
ザキング 永遠の君主 14.「名前を呼ぶ」
翌日、分刻みに詰め込まれたゴンの公務日程に合わせてテウルもついて来ることになった。
近衛隊に紛れたテウルは、制服姿がとてもよく似合っていた。
早朝から始まったマスコミ各社のCEO茶会とプロバスケットボール開幕戦の始球式に続き、ゴンは世界数学者大会での演説まで終えた。
そしてその後も災害復旧物品の伝達式へ参加する為、ヘリで移動する予定だった。
この辺りでゴンはテウルを解放するつもりでいた。
日程に同行させたのは、宮殿の中にだけ閉じこめられているのは気の毒だったからだ。
昨日のノ尚宮の様子から見て、テウルをゲストルームから一歩も出す気がないのは分かっていた。
ゴンはヨンを通してテウルがしばらくの間外出できるように措置を取っておいた。
ヘリに乗り、ゴンは空の上から景色を見下ろした。
宮殿のある冬栢島(トンべクソム)が一望できた。
テウルも大韓民国とは異なる大韓帝国の釜山を見物することになるはずだった。
窓の外を眺めながら、ゴンは何気なく携帯電話を取り出した。
アプリを起動すると、昨夜テウルがあれこれ検索した履歴が残っていた。
何が気になったのだろうか…
検索履歴を指で追いながら、ゴンはテウルの考えをのぞき見た。
「イ・ゴン 」
「イ・ゴン各種武術 」
「 皇后 」
「 イ・ゴン 元カノ 」
結局、ゴンの口から出たのは笑いだった。
向かい側に座り、スケジュールをチェックしていたモ秘書がゴンの笑い声に驚いて顔を上げた。
ゴンは真剣な表情で検索履歴を漫然と眺めた。
そしてその次に現れた検索語は、ゴンの顔を強張らせるのに十分な威力を持っていた。
「 ク・ソリョン 」
元カノからの関連検索語で表示されたのだろう。
厄介な煩わしさを避けるためにソリョンの策略に乗ったあの日のことが思い出され、少し心配になった。
もしやテウルが誤解してしまったのではないか…と。
ゴンはスクロールを下ろした。
「 ヤンニョムチキン 」
「 警察 公務員 月給 」
「 大韓帝国 地図 」
「 釜山からソウル KTX 」
このあたりは気になる部分が多かった。
そういえば、ゴンも大韓民国を勉強するために図書館で本を何十冊も読んでいた。
KTXが何なのか分からず首を傾げていたゴンだったが、最後に現れた検索語で動きを止めた。
「 イ・ホ皇帝 」
「 クム親王 イ・リム 」
重い単語が残っていた。
全国民が共有しているゴンの傷の話を、もうテウルも知ってしまったのだと思うと訳もなく気分が沈んだ。
上空の激しい風が、ゴンの髪を乱しながら通り過ぎていった。
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大韓帝国の高速列車はKTXではなくCTX(Corea Train eXpress)だった。
ヨンが…正確にはゴンが準備してくれた服に着替えたテウルは、直ちに釜山駅からソウル行きのCTXに乗った。
行き先は決まっていた。
鐘路(チョンノ)警察署…
大韓民国のチョン・テウル警部補が働く職場だった。
途中立ち寄った光化門広場には、本当に李舜臣の銅像がなかった。
空いた広場がぎこちなく、ソウルに来た事で改めてここが本当に別世界なのだいう事実を実感した。
鐘路警察署の建物も同様だった。
似たような位置、似たような建物だったが、出入りするパトカーの車種も、色も、行き交う警察官の制服も違った。
強力3チームの皆と同じ顔をした人たちはテウルを知らなかった。
ウンソプの顔をしたヨンが自分を全く知らなかったように…
違いは他にも一つあった。
強力3チームにシンジェの顔をした人がいなかったということ。
もしかするとこれは幸いなことなのかも知れない。
シンジェが歪み始めたのはシンジェの家が破産した中学3年生の時だった。
テウルに会ったのは高校3年生の時だったが、それ以前の話を知らないわけではなかった。
とにかく、あれほど歪んで生きていたシンジェがテコンドー道場で自分と父親に会った事で刑事の夢を見るようになったのだから、刑事になっていないのなら、それはかえって良いことに思えた。
「 家が破産してないってことか… お〜大韓帝国のカン・シンジェ!良かったじゃん。」
昔住んでいた平倉洞でずっと裕福なまま生きていることをテウルは心から願った。
高校生のシンジェがどれほど荒れていたか、テウルが一番よく分かっているからだ。
