
ザキング 永遠の君主 28.「大韓帝国の皇后」
テウルとシンジェはまだイ・リムの正体を知らなかったが、リムはすでに二人を知っていた。
そのためテウルとシンジェの捜査よりもリムの動きの方が一足早かった。
リムの側近ジョヨルがシンジェに接触してきた。
ジョヨルと乱闘を繰り広げたシンジェは血まみれで戻り、シンジェの手には2G携帯だけが残っていた。
持っていれば連絡が来ると、そうジョヨルは言っていた。
今までに使った手口もこうだったのだろう。
テウルは科学捜査チームに2G携帯の指紋鑑識を任せて家に帰るところだった。
ゴンと初めて会った光化門交差点は、通るたびにゴンを思い出させた。
テウルが思った以上にゴンは遅れていた。
もう来るんじゃないか、明日こそは来るんじゃないか、期待しては落胆する…その繰り返しだった。
早くゴンに会って問い詰めたかったが、その機会すら与えられなかった。
恨むわけにもいかない。
チャン・ヨンジの死とシンジェに近づいたイ・リムの手下…
大韓民国でもこうして毎日のようにリムの企みによる事件が起きているのだから、帝国でもきっと様々なことが起きているに違いない。
とぼとぼ歩いていたテウルの視界を、見覚えのある横顔が通り過ぎた。
「 …すみません!ちょっと待ってください!! 」
テウルは急いでその女性を呼び止めた。
髪をひとつにまとめ、ジーンズを履いたカジュアルな服装…
あまりにも違う雰囲気だった。
しかし、確かに同じ顔だった。
振り返った女性の顔は、大韓帝国首相ク・ソリョンと同じであった。
「 …何ですか? 」
「 あ…失礼ですが、身分証の提示をお願いします。警察です。」
テウルの要求に対し、ソリョンの顔をした女性は少し不審そうに眉をひそめた。
「 普通は警察の方が先に身分証を提示しませんか?…なんだか犯罪者みたいですけど…警察じゃなくて。」
コートの内側から覗くテウルの服は、一面シンジェの血で汚れていた。
血だらけのシャツに女性の視線が止まっていることに気づいたテウルは、すぐに身分証を出して自分の所属を明らかにした。
女性は注意深く身分証を見て頷いた。
そして慌てて財布から自分の身分証を取り出した。
「 すみません、こんなこと初めてで… 」
“ ク・ウナ ”
身分証に書かれたその女性の名前だった。
「 生年月日を伺っても…? 」
「 82年7月26日です。…私に何か問題が? 」
「 …いえ、何も。確認できましたので結構です。ご協力ありがとうございます。」
「 突然だったからビックリしちゃった。 お疲れ様です。」
テウルはぼんやりと、去っていく女性の後ろ姿を見つめた。
単にソリョンと同じ顔をしただけの別人だろうか。
ヨンとウンソプのように、ナリとスンアのように、ソリョンにも同じ顔をした別の存在が大韓民国にいて当然だった。
それでも、テウルはなかなか目が離せなかった。
別人のはずなのに…同じ人のようで。
「 …もしもし、父さん?」
本能的にソリョンの後を追っていたテウルの心を呼び戻したのは、父親であるチョン館長からの電話だった。
「 うん、今向かってる。スーパーでね。」
テウルは父の問いに答え、家の方向へきびすを返した。
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家の近くのスーパーでテウルとチョン館長はよく買い物をした。
チョン館長がカートを押し、テウルはスーパーで配られた特売チラシを見ながら几帳面に品物を選び入れた。
「 次はミネラルウォーター… 」
テウルの言葉に、チョン館長は近くにあったミネラルウォーターを持ってカートに入れた。
カートの中はすでに品物でいっぱいだった。
テウルはチョン館長を睨みつけた。
「 おまけが付いてる方を買ってよ! 」
おまけとして小さなペットボトルがいくつか付いたミネラルウォーターを再びカートに入れてから、テウルは尋ねた。
「 サムギョプサル(※)は受け取とった? 」
テウルの剣幕に口を尖らせていたチョン館長の表情が一瞬にして明るくなった。
「 サムギョプサルを買ったのか!? お〜太っ腹だな! 」
チョン館長は嬉しそうにウキウキとカートを押して、テウルが予め注文しておいたサムギョプサルを受け取るために精肉コーナーへ向かった。
「 サムギョプサルの包装できてますか? 」
「 …あれ、さっきお渡ししましたよね?」
チョン館長の質問に店員が慌ててテウルを見た。
テウルは首を振った。
「 私に…? もらってませんけど。私たち今あっちから来たばかりですよ?父さんが受け取ったんじゃないの?」
