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ザキング 永遠の君主 7.「美しいもの」
早朝、テウルは複雑な心境で出勤中だった。
ぼやけてばかりいるテウルの頭の中とは違い、見上げた空は青く晴れ渡っていた。
いつもなら大音量で音楽を流し、口笛でも吹いて出勤したはずの天気だった。
出勤すればまた印象的な犯罪者たちとの面倒な一日が始まるが、少なくとも通勤路ぐらいは楽しめそうな天気だった。
なのに頭の中はすっかり困惑していた。
「 君の思う地球が、早く丸くなってくれるといいな。」
昨夜微笑んでいたゴンを思い出した。
地球はもともと丸い。
テウルもそれを知らないわけではない。
ただ、地面が平らすぎて丸い地球が実感できないだけだ。
「 え、何?ウソでしょ····· 」
好調だった車がガタガタ言い始めたのはその時だった。
テウルはうんざりしながら急いでハザードをつけ、路肩に車を止めた。
一度消えたエンジンはいくら鍵を回しても動き出すことはなかった。
全く動かなくなった車のハンドルに額を当ててから、テウルはすぐに外へ出た。
出たところで、テウルができることは何もなかった。
点検も周期的に行いエンジンオイルも換えたばかりなのに…
ボンネットを2回ほど叩いたが、結局テウルは電話をかけた。
まだ家からは遠くない…
父親を呼ぶつもりだった。
- こちら英雄豪傑テコンドー道場
「 …もしもし? 」
テウルは自分の耳を疑った。
- 君か? 私だ。
「 なんでキム・クソ野郎がこの電話に… 」
- 私はこの世界に来て以来ずっとここにいたんだ。 君が知らなかっただけで。
「 父さんに代わって。」
- 今 来客中だ。マキシムスのおかげで子どもたちがたくさん訪れるそうだな。君のお父上がコーヒーの毒味をしてくれて、今味わっているところだ。用件は何だ?伝えておこう。
忙しく出勤する途中だった。
咄嗟に他の方法が思いつかなかった。
「 今スーパーの前なんだけど車がエンストしちゃって…ロードサービスが来るまでこの車をちょっと見ててほしいんだけど。私はタクシーに乗って行けばいいから。」
- 車の状態は?
「 どんな状態か言ったら直せるのか 」と問い詰めようとして、すぐにやめた。
数学や科学に精通しているようだし、簡単な自動車問題ぐらいは解決できると思ったからだ。
- 今手元に何がある?
テウルはすぐさま車の中にあるものを確認した。
ミネラルウォーターひとつ、ウェットティッシュ、リップバーム、つまみのジャーキー、ヘアゴム…
故障した車を走らせるなど到底無理に思えるものばかりだ。
ところが、意外にもゴンは落ち着いて物の使い方について説明し始めた。
- まず、ヘアゴムとミネラルウォーターを持って外に出て…
「 分かった! 」
- ヘアゴムで髪を結んで、ボンネットを開けてそれから………水を飲みながら待て。すぐに私が行く。
「 …あんた死にたいの? 」
完全にだまされた。
だがこれはゴンの誤ちだけではない。
ほんのわずかでもゴンに助けを求めようとした自分が愚かだった。
自分自身が情けなくてたまらなくなりかけていたとき、早くもゴンはテウルのもとへ到着した。
朝の日差しを浴び、そのハンサムな顔を輝かせながら…
テウルはゴンを見るや否や急いだ。
外で待っていたせいか少し暑さを感じたテウルは、ちょうど手首にかかっていたヘアゴムで髪を結びながら言った。
「 ロードサービスは10分で来るそうだからしっかり見ててね。勝手にいじらないでよ! 」
「 ……。」
ゴンは髪をまとめるテウルをじっと見ていた。
愚痴をこぼしてしかめっ面をしながらも、爽やかなテウルの横顔。
そんなテウルの頭上を散ったばかりの黄色く紅葉した葉が、まるで映画のワンシーンのように舞っていた。
「 あ〜、波打ち際で…
そして、一枚の絵のように止まった。
絵のようだと思っただけなのに…本当に絵になったように時間が止まっていた。
静止した時間の中で、ゴンの時間だけが流れていた。
ゴンはすぐに四方を見回した。
舞い散っていた葉は宙に浮いたまま、通りかかった車も…人も…全てが止まっていた。
振り返ると、正面を見ながら髪を縛っているテウルが絵のように立っていた。
わずかに伏せた目、うっすら開いた唇、現れた首筋…
そこに美しくないものは何一つなかった。
目に映る全てが美しかった。
初めてテウルと向かい合った瞬間には見えなかったもの…
あの時は恋しかった人に会えたのが嬉しくて、ただテウルを抱きしめるのに忙しかった。
ゴンがもう一度まばたきをした瞬間、浮いていた銀杏の葉がテウルの肩に落ちた。
