は10月13日だ。
いくら遅くても11月まではかからないはず…
また間抜けな考え事をしてしまったとため息をつきながら、テウルは通話ボタンを押した。
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警察署に着くとすぐ、テウルはキョンランを探した。
以前ゴンの財布から発見した十万ウォン札…そのお札の調査結果がようやく出てきたらしい。
ところが、テウルがキョンランを見つけるより先にキョンランの緊迫した声がテウル目がけて迫ってきた。
「 これは何…!? 」
透明なビニール袋に入った十万ウォン札を振りながら、キョンランは興奮した様子で話しかけてきた。
紙幣の中には、やはりゴンに似た顔が描かれていた 。
「 何って、誰かが作った宣伝用のビラでしょ。」
「 そうよね、宣伝用のビラよね…でもこれ、本物だった。これは本物なの!透かしまで完璧だし…透かしまでハンサムだった… 」
「 何言ってるの… 」
「 もしかしてその身元不明者って、韓国銀行の頭取の息子か造幣公社の孫なの…?あり得ないこと言ってるのは分かってるけどこれは本当なの!紙、インク、偽造防止技術まで全部同じだった。銀行が発行した正真正銘本物の紙幣なんだってば!! 」
説明しながらも理解できないといった様子でキョンランは首をかしげて言った。
テウルはぼんやりとまばたきをした。
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額にこぼれた前髪が夜風に揺れた。
待っているわけではなかった。
ところが、キョンランの言葉を聞いていると探す理由ができたようだった。
テウルはポケットのキーホルダーをぎゅっと握りしめた。
翌日、夜が明けるや否やテウルは交通課へ向かい、監視カメラを確認した。
あの夜ゴンに連れて行かれた竹林、そこに向かっているゴンらしき姿が映っていた。
最初にゴンに会った光化門交差点からそう遠くない場所だった。
「 二度も目撃されてます。でも行き先が掴めません。突然消えてしまって… 」
職員は説明した。
「 この先は竹林しかないんですよ。」
「 ですよね… 」
真っ白な馬に乗って走る男は確かにゴンだった。
いつの間にか見慣れた広々とした背中が、突然画面の中から消えた。
テウルはゴンの言葉を一瞬たりとも信じることができなかった。
ところが、指紋を照会したあの夜から今日まで出たすべての証拠は、ゴンの話が事実であることを物語るものばかりだった。
交通課を出て、テウルはゴンと一緒に行ったその竹林を一人で訪れた。
自分でもよく分からないが、その日はなぜか行ってみようと思ったのだ。
ゴンが来たことを本当に信じたからではなく、むしろ信じたくて半ばやけくそだったように思う。
竹林の中に入ると、あっという間にゴンとの記憶が浮かんできた。
シンジェとどんな間柄か聞いてきたゴンは、次になぜ刑事になったのかとテウルに尋ねた。
「 君はどうして刑事になったんだ? 私は生まれた時から職業は皇帝と決まっていた。庶民はどうやって夢を持つのか気になる。 」
「 物凄く上から嫌み言ってるの分かってる…? 」
「 そうかもしれないが、そのために庶民とは違う生き方を強いられている。」
そう言ったゴンは寂しそうに見えた。
彼の言葉がどこまで事実なのかも分からないのに、テウルはよくゴンに気の毒さを感じていた。
高い鼻の横にある、深い瞳のせいだろう。
「 子どもの頃、他の家の子たちは白雪姫や人魚姫を見ていたのに、私はいつも父さんと“警察庁の人たち”を見てた。8歳の時には犯人も当てたんだから。ずっと何度も見ていたら刑事になりたくなったの。」
「 でも危険な職業だろう、刑事は。」
「 そうだけど。世の中の全員が勇敢にはなれないから、私は勇敢になろうと思った。」
「 かっこいいな、チョン・テウル警部補。」
多分あの時、ゴンは本当にテウルのことを素敵だと思っていたようだ。
その本心を感じ取ったテウルは急に恥ずかしくなった。
「 私はそうと、キム・クソ野郎はどんな皇帝なの?若くて、ハンサムで、お金持ち?」
「 ボート選手であり数学者で、孤児で立派に育ち…四寅剣の主人で……こんな質問は初めてだから平静を装いつつもバレないことを望む、そんな皇帝だ。」
微かに震えていた低い声が、テウルの耳元に残像のようにまだ残っていた。
テウルは呆然と空を見上げ、竹林を揺らして吹いてくる風を感じた。
風がテウルまでをも揺らした。
混乱していた。
「 本当にここへ来たの…? 」
なぜ?