そして、今もその過去のせいでどれほど苦労しているのかも…
物思いにふけっていたテウルの足が、ソウルに来た理由である最終目的地にさしかかった。
馴染みのあるこの道は、家に入る曲がり角だった。
本来ならこの辺りにスーパーがあるはずなのに、どこにも見えなかった。
この世界に来た時から気になっていたことが一つあった。
ここが並行世界で、同じ顔をした違う人間が生きているなら、もしかして母も生きているのではないか…
生きているなら一度は顔を見たかった。
テウルは路地を曲がった。
テコンドー道場があるべき場所には漢方医院があった。
門も建物も違っていて、マキシムスが休んでいた庭もなかった。
いつしか日は暮れていたが、テウルは未練を捨てきれずにインターホンを鳴らした。
ドアを開けて出てきたのは見ず知らずのおばさんだった。
「 チョン…誰だって?」
「 チョン・ドイルというテコンドー道場の館長です。 ご存知ないですか…? 」
「 そんな人知らないわよ。」
「 それじゃ…もしかして、アン・ボンヒという人は?女性なんですがご存知ないですか?私にそっくりなんですけど。見たことはありませんか…?」
「 アン・ボンヒ…?知らないね。私はここに30年住んでるのよ。その人達がここに住んでると聞いて来たの?」
むしろ聞き返されてしまい、テウルは小さく首を横に振った。
「もしかして」という気持ちで来たが、「やっぱり」だった。
確かにここで父や母に会ったとしても無意味だったろう。
顔が同じなだけの別人なのだから。
恋しさに飲まれて考えが浅はかだった。
ふと…
顔を見るや否や、いきなり自分を抱きしめてきたあの夜のゴンを思い出した。
「 ……違います。 すみません、ありがとうございました。」
テウルは力なく挨拶してから再び路地を歩き出した。
そしてソウル駅だった。
思ったより時間が遅くなった為に急いでタクシーに乗り到着したソウル駅で、テウルは困難に直面していた。
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釜山行きCTXの運賃は41,800ウォン、
最も安い立席も34,800ウォンだが、テウルの全財産は32,200ウォンだけだった。
焦ってお金のことを考えずタクシーに乗ったせいだった。
こんなことになるならもっとヨンからお金を借りてくればよかった…
テウルは思いもよらない難関に、切符売り場の周辺をきょろきょろ見回してから公衆電話の前に向かった。
公衆電話がまだ設置されていたのが不幸中のいだった。
テウルは切符売り場の職員に聞いた番号に電話をかけた。
皇室代表番号だった。
繋がる自信はなかったが、他に方法があるわけでもなかった。
「 本当にいたずら電話じゃないんですって!私は本当にイ・ゴ···じゃなくて皇帝…皇帝陛下と知り合いで…!!」
相手がいたずら電話扱いで切るのがもう何度目かだった。
小銭がどんどん消えていく。
それでもテウルは粘り強く電話を掛け続けた。
「 ふざけてなんていません!1分だけ…1分ですぐ済みますから…! 」
今度も失敗。
「 私、今2,600ウォン足りなくて釜山に戻れないんです… 」
またも失敗。
「 10秒、10秒だけでも…!!!」
ガチャリ…!ツーツー…
切られた電子音が無情だった。
ゴンは家であれ警察署であれ、自分の前にいつでも訪ねて来たのに、テウルはゴンを探すのがこんなにも難しい。
この世界でのゴンがあまりにもすごい人物なのが問題だ。
だんだん空いていく待合室を見ながら、ため息がひとりでに溢れた。
仕方なくテウルは歩き出した。
どこかで夜を明かし、明日の朝改めて始発に乗ろうと考えた。
夜行バスはCTXより高いはずだから。
しかし、この所持金では夜を明かすこともままならなかった。
容疑者を張り込む時でさえ車の中だというのに、まさか道端で野宿することになるかもしれないなんて…
呆然としたテウルはあてもなくただ歩き続けた。
見慣れた風景をいくら通り過ぎても、ここには知り合いが一人もいなかった。
ビル街でもとりわけ高くて大きなビルの前を通りかかった時だった。
どこからか鼓膜に響く風音が響き渡った。
テウルは驚いて空を見上げた。
頭上にはヘリコプターが飛んでいた。
テウルが頭をまっすぐ前に戻すと、いつの間にか真横にヨンが立っていた。
「 びっ…!くりしたぁ!!な、なんでここにいるの?? 」
