“孤独のメッセージ“ 6月24日 Civilizing the City 都市の文明化
6月24日 Civilizing the