一度浮かんだ疑問は治まることが無かった。
テウルはしばらくそこを動けず、立ち尽くしていた。
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宮殿の中庭にぼんやり立ったまま、ゴンは真っ黄色に染まった葉をはらはら落とす銀杏の木を眺めていた。
銀杏が一面に植えられたこの庭園は、ゴンがたびたび訪れては思索を楽しむ場所だった。
ゴンの手には25年間本棚の中に大切に保管していたテウルの身分証が握られていた。
写真の中のテウルへの感情は、漠然とした「待ち遠しさ」や「懐かしさ」ではなかった。
ゴンにとってテウルは一緒に話をして、触れて、すれ違った実在する人物だった。
にもかかわらず、依然としてゴンは苦々しい気持ちで身分証の表面を撫でていた。
身分証の発行日はまだ来ていない。
未だにこの身分証がどこからどのようにやってきたかは未知数だった。
「 …陛下!」
考え込んでいたゴンは、ヨンの呼びかけに後ろを振り返った。
「 ノ尚宮様が大騒ぎしています!陛下がまた無断出宮されたかと思っ………
その瞬間、近づいてきたヨンの歩みが止まった。
ゴンは素早くまばたきをした。
ヨンが止まったのではなく、時間が止まったのだ。
瞬時に判断したゴンはオイラー数(超越数)を数え始めた。
「 2.718281828459045223536028747135---
そこまで数えた時だった…
停止した時間が再び流れ出したのは。
……てあちこち探し回っておられます!こちらにいらっしゃるならいらっしゃると… 」
「 待て、何秒か確かめる。2.718281828459045235360 28747135--- 」
ゴンは時計を確認し、もう一度同じ拍子でオイラー数を数えた。
「 何をなさっているのですか? 」
「 時間が止まっていた…2回目だ。お前は何も感じなかったか? 」
「 時計が止まったという事ですか? 」
「 もちろん時計も止まった。」
訳の分からないことを言うゴンに、ヨンは面と向かって無愛想なしかめっ面をした。
長い出宮後に戻ったゴンは確かに変わっていた。
何かに気が付いたのか、それとも何かを置いてきたのか、見当もつかなかった。
「 陛下、今度はいったいどちらへ行って来られたのですか? 」
「 並行世界へ。」
「 あぁ…並行世界… 」
「 そこは首都がソウルで、李舜臣公の銅像が光化門にある。国号は大韓民国だ。」
「 …つまり、陛下は並行世界に行ってこられて、首都はソウルで、その国の名前は大韓民国だと······ 」
全く信じずに問い返してくる様子がデジャヴかと思うほどテウルと同じで、ゴンはヨンの言葉を遮った。
「 お前の地球は丸いのか!?平らなのか!? 」
どうして時々時間が止まるのだろうか…
世界を行き来するゴンにだけ現れる副作用であれば、この副作用が現れる条件は何だろうか…
どのような条件が満たされれば時間が止まるのか…
ゴンはしばらく目を閉じた。
時間は流れ続けていた。
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いつの間にか11月だった。
夕方から降り出した雨は、おそらく今年最後の秋雨になる可能性が高かった。
書斎の窓を一生懸命叩く雨音を聞きながら、ゴンは注意深く書類に目を通した。
書類を持ち込んだモ秘書が説明した。
「 国会議員歳費引き上げ案が否決されました。総理が勝ちましたね。」
ソリョンが見守ってほしいと言っていた事案だった。
対立派が手強いはずなのに、ついにやり遂げたようだった。
しかしノ尚宮もモ秘書もソリョンの味方ではなかったはずだが…なぜか総理の勝利を喜んでいるように見えた。
ゴンは書類にサインをしながらいぶかしげに尋ねた。
「 ご機嫌ですね。」
「 ええ、陛下。ク総理が連任されれば、陛下にちょっかいを出す暇が無くなりますから。」
モ秘書の率直な発言にゴンが小さく笑い出した。
「 私がク総理に口説き落とされるとでも? 」
「 正直、とても綺麗じゃないですか。」
「 心配は無用です。もっと綺麗な人を知っていますから。」
「 陛下が、ですか…? 」
驚いたのはモ秘書だけではなかった。
側を守っていたヨンでさえ、目を大きく開けてゴンを見つめていた。
そんなヨンに向かって笑って見せようとした…その時だった。
突然、窓の外に雷が落ちた。
窓が割れそうなほど鋭い雷鳴とともに稲妻が走ったその瞬間、ゴンは肩を掴んで崩れ落ちた。
肩の裏側に新しくできた傷が、熱を放っていた。
「 どうなさったのですか陛下!どこか痛むのですか!? 」
モ秘書が狼狽えながら聞いた。
ゴンは苦痛に辛うじて耐えながら、落ち着いて答えた。
「 肩が… ヨンにだけ見てもらうので心配いらない。ノ尚宮にも報告しなくていい。ヨンがいるから。」
「 あ…はい、陛下。」
戸惑いながらもモ秘書はそう答え、急いで書斎を出た。
ヨンは呆れて目を細めながらゴンに近づいてきた。
その時、またも稲妻が走った。
一瞬見えたゴンの肩の上に、焼けつくような烙印が光った。
「 …!!これは何なのですか、陛下!いつからですか…!?」
ゴンは下唇を噛んだ。
これも並行世界を行き来する副作用の一つであるはずだ。
恐らく、あの時に出来たのだ。
「 最近だ…はぁ、何なんだ…ああっ…!! 」
「 少しの間だけ我慢してください、御医を呼んで参ります!! 」
苦しがるゴンをまともに見ることもできず、ヨンは書斎を飛び出した。
その隙にゴンは机の引き出しを急いで開けた。
引き出しの中にそのまま入れてあったのは、大韓民国から持ってきたコインだった。
大して役に立たないかもしれないが、無いよりはマシだと思った。
ゴンは急いでシャツのボタンをかけ、まだ熱の引かない肩を覆った。
そして鞭を掴むと、そのまま窓を越えた。
ザキング 永遠の君主
10.「待つという恋しさ」