「 陛下のご命令を受けました。打ち首にするまで生かしておくように、と。」
そう言いながら、ヨンはビルの入り口に向かって歩きだした。
テウルはまさかと思いながら慌ててヨンを追いかけた。
エレベーター前でヨンは冷たく尋ねた。
「 本当に何者ですか?本当に刑事ですか? さっきはなぜ警察署に…? 」
「 …私のこと尾行してたの? 」
ヨンは答えなかったが、それがテウルには答えになった。
ゴンが自分の客を一人で外に出すはずはなかった。
テウルが自由に出歩くことを望んだので絶対に見つかってはならないとゴンは強調し、ヨンは任務に忠実だった。
テウルが釜山に帰れない状況にさえなっていなかったら、最後まで自分が後をつけていたことを隠すことができたはずだ。
ため息を飲み込みながら、ヨンはビルの屋上へテウルを連れて行った。
扉を開けた途端、目が眩むほどの光とともに強い風が吹きつけた。
ヘリコプターのプロペラは大きな音を立てて回り続けていた。
テウルは屋上のヘリポートに着陸していたヘリを呆然と見つめた。
ヘリの前にコートの襟をなびかせながら立っていた長身のゴンが、今日に限ってはさらに大きく見えた。
テウルは下唇を噛んだ。
嬉しさで思わずゴンの名前を叫ぶところだった。
手でも振るところだった。
街をさまよっていた時間も忘れたかのようだった。
ゴンが足早にテウルの元へ歩み寄ってきた。
近くでテウルを確認し、心配する様子がありありと見えていたゴンの目にも安心の色が浮かんだ。
「 私を探してたと…? 」
「 うん… 」
「 17回も? 」
「 うん… 」
気まずそうに答えるテウルに、ゴンは安堵のため息をついてから微笑んだ。
どれだけ必死に電話をしたのか。
保安チームから報告を受けていなかったら、気づかずに通り過ぎるところだった。
ヨンを付けておきながら、ゴンはテウルが自分を探しているという話を聞くや否やすぐにヘリを戻してソウルに向かった。
そうしてよかったとゴンは思った。
少しでも早く顔を見れてよかった。
「 釜山を見て回ると思ったのに、なぜこんな遠くまで来たんだ。アン・ボンヒさんは見つかったのか? 」
どうしてそれを…!?と聞き返そうとしたテウルは、すぐに横に立っているヨンをキッと睨んだ。
「 一体どこから付きまとってたわけ?だったらもう少しお金を貸してよ… 」
「 誰なんだ?君がこの世界に来てまで探している人は… 」
「 ………母さん。 」
テウルの声の先が少し震えた。
「 ここは並行世界で…ナリもいるし、ウンソプもいる。私はいなくても母さんは生きてるかも知れないと思って。もちろん別人なのは分かってるけど、ここでは病気にならずに生きてて欲しいし、私には母さんの記憶は5歳までしかないから······ただ遠くからでもちょっと見れたらいいなって。…それで来てみたの。」
「 話してくれたら… 」
「 ただ気になっただけ。でも居なかったから…もういいの。」
親の不在が与える悲しみをゴンほどよく理解できる人がいるだろうか。
ゴンはやるせない気持ちになった。
本当のことは理解できないとしても、テウルの悲しみはゴンの悲しみでもあった。
気の毒そうに見つめるゴンの眼差しに、テウルは努めて明るく答えた。
「 とにかく、今日はおかげですごく楽しかった。」
余計な気を使わせたくなかった。
今まで逞しく暮らしてきた。
別世界に来て、ただ少し気になっただけだ。
「 それでKTXと検索したのか。KTXとは何かと思ったら… 」
「 検…索? 」
テウルは再びヨンを睨んだ。
「 これはヨンじゃない。“自動保存機能”が教えてくれた。 気になることが多かったようだな。イ・ゴンの元カノが気になったのか? 私は恋愛した事がないはずだろ。」
「 な…んで、それを見たの…? 」
「 ”ク総理”も検索してたな。」
「 ク・ソリョンは…!ただ…ただ最年少の女性総理だっていうから気になって見ただけ!不思議だったから。ただ見ただけだってば…なんで?何かやましいことでも?ク・ソリョンが綺麗な服着てよく会いにくるんでしょ? 」
「 毎週金曜日に会う仲だ。」
もちろん国政報告の為だが。
ゴンの答えにテウルが言い返そうとした、その時だった。
声が聞こえないほど大きなプロペラの音と共に、一陣の風がテウルとゴンの間に割り込んだ。
テウルとゴンは同時に風の吹いてきた方向を見上げた。
ゴンの横にもう一機のヘリが降りてきていた。
なぜ二機なのか…それぞれに分かれて乗るのか?