……我が子の手を放すみたいな気分だな。正七品の世話をする時みたいに大事に扱ってよ!あの子は私の正五品なの。分かった? 」
テウルの言葉も続いた。
ゴンが呆然と尋ねた。
「 …たった今、時間が止まっていた。君は何も感じなかったか? 」
「 時間がなんで止まるわけ?さらに頭おかしくなった? 」
「 私を除いてみんな止まっていた。」
「 …なんであんただけ除くの。」
なぜこんな現象が起こったのか…
ゴンはすばやく状況を整理した。
「 …仮説だが、どうやら扉を超えた際に生じる一種の副作用のようだ。 …だが、おかげで美しいものが見れた。」
そう言ってゴンは満足気に小さく微笑んだ。
ゴンの周りにも黄色い紅葉がはらはらと舞い落ちていた。
テウルはその間に立ってゴンを見つめていたが、すぐにハッとし首を横に振った。
「 そ、じゃあたくさん見て。同じくらい私の車もよく見てよ?…じゃあ行くね! 」
去っていくテウルをしばらく眺めていたゴンだったが、残された車を見て口の端を上げた。
ちょうど確認したいことがあったのだが、まさか思いがけず車が手に入るとは…
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二つの世界の時間が停止した瞬間、時間の流れの中にいたのはゴンだけではなかった。
ゆっくりと巨大な塩田の真ん中を横切る長身の男は、25年前から何一つ変わらぬ姿のイ・リムだった。
大韓民国から大韓帝国へ…
リムが扉を開いて世界を移動した瞬間、開かれていた全世界の時間は停止し、二つの世界を繋ぐ扉の鍵を握る彼らだけが時間の流れを感じることができた。
風が吹き、海のにおいが鼻先に染みた。
リムは黒い長傘で地面に触れながら、湿った土手の上を歩いた。
そのリムの後をついて行く男がひとり…
かつての側近、ユ・ギョンムだ。
「 あちらでお過ごしになるのに不自由はございませんか。こちらとは状況が違うので、誰一人として使うのは不便と存じますが… 」
リムは後をついて来るギョンムをちらりと見た。
謀反の夜から25年が流れ、若かった彼もかなり年を取った。
大韓民国でも、リムはギョンムと同じ顔の男を傍に置いていた。
そこにいても、ここにいても、この男ほどリムに忠誠を尽くす人間もいなかった。
血も涙もなく家族を自らの手で殺したリムだったが、自分に絶対的な忠誠を誓うギョンムにだけは信用を置いていた。
ギョンムは何年も逃亡生活を送りながらリムを待ち続けていた。
皇室からリムの死が発表されても、リムの遺体が発見されても、ひたすらリムを信じて待った。
それは狂気に近い信義だったが、その信義がどこから来るかは重要ではなかった。
異なる世界を行き来しながら両世界を足下に置こうとするリムの欲望もまた、狂気に近いものだったからだ。
リムは穏やかな表情で答えた。
「 下賤な者たちは金で動いてくれるから楽に暮らしている。」
ギョンムは安堵したように頭を下げた。
皇室近衛隊が射殺したと発表したイ・リムは、リムであってもリムではなかった。
重い障害を持ち、身動きすらまともにとれなかった大韓民国のリムだった。
片方の息笛でリムは別世界へ繋がる扉を開いた。
萬波息笛を手にすれば世界を我が物にできるという考えはやはり間違っていなかった。
リムは自分が正しかったことを喜んだ。
そしてすぐに別世界で生きるもう一人の自分と出会った。
大韓帝国のイ・リムは、庶子ではあったが少なくとも皇室の人間だった。
しかし大韓民国のイ・リムは、取るに足らないあまりにもちっぽけな人間だった。
悩むことなく大韓民国の自分を殺し、大韓帝国へ死体を届けた。
大韓帝国で自分が殺した弟、皇帝イ・ホも大韓民国では酒に溺れたつまらない男だった。
彼もまたあっけなく殺した…そしてその息子までも。
残しておいたのは、大韓帝国ではずいぶん前に死んだイ・ゴンの母…あの女と同じ顔をした女一人だけだ。
その日から、リムは早くも世界の均衡を破った。
人々の欲望をかきたて、二つの世界の人間をすり替えた。
ある者は死に、ある者は生き延び、そうして数十、数百の人間がこの闇の手に渡ってきた。
別世界を開く扉…その扉の鍵を持つということは全てを手に入れることができるという意味だった。
リムはギョンムとともに一面に広がる塩田の果てに立った。
「 皆、元気だったか。」
そして静かに、自分の前にひざまずいた男たちを見下ろした。
「 「「 は、殿下!! 」」」
数十の声が一つの声のように大きく響いた。
赤い夕焼けが、まるで血のように彼らの身体を染めていった。
ザキング 永遠の君主
7.「美しいもの」