「 何言ってんだ、もらってないぞ。俺はもらう時は何でも堂々ともらうタイプだ。なんだ、お前が受け取ったんだろ?さっきここを通ったじゃないか。 」
「 え、通ったっけ…?も〜父さんが騒ぎながらグルグル周ってたから訳分かんなくなったでしょ!もういい。行くよ、早く!…すみませんでした。 」
時々こうして一緒に買い物に来ては慌しく言い合いになる二人だった。
チラシに載っていた商品とほかの商品を比較しながら選ぶのに集中し過ぎていた気がして、テウルはチョン館長と一緒に精肉コーナーを離れた。
店員はそんな二人の背中を見送った。
他の客の肉を切るために手袋をはめていた別の店員が、再びテウルの後ろ姿を見つめた。
確かにテウルのような外見の女性が肉を受け取っていった。
「 さっきの服だったかな… 」
髪も短かったような気がした。
店員は首を傾げた。
※サムギョプサル…スライスした焼肉用の豚のバラ肉。「サム」は数字の3、「ギョプ」は層、「サル」は肉を表し、日本でいう三枚肉=ばら肉を意味する。
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チック…チック…チック…
静寂に包まれた静かな執務室の中、ゴンは壁にかかった時計をじっと見つめていた。
···572470936995749696762772407630354759457138217!
3.481秒。
ゴンは止まった時間を数えていた。
3.481秒だった。
最初に時間が止まった時は数を数えることが出来ず、2度目は121秒、次は841秒、次は961秒、そしてその次は2,209秒だった。
ジョンインの指輪が宙に浮いたまま止まっていた時が2.809秒。
そして今、またしても時間は止まった。
3.481秒間…あまりにも長かった。
ゴンは急いでチョークを掴むと、素数の平方根を暗算しながら夢中で黒板に書き留めていった。
頭の計算に手がついて行けないほどの速さだった。
数字を繋げれば繋げれるほど、ゴンの顔は青ざめていった。
信じたくなかった。
ゴンが黒板に85.849まで書き込んだとき…
チョークの先が潰れ、数字を書いていたゴンの手が黒板の上を滑り落ちた。
止まる時間は素数の平方根で増えていた。
この速度なら、62回目で一日が止まることになる。
つまり……
テウルとゴンの世界は、いずれ永遠に止まる瞬間を迎える。
ダメだ…やめてくれ!
大声でそう叫びたかった。
目の前の黒板には、絶望的で孤独な数字だけが果てしなく広がっていた。
状況は悪化の一途を辿っている。
ゴンは拳を握ったまま黒板に寄りかかった。
テウル…気が狂いそうなほど会いたかった。
泣いてはいないかと心配だった。
時間が永遠に止まるかもしれないという悟りは、ゴンの心をへし折った。
押し寄せる目眩に目を閉じ、ゴンが低く呻いたその時、
ノックの音とともにホピルが入ってきた。
「 陛下!オス書店を見つけました。 この男が店主です。」
ホピルが差し出した封筒を受け取ったゴンは、素早く封を開けた。
中の写真に写っていた男は…リムの右腕ユ・ギョンムだった。
謀反の夜、リムを守り銃に撃たれたギョンムの姿を思い出した。
「 ……生きていたのか。まさかこいつが、生きていたとは… 」
猶予などなかった。
血に染まった床の上にゴンを立たせた者たち。
それはゴンが愛した肉親と、忠義の名の元に散った近衛隊の血であった。
「 今夜、逆賊残党の根拠地であるオス書店を討つ… 」
先頭に立つゴンの影は鮮明だった。
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近隣住民を避難させ、書店の路地に入る通路を塞いだ。
書店近くの建物の屋上には、万が一の状況に備え狙撃手が配置された。
警察とともに書店周辺を整理した近衛隊を率いて、ホピルはゴンの前に現れた。
「 周辺の整理は終わりました。生け捕りに…? 」
ゴンはこれまでにない冷たい怒りで震えていた。
古く寂れた書店の看板を無情な目で見つめていたゴンは、ついに命じた。
「 殺せ 」
耳をつん裂く大きな銃声とともに、窓ガラスが砕け散った。
粉々になったガラスの破片は書店内に飛び散り、本屋を守っていたギョンムは驚いて飛び起きた。
銃を構えた近衛隊がギョンムに近づいていた。
欲に目が眩んだギョンムは、その瞬間にもレジの上に積まれていた札束を掻き集めるのに必死だった。
書店の裏口からは黒ずくめの殺手隊が次々と飛び出した。
殺手隊に向けて激しい銃撃が加えられた。
ダン!ダン!ダン!