ゴンは瞬時にヨンの方を確認した。
たった今無線で報告を受けたばかりのヨンが頷いた。
「 はい…ク総理です。 陛下のヘリが緊急着陸の許可を受けた報告が入ったはずです。」
ヨンの言う通りだった。
ソリョンは皇室ヘリがKUビルに非常着陸許可を受けたという知らせをキム秘書から受けると、即座に自分のヘリを飛ばした。
なんでもない夜に釜山からソウルに来た皇帝…何かあるだろうという直感がソリョンを動かした。
着陸したヘリのドアが開き、白いスーツに身を包んだソリョンが下りてきた。
テウルは驚いたまま、カリスマに溢れる女性を見つめた。
背の高いソリョンの髪が風と共になびいていた。
近づく足取りにはためらいがなかった。
テウルは強い風に眉をひそめながら尋ねた。
「 あの人と約束があったの? 」
「 全く。私は君を迎えに来たんだ。 2,600ウォン足りない君を… 」
「 バレたらまずいんでしょ? 」
その通りで、聞き流してもよさそうな言葉だったのに。
そのほんの些細なテウルの言葉がゴンには痛切だった。
思わずゴンは根本的な質問を投げかけた。
「 私の”誰”だとバレたらまずいんだ…?」
「 心配しないで。変な状況にはしないから!」
「 バカだな…もう十分変な状況だ。」
いつのまにか二人の前に立っていたソリョンが赤い唇を両側に引き揚げてあいさつした。
「 意外な時間に、意外な場所で、意外な方とお会いしましたね、陛下。」
「 そうですね。なので困惑しているところです。とても私的な用だったので。当然ク総理に報告が入るのに、配慮が出来ずにすみません。総理も退勤しなくてはいけないのに。」
ゴンは不快な表情を隠さなかった。
徹底して招かれざる客扱いだった。
しかし、ソリョンは針一本入り込めない程隙のない笑顔を見せた。
「 国の仕事に公私などありません。陛下が私の国なんですから。」
高慢な笑いだった。
しかし大げさに見えて、テウルにはゴンに向かうソリョンの真剣な眼差しが読めてしまった。
一緒に撮られた記事の写真の中から覗いていた微妙な目つきの正体が、分かったような気がした。
自分とは比べ物にならないほど華やかな女がゴンを好んでいた。
視線に気づいたソリョンがテウルの方へ体をひねった。
「 はじめまして。 大韓帝国総理のク・ソリョンです。」
「 はじめまして。総理のファンです。」
テウルは自分の前に差し出された手を取った。
テウルのリップサービスにソリョンが満足げに微笑んだ。
「 わくわくしますね。こんなに若くてきれいな方が私のファンだなんて…お名前は? 」
「 私は…ただの旅行者です。 このようにお目にかかれただけでも光栄です。すぐに帰る予定なので… 」
“帰る”という言葉にゴンは愕然とした。
テウルはソリョンとの対話に集中したままだった。
「 大韓帝国は初めてですが、童話の中のようですね。」
「 大韓帝国は初めてなのに、ずいぶん韓国語がお上手なんですね。 」
「 その…私、文系なんです。」
テウルの答えにゴンは吹き出した。
皇帝のそんな様子を見たのは初めてで、ソリョンはしばらく呆然とゴンを見つめた。
ゴンはテウルを見ていた 。
とても愛おしそうに…
やはり尋常ではなかった。
並行世界についての説明を全く信じようとしないテウルに「文系だからだ」と何度も文句を言ったことを、まさかこうして使ってくるとは…
ゴンは笑顔で席を片付けた。
「 ここまでにしましょう、ク総理。今夜は私も時間があまりなくて。」
「 遠い道のりなのでどうぞ先に出発してください、陛下。ここでお見送りいたします。」
「 そうですか…ではまた。金曜日に会いましょう。」
短いあいさつをした後、ゴンは未練なく背を向けた。
テウルもソリョンに向かって黙礼し、急いでゴンを追いかけた。
再び勢い良くプロペラを回し始めたヘリに向かうテウルとゴンの上には大きな月が浮かんでいた。
一人残されたソリョンは、月の中へ歩いていくような二人を悔しそうな目で見つめた。
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ゴンと並んで座り、テウルは窓の外に見える夜景を鑑賞した。
視線を正面に向けると、まっすぐ向かい側に座ったモ秘書とヨンが見えた。
時々ぶつかる視線がぎこちなかった。
幸いなことにソウルの夜景は美しく、大きく昇った月はテウルの人生で最も近いところにあった。
「 何をそんなに見てるんだ…? 」
「 月はどっちも同じなんだなぁって。もしかしてここも……あ、後で。」
二つの世界について話そうとしたテウルはモ秘書がいることを思い出し、言葉を止めた。
その態度に気づいたゴンは徐にそっと手のひらを差し出した。
テウルはどういう意味かわからず、ゴンの手のひらを見下ろしてばかりいた。
手相を見ることはできないが、はっきりと写っている手相までハンサムなことは分かった。
おかしなことばかり考えていた時、
ゴンがテウルの手を取って手のひらを広げた。
( ”ここも…”どうした? )
ゴンの指がテウルの手のひらをくすぐった。
テウルはその時になってようやくその意味に気づいた。
( ここも”月にウサギが住んでいる”っていう伝説はあるの? )
( 月にウサギは住んでいない。 )
呆れたテウルは手を離そうとしたが、すでにゴンにしっかりと掴まれていた。
テウルの手のひらに見えない字を書き記すのが楽しかった。
ゴンの口元に純粋な喜びが滲んだ。
( 月の表面はレゴリスに覆われているが···
その姿を見守るモ秘書の目がみるみる大きくなった。
幼い日のトラウマのせいで、ゴンは人と接触するのを極端に嫌った。
ところが、何のためらいもなくゴンはテウルに手を差し伸べていた。
ゴンにとってチョン・テウルという存在が何なのか…
簡単には見当もつかないが、しかしそれはとてつもなく大きな意味だった。
モ秘書は見てはいけない皇帝の秘密めいた気持ちを目の当たりにしたようで、わざと視線を逸らした。
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「 なんでキッチン…?今日は私ここで寝るの? 」
テウルは周りをきょろきょろと見回しながら聞いた。
普通のキッチンではなかった。
展示ケースに置かれた器は食器というより装飾品に近い高級感で、調理道具は一つ一つ職人の手が行き届いたものばかりだった。
奥の扉の向こうには、肉の熟成室と大型炭窯が共存するこの最先端の現代式キッチンが、宮殿の水刺間(※スラッカン)だった。
ゴンは笑いながら脱いだコートを椅子の背に掛けた。
宮人たちを帰らせて無人になった水刺間では、この瞬間二人きりだった。
「 寝るなら私の寝殿に泊まらないと。モ秘書にまでバレたことだし、これで私の側近は皆知っていることになる。」
テウルの肩をつかんで食卓に座らせ、ゴン自身は調理台の前に立った。
シャツの袖をまくってゴンは言った。
「 食事をしないと。ヨンに聞いたが、サンドイッチ一つ食べただけであとは一日中何も食べてないんだろ。チキンを奢ってもらったお返しだ。」
テウルはじっとゴンの動きを見物した。
見るからに新鮮な材料を取り出して整え始めたゴンの手つきは、かなり手慣れているように見えた。
白米を洗って釜にかけ、同時に下ごしらえした牛肉を予熱したフライパンの上に乗せた。
血の色だった肉が焼け、キッチンにはすぐに香ばしい匂いが立ち込めた。
お腹が空いていたのも気づかなかったが、匂いを嗅ぐど急にお腹が空いてきた。
ぼんやりと肉が焼けていくのを見ていたテウルはゴンと目が合った。
自分が作った料理をテウルが食べると考えただけで、ゴンはすでに満足なのだった。
「 わざとでしょ…お金貸してくれなかったの。貨幣が違うの知ってたくせに。」
「 ああ、そうか。君にはボタンがなかったな。…遠くに行ってしまうかと思って。 だからヨンを送ったんだ。」
「 限度額10万ウォンって言われた。借りたからあとで返しておいて。」
「 そうするよ。」
「 今日一人で歩き回ってみて思ったんだけど……寂しかったでしょ?私の世界にいた時。」
“経験してみないと分からない”という言葉が正しかった。
ふと寂しくなる度に考えた。
ゴンもそうだったんだろうな、と。
肉を焼いていたゴンが顔を上げてテウルを心配そうに見た。
「 君は寂しかったのか…?ここで。」
「 私が私であることを証明する術がないのがもどかしくて途方に暮れたの。…迎えに来てくれてありがとう。」
「 ちょっとこっちへ。」
ゴンは顔を強張らせながらテウルを呼んだ。
テウルは椅子から降りて調理台に向かい、ゴンの横に立った。
「 …何?なんか手伝う? 」
「 私を見ろ。」
腰にエプロンをかけた皇帝の命令だった。
テウルはゴンの言葉どおり顔を上げた。
すると、ゴンは頭を下げてテウルの額に自分の額をコツンと当てた。
「 頭をなでてあげたいのに、手が使えないから。」
優しい声でテウルの頬をくすぐる。
触れている額が熱くなっていくのを感じたテウルは少し不満そうにつぶやいた。
「 …初めてじゃないと思うけど。」
「 何が?恋愛…?検索しても出てこなかったのか?」
テウルは額を離し、くるりと背を向けた。
「 …料理、なんでこんなに上手なの?てっきりラーメンかと思ったら。」
「 ”まずい”と言ってたのに。」
「 美味しかった…だから自分で作ったって言ったのも嘘だと思ったの。」
「 ノ尚宮が料理を教えてくれた。毒味をしなくてもいい唯一の食べ物は、私が自分で作ったものだから。」
テウルが一歩離れた時、ゴンはさりげなく尋ねた。
「 検索したんだろ? …クム親王イ・リム。」
大韓帝国の人間なら、逆賊イ・リムを知らない者はいない。
テウルが知るのも簡単だったはずだ。
クム親王イ・リムが誰なのか…その夜に何があったのか…やはりテウルの表情がすぐに暗くなった。
「 本当に…よく立派に育ったね。」
「 …もう全部知ってしまったんだな。君がどんなルートの前に立っているのか。」
テウルの視線がかすかに残っているゴンの傷に向かった。
痛かっただろう。
痛かったはずだ。
子供が耐えるにはあまりにも残酷だった。
テウルには想像もできなかった。
想像するとすぐに苦痛が押し寄せた。
父を殺して、自分の首をも絞める肉親だなんて…
「 私の地獄であり、私の歴史だ。 父を殺し、私の首を絞めた者の欲望が刻まれている。」
「 ……。」
「 だから私は、おじ上の心配とノ尚宮の涙の中で育った。 それがノ尚宮が君に冷たい理由だ。 寂しく思わないでくれ。」
十分に理解することができた。
テウルは頷いた。
「 それだけか…?普通こういう時は抱きしめるか、抱きしめてあげるかのどちらかじゃないのか…?」
「 身分証は見せてくれないの?」
「 はぐらかすのか··· 」
「 もう行かないと。」
「 行かせない。 君はここで暮らさないと。」
言う側も聞く側も知っていた。
互いにそれぞれの人生があることを。
テウルは一晩…いや二晩ほど、他の人は行けない場所へ旅行に来ただけだった。
ゴンがいなかったら選ぶこともできなかったはずの旅行地に。
繰り返し話すゴンの声が次第に重くなった。
「 本気だ。私の一言がなければ、君はここから出られないんだ。」
ゴンの無念さを切実に感じた。
彼の無念さがテウルを悲しませた。
自分のことを心配してくれる人も、大切にしてくれる人も、好きでいてくれる人も多いのに…それでもゴンは寂しいようだった。
その寂しさを消してくれる人が、25年前も今もゴンの世界の存在ではなく、自分であるということがテウルを悲しませた。
自分がゴンの0だということが。
いつの間にか自分もゴンの0になりたいと思っていたことが…
何だかさっぱり分からない。
分からないけれど、ゴンの目を見ているとただ頷きたかった。
その大きな目からはいつでも涙の雫が落ちてきそうで…テウルはそうならないようにしたかった。
一国を背負う皇帝が、テウルにはいつでも傷つけられる純粋な少年のように見えた。
いつの間にか、ゴンが火にかけていた釜から湯気がゆらゆらと立ち上っていた。
ゴンは火を消し、肉と野菜を乗せた釜飯をテウルの前に置いた。
「 ゆっくり食べろ。これを全部食べ終えたら、身分証を見せるよ。」
テウルはきちんと置かれたスプーンを持った。
手に力は入らなかったが、ごちそうを用意してくれた人のために美味しく食べる姿を見せてあげたかった。
「 いただきます。」
「このステーキ丼が私の必殺技だ。これで落ちなかった人はいない。」
一口食べてみると、自負心を持つに値する、無理に美味しいふりをするまでもない美味しさだった。
「 だろうね。」
「 誰に作ったのかと聞かないでどうする。嫉妬させる為の話だろ?」
「 ……どうせ勝てっこないでしょ。それが誰であれ、この世界の人なんだから。」
一生懸命ご飯を食べながらテウルは言った。
テウルが本音を明かすたびに、ゴンはどこか刺されるような思いを感じた。
ゴンはポケットから身分証を取り出し、テウルの前に置いた。
「 君がここに来るまでずっと持ち歩いていたんだ。見せたら帰ると言われそうで出せなかった。でも、もし君の世界よりもっと遠い所へ行ってしまったら………ひとまず確認して。」
テウルは素早く身分証を手に取った。
新しく発行された身分証より少し古いが、明らかに自分のものだった。
2019年11月11日…発行日も鮮明だった。
「 ·······紺色のジャケット、合ってるね。 私の身分証に間違いない。でも訳が分からない。こんなのあり得る? 確かに私のものなのに、なぜ25年前からここにあったの? 」
「 誰かが落としていった。でも、記憶がだんだん薄れてきて、今彼に会っても顔を見分けられるかどうかは分からない。だが必ず、もう一度私の前に現れるような気がするんだ。」
「 …なんで?」
「 彼が全ての始まりであり、終わりだから。」
「 ……!」
「 難しい問題のようだが,きっと簡単で美しい数式になるはずだ。君は私が探していた答えで これから一つ一つそれを証明してみせる。それが誰であれ、どこの世界の人間であれ、君は必ず勝つ。だからそうやって一人で決別しないでくれ。」
何をどうするつもりなのかテウルは知らなかった。
しかし、少年のような男の顔はたちまち強い男の顔に変わっていた。
ゴンとテウルはしばらく互いを切ない表情で見つめた。
希望と不安が、自嘲と孤独が、刹那によぎっていった。
その時、ヨンが慌てた様子で駆け込んできた。
「 陛下、ク総理がNSC(国家安全保障会議)を召集しました。」
※水刺間(スラッカン)…宮廷の台所。『王の食事を作る厨房』という意味。
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東海岸の日韓中間水域に中国漁船が一隻、霧と荒波で遭難し、近くにいた大韓帝国の李舜臣(イ・スンシン)艦に救助を要請した。
他国の海域へ侵入し漁業活動を行っていたことは問題だったが、一般漁船だった為にまずは救助が先だった。
ところが、それがまた新たな問題を生み出した。
「李舜臣」が漁船を捜索するために稼動した探索レーダーを、日本側が大韓帝国の攻撃意志と受け止めたのだ。
受け止めたというよりはそう解釈してしまったのだろうが、とにかくそれを口実に日本はイージス艦を旗艦とする日本海軍編隊を独島南南東方向に移動させていた。
ソリョンが緊急NSCを招集し、強硬対応を予告した。
執務室に入る際、ゴンはヨンから引き続き状況報告を受けた。
大韓帝国海軍は警告放送を進行中だった。
先日にもあったことだ。
NCSでは強硬に対応すべきだというク総理と、以前のように適当に懐柔してやり過ごすという意見に分かれているだろう。
「 中国漁船は救助したのか?」
「 現在も救助中です。 東海が悪天候で難航している状況です。」
ゴンは頷いてノ尚宮に伝えた。
「 私の客の所持品をすぐに持ってきてくれ。 状況説明は私がするから。」
「 はい、陛下。」
即座に指示したゴンの表情は複雑だった。
日本とは常に政治的にも外交的にも鋭く対立してきた。
二度懐柔して帰したが、今度はイージス艦を率いてやってきた。
重要な決断を下す時だった。
海が見渡せる高い島の上に宮殿が建てられたのは、皇帝がそのような決断を下す為だった。
間もなくソリョンと電話がつながった。
ソリョンはNCSですでに議員と舌戦を繰り広げた後だった。
ソリョンの声はいつになく強張っていた。
- 現在、日本海軍のイージス艦のほか五隻が大韓帝国の領海で専属航行中です。 私は戦闘の準備を指示しました、陛下。 もちろん反対の声も高いです。
軍の統帥権者は皇帝だった。
皇帝の承認があってこそ戦闘も可能だった。
ゴンはゆっくりと目を閉じてから再び前を見据えた。
「 国土守護から政治的計算は除くべきです。 そうして導き出した答えですか?」
ー 40万の軍人と9,000万の国民の未来が懸かった判断です。政治的計算はありません、陛下。
「 ならば、私は少し違う方法を考えています。」
ー 違う方法とは…?
「 私の祖先がされた方法通りに… 」
ー 陛下!
「 国と国が正直になると戦争が起こるのです。 日本がこのように率直に出てきたなら、私たちも率直にならなければなりません。 容赦はしない…と。私が海軍大尉として軍服務を終えたのはご存知ですね。日本は我が領海に1センチも、1ミリも、入ってくることはできません。」
短い沈黙の間に緊張感が漂った。
皇帝は自分の責任と義務ほど重い決断を下した。
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ゴンは軍服に着替えた。
久しぶりに袖を通した海軍制服だった。
身なりを整えるノ尚宮の手が小さく震えていた。
しかし、他のことならともかく大韓帝国の為の皇帝の決定には、いくらノ尚宮といえども軽々しく言葉を発することはできなかった。
ノ尚宮は心配そうに言った。
「 ···陛下、このような時に恐縮ですが、宮殿内で品物が一つ消えました。 あの客人の身分証です。」
テウルの所持品を保管していた場所からは身分証だけが消えていた。
テウルを隠すために監視カメラも切っていたので、誰が持って行ったのかまともに確認さえできなかった。
しばらく考えていたゴンは、ノ尚宮を静かに呼んだ。
「 ノ尚宮、変に聞こえるかも知れないが、そなたに今すべてを説明することもできないが、起こるべき事が起こっているような気がするんだ。 25年前から始まった… 」
「 なぜ今、そんな根も葉もないお言葉を… 」
「 詳しいことは戻ってきたら話す。今は武運を祈っていてくれ。 そなたの札はとても効果があった。」
「 そのお札は…必ず身に付けてお持ちくださいね。そのお札は本来、そう使われるべきお札なのです。」
これ以上ないノ尚宮の心配が感じられ、ゴンは微笑んで見せた。
ノ尚宮の深い想いのおかげで、自分はきっと無事だろう。
その時、軍服に着替えたヨンと、一緒に旅立つ準備を終えたテウルが入ってきた。
出発の準備という程のこともなかった。
差し出した所持品を返してもらい、着てきた服に着替えるだけだった。
テウルは真っ白な海軍制服を着たゴンを震える瞳で見上げた。
胸の詰まる思いでテウルを見つめていたゴンは、持っていた身分証を差し出した。
「 代わりにこれを。こうして君の手に渡る運命だったようだ。困ることはないだろ…?」
テウルは軽く首を振った。
「 …海軍だったの?」
「 3年服務し大尉として転役した。信じないだろうが、私は大韓帝国の軍統帥権者だ。」
「 信じる。」
「 …ようやくか。」
二人は不安を隠して笑った。
「 日本とは一触即発の関係だと言ってたけど、こんな状況だったんだね…大韓帝国は。」
「 皇室では最も名誉な瞬間に軍服を着る。 勝って戻ってくるという意味だ。名誉と共に戻ったら…すぐに会いに行く。」
しわ一つない美しい軍服の袖を、テウルは捕まえたくなった。
最初から行かなければ、帰りを待つ必要もない。
でもそんな考えは、勇敢な刑事にはふさわしくない考えだった。
テウルは気持ちを飲み込んだ。
「 ……来るの?」
「 待っていてくれるか?」
「 またね、イ・ゴン… 」
テウルに呼ばれた自分の名前は、馴染みのない恍惚だった。
ゴンは心の奥深くに自分の名前を刻み込んだ。
「 呼んではいけない名前ではなく、君だけが呼べる名前だったのか… 」
ザキング 永遠の君主
14.「名前を呼ぶ」