殺手隊と近衛隊が衝突した。
海雲台と同じ状況のように見えたが、今回は違った。
守らなければならない帝国民のいない近衛隊の銃口には、躊躇いが無かった。
他の殺手隊も逃げ惑うように外に出てきた。
書店の外でも銃声が鳴り響いた。
狭く入り組んだ町角で、殺手隊は窮地に陥った。
反対側から飛び出した殺手隊まで、外に待機していた近衛隊によって一人ずつ制圧されていった。
呻き声と血の滴が飛び交った。
ドンッ!!!
窓の外から飛んできた1発の弾丸が、札束を抱えて逃げようとしたギョンムの心臓を貫いた。
ゴンの顔が描かれた大量の紙幣が宙を舞って床に散らばった。
息絶える寸前のギョンムの手は、その瞬間も手探りで紙幣を掴んでいた。
その欲は凄まじいものだった。
「 これだ…から…人の心は読めな…い… 」
息を切らしながらも、最後まで怒りに満ちた言葉を吐き出していたギョンムは…目を開けたまま動かなくなった。
隠れていた殺手隊まですべて処理したホピルと近衛隊が書店の中に突入した。
ゴンも近衛隊の援護を受けながら書店の中に入っていった。
床に倒れたギョンムの姿がゴンの視界に入った。
「 左肩に銃創がないか確認せよ。」
ホピルは素早くギョンムの服をめくり肩を確認した。
何の傷もないきれいな肩だった。
ゴンが探そうとした大韓帝国のユ・ギョンムではなかった。
彼は大韓民国から来たユ・ジョヨルだった。
イ・リムは大韓帝国のギョンムと大韓民国のジョヨルを入れ替えた。
ゴンは沸き立つ怒りを飲み込み、めちゃくちゃになった書店の中を一周した。
近衛隊は死んだ殺手隊の指紋を取り、店内をくまなく調べて証拠を探していた。
この記号は一体何だ……
時間がもう一度止まり、イ・リムは大韓民国から再び大韓帝国へ…そして右腕であるギョンムを予め入れ替えた。
ゴンより一歩早かった。
そして今頃になり、リムには脅威にもならないはずのジョンインを殺した。
それは愛する者の死でゴンを絶望の底に陥れ、崩壊させるためだったはず…
………!!!
警察署で見たルナのマグショットまで思い出したところで、ゴンの顔から血の気が引いた。
テウルだ…
イ・リムの次の標的は…
「 ソク副隊長…今すぐここを撤収し、禁軍召集命令を下す。 近衛歩兵隊と近衛騎兵隊は全員武装し待機せよ…! 」
暮れ行く夕日の中で自分を見つめながら明るく笑ったテウルの顔が、ゴンの目の前をかすめた。
心臓が止まる思いだった…
想像しただけで息が詰まった。
ゴンは、声も届かぬテウルへ心から祈った。
チョン・テウル、
少しだけ、もう少しだけ耐えてくれ…
今行く…必ず君を見つけ出す…
どうか無事でいてくれ…
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
じっとりと湿った暗い空間。
骨まで染み込むような床の冷たさと、鼻を突く塩辛い臭い…
かろうじてまぶたを持ち上げたが、朦朧とした意識の中で視界に映るのは闇だけだった。
手は後ろで縛られ、口はテープで塞がれていた。
テウルは朝のことを思い出した。
道場で明け方に運動をし、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを飲んだ時だった。
スーパーでおまけにもらったミネラルウォーターだった…
急に視界がぼやけ、立ちくらみしたテウルはその場に倒れた。
そこから記憶がプツリと途絶えていた。
ゆっくりとまばたきをしたテウルは再び辺りを見渡した。
目が暗闇に適応すると、壁際にうず高く積もった塩の袋が見えた。
塩田倉庫のようなところだろうか…
テウルはやっとの思いで体を動かした。
かすかな光が漏れるところへ向かうと、誰かが外で倉庫の前を見張っているのが見えた。
ドラム缶に焚かれた火元に集まり、タバコを吸いながらゲラゲラと笑っている黒ずくめの男が8人…
そのうちの一人の腰に、車のキーがぶら下がっているのが目に入った。
テウルは朦朧としながらも、日に焼けて浅黒いその男の顔を確認した。
薬が体に残っているのか、全く力が入らなかった。
今は何もできることがなく、テウルは気を失わないよう必死だった。
その時、ふと顔を上げたテウルの目に一人の少年の姿が映った。
少年はじっとテウルを見つめていた。
こんな倉庫に子供などいるはずがないのに…
そう考えた時だった。
タバコを吸っていた男の一人がテウルに近づいてきた。
グサッ…
男は躊躇なくテウルの首筋に注射針を突き刺した。
「 次の指示があるまでずっと寝てろ。殺しはしない…起きた時にちょっと頭が痛むだけだ。」
男の声がどんどん遠ざかっていった。
テウルは再び倒れ込み、そのまま意識を失った。
目覚めたのは次の日だった。
テウルは顔をしかめながら目を開けた。
ピリピリとした痛みを感じたのも束の間、一気に口の中に空気が流れ込んできた。
…!?
テウルの口を塞いでいたテープを剥がしたのは、昨日見間違えたと思った少年だった。
少年は黒いウサギのフードが付いたパーカーを着ていた。
混乱した頭を必死に整理しながら、テウルは辿々しく言葉を繋げた。
「 子供が…なんでこんなところに…早く逃げて… 」
「 僕は危険を知らせ、敵兵を退ける。」
「 ……え?」
テウルは朦朧とする頭を振った。
以前、身分証を落とした時に会った少年だということに気づいた。
そんな状況ではなかったが、テウルは少年がここにいる事が不思議と嬉しかった。
少年が持つ独特で神秘的な雰囲気のせいかもしれない。
少年はルナが渡したジャックナイフでテウルの手を縛っていた縄を解いた。
テウルは呆然と少年の手つきを見ていた。
少年が一体どうやって監視を避けてここまで来れたのか…
どうして自分を救っているのか…
どういう状況なのか…
全く分からなかった。
早く動かすべき頭の中は、依然としてぼやけていた。
縄をすべて解いた少年は、テウルに持っていたジャックナイフを手渡した。
「 これで均衡を…敵が多すぎるから。」
思わずジャックナイフを受け取ったテウルは、震える目で少年に向かって尋ねた。
「 あんた…誰なの…? 」
少年は答える代わりにテウルを見つめていた。
その時、突然扉が開き倉庫が明るくなった。
「 女が目を覚ましたぞ! 」
テウルが起きているのに気付いた男は叫んだ。
跳ね起きたテウルは咄嗟に少年を自分の背後に隠した。
「 早く逃げて…!」
「 捕まえろ!逃すな!!! 」
同時に男たちがテウルに向かって襲いかかってきた。
そのうちの先頭に立った男の手には銃が握られていた。
テウルは本能的に体を動かし、男の足に自分の足を掛けた。
突然のテウルの攻撃に男は倒れた。
テウルは素早くその男の太ももを握っていたジャックナイフで刺し、銃を奪うと迫りくる男たちに向かって照準を合わせた。
「 ウッ…!!」
男たちは呻き声とともに次々と倒れた。
テウルは昨日顔を覚えた男の体から急いで車のキーを抜き取った。
ハッとして振り返ると、少年の姿はもうそこにはなかった。
テウルは全力で走った。
バンッ!!
大きな倉庫の扉を開けて外に飛び出すと、強烈な日差しに目が眩んだ。
一瞬たじろいだテウルだったが、気を取り直して辺りを見渡した。
目の前には見渡す限りの塩田が広がり、水面には反射した光が揺れていた。
道沿いに車が2台止まっているのを見つけたテウルは車のキーを押し、明かりの点った車を確認した。
後ろから男たちが大声を出して走ってくるのが見えた。
全身が冷や汗に濡れていた。
歯を食いしばったまま、テウルは車の運転席に飛び込みエンジンを回した。
男たちの乗った車がピタリと後ろに付き、テウルの車を狙っていた。
テウルは力の限りにアクセルを踏み込んだ。
高速道路へ入り、テウルは携帯電話を探して必死にポケットをあさった。
しかし何もなかった。
「 はぁ…携帯がない…ソウルに行くには……!? 」
ルームミラー越しに迫りくる車を見ながら、標識を確認したテウルは驚愕した。
「 どういうこと…釜山本宮?ここは大韓帝国なの…!? 」
拉致されてやって来たここは…
紛れもない大韓帝国だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
バチバチッ…!
溶接をする指先から火花が散った。
海に面して建てられた造船所では、溶鉱炉の火が燃え盛る中、夜遅くまで作業員たちが忙しく動いていた。
その間をリムとギョンムは歩いていた。
「 書店が襲撃され、徒党たちが…皆殺しにされました。 」
恐る恐る報告しながらギョンムが頭を下げた。
平然と歩いていたリムは足を止め、意外だという目でギョンムを眺めた。
「 聖君だと思いきや…血も涙もない暴君だったのか…甥っ子様は。」
そこへ黒い服を着た男が足を引きずりながら現れ、リムとギョンムの前に膝をついた。
血まみれのその男は、塩田倉庫を守っていた殺手隊の一人だった。
リムの眉間が歪んだ。
「 女を…逃しました。申し訳ありません!残りの数人で今追っているところなのですぐに………ッ!!!
男の言葉が終わるのを待たず、怒りに耐えきれなかったリムは持っていた長傘から剣を抜いて容赦なく男を斬り捨てた。
男の血がリムの顔に飛び散った。
忙しく働いていた作業員たちは一斉に手を止めて倒れた男を見た。
「 本宮に向かっているはずだ…捕らえろ!イ・ゴンはあの女の死体でも救おうとするだろう。 殺してでも連れて来い…あの女と引き換えに取り戻すものがあるんだッ!!! 」
血に染まったイ・リムの狂気の叫びが造船所に響き渡った。
リムの声に、作業員たちはすぐに頭を下げた。
「 「 はい!クム親王殿下…!! 」」
大きな叫びとともに手下たちは走り去った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
どれくらい走ってきただろうか。
テウルはハンドルから手を離し、疲れた体をシートに沈めた。
薬を打たれた体はぼろぼろだった。
何のために、なぜ追われているのかも分からないまま時間だけが過ぎた。
かろうじて追手との距離をあけたが、男たちの乗った車がいつ追いついてくるか分からなかった。
しかし、これ以上車で逃げる事もできなかった。
ガソリンが切れ、エンジンは止まってしまっていた。
テウルは絶望した。
刑事として暮らし、これまで多くの危機的状況を乗り越えて来たテウルだったが、今日こそは死が目前まで迫っている気がした。
「 ……ハァ… 」
少しも休む暇がなかった。
深くため息をついたテウルは、持っていた銃の弾倉を確認した。
3発…残っていた。
テウルは銃を握りしめ、車から降りた。
人通りの少ない道路沿いだった。
街の明かりが遠くに揺れているのが見えた。
釜山都心は遠いようで近かった。
その時、
呆然と立ち尽くしたまま都心を眺めていたテウルの背中が、眩ゆいヘッドライトに照らされた。
テウルは震える目で後ろを振り返った。
男たちの乗った車が、テウルに向かって猛スピードで迫って来ているのが見えた。
もう一度ため息をついたテウルは下唇を噛んだ。
しっかりしなければ…
呼吸を整えたテウルは、向かってくる車のタイヤに照準を合わせ引き金を引いた。
ダンッ…!!
飛んでいった銃弾は正確に車の前輪を捕らえ、静かな道路脇で巨大な爆発音が上がった。
男たちの乗った車は横転し、ガードレールをくぐって田畑に転げ落ちていった。
テウルは街の明かりに向かって無我夢中で走り出した。
汗まみれの髪は乱れ、唇は無様に裂けていた。
次第に足の力が抜けていくのを感じた。
依然として人影一つない道路の上だった。
あと少しで着きそうに見えて、まるでどんどん遠ざかっているかのようだった。
気が遠くなるたびに、テウルは生きたくなった。
ゴンに会わなければ…
その時、道路沿いの公衆電話が目に入った。
テウルは藁にもすがる思いでその公衆電話ボックスの中に飛び込んだ。
荒く受話器を取り、緊急ボタンを押しかけたときだった…
電話の上に貼られたポスターが目に留まった。
『 2020 新年を迎える皇帝陛下にご挨拶を 』
皇室の紋章が刻まれたポスターには、音声メッセージを残せる電話番号が書かれていた。
テウルは泣きそうになる気持ちをなんとか堪えながら、ポスターに書かれた番号を押した。
ー 発信音のあと、皇帝陛下へ一分間の新年のご挨拶をどうぞ。
ピー、と鳴る機械音がテウルの心臓の鼓動ををさらに激しくさせた。
「 イ・ゴン……… 」
名前を呼ぶだけで、耐えられない程の不安とあまりにも大きな安堵が同時に訪れ、テウルはそのまま崩れてしまいそうだった。
しかし、テウルは涙ぐみながらメッセージを録音し始めた。
このまま崩れるわけにはいかなかった。
「 私………チョン・テウル。 信じられないと思うけど、私今…大韓帝国にいるの。誰かに追われてて…宮に向かってる……急いで行くから…必ずそっちに行くからっ………!
ピーーーーー
ー 録音が完了しました。 ご利用ありがとうございます。
切れた電話の機械音だけが耳元で繰り返された。
テウルは受話器を強く握りしめた。
「 これを聞いたら…私を捜して…… 」
耐えていた涙が一筋、頬を流れ落ちた。
と同時に、静まり返っていた道路に地響きとともに怪音が響いた。
テウルは後ろを振り向いた。
大きなトラックが、公衆電話に向かって突進してきていた。
テウルはボックスの外に飛び出した。
テウルの身体が飛ぶのと同時に、トラックは公衆電話に激突した。
わずかな差で逃げたテウルの上に、けたたましい音とともにガラスの破片が降り注いだ。
吹き飛んだ鋭いガラスと電話ボックスの破片は容赦なくテウルの体を傷つけた。
あちこち引き裂かれ傷だらけのテウルは、そのまま地面に倒れ込んだ。
トラックから降りてきた男が倒れているテウルに手を掛けた瞬間、テウルは最後の力を振り絞って男に一撃を与えた。
しかし、遠くから地響きとともに男たちの黒い集団がどっと押し寄せてきていた。
イ・リムが放った殺手隊だった。
テウルに残されたのは2発の銃弾だけだった。
殺手隊は数十人…
震える手で銃を構えたテウルは、殺手隊に狙いを定めた。
なんとか持ちこたえたかった。
どうか…どうかお願い……
死神に手を差し出されているようだった。
これで終わるのか…
テウルが最後を予感したその瞬間、突然テウルの頭上が明るくなった。
ヘリが照らした照明だった。
テウルは呆然としたまま、遠くから蹄の音と共に走ってくる数十もの騎馬隊を見つめた。
その先頭に…
マキシムスに乗ったゴンがいた。
ぼろぼろの状態で立っているテウルを見つけたゴンは激しい怒りに駆られた。
心臓が止まりそうだった。
「 守れ!!大韓帝国の皇后になる方だ…!!!! 」
冷厳なゴンの声が響くと同時に騎馬隊は殺手隊に突撃した。
テウルの前を壁のように塞いでいた殺手隊の隊列が崩れた。
騎馬隊は、武器しか持たない殺手隊が相手に出来る兵力ではなかった。
馬の蹄で殺手隊の骨は折れ、肉はちぎれた。
騎馬隊の剣に斬られた殺手隊の体からは血が溢れた。
手に持った四寅剣で逆賊の残党を切り倒すゴンの顔は、濃い血に染まっていた。
イ・リムの次の目標がテウルであることを知った瞬間から、ゴンは休まずテウルを探し回った。
ゴンは国家安全情報局の協力を得て、大韓帝国全域の防犯カメラの映像を追跡した。
しかし、テウルの鮮明な写真は一枚もなかった。
以前録画された防犯カメラ映像に映っていたテウルの顔だけが唯一の手がかりだった。
しかし追跡範囲を特定することもできず、時間がかかりそうだった。
もどかしさに焦るゴンを救ったのは、病院にいたウンソプからの電話だった。
ルナの足取りが不可解だと、カン刑事から連絡が来たという。
ルナを追っていたカン刑事は、テウルをルナと勘違いしていた。
カン刑事が送ってきた防犯カメラの映像には、高速道路の路肩の様子が映っていた。
夜明けの暗闇の中を死に物狂いで走るテウル…
路地の隅にうずくまって息を整えながら目を閉じるテウル…
そして再び走りだすテウル…
そうして宮殿方面へ向かうテウルを見つけることができた。
間一髪だった。
あと少しでも遅れていたら…
想像するだけで背筋が凍った。
永遠にテウルに会えないかもしれないという仮説がゴンを冷血にした。
馬を降りたゴンの四寅剣が、テウルの方へ逃げていく殺手隊の背を次々と斬り捨てていった。
そしてついに…
ゴンはテウルの前に立っていた。
自分の元へどんどん近づいてくるゴンを見て、テウルはようやく堪えてきた涙を流した。
流れ落ちる大粒の涙は、壮絶で悲しいものだった。
ゴンだった。
他の誰でもないゴンが…
自分へ向かってきていた。
テウルは、生きていた。
ザキング 永遠の君主
28.「大韓帝国の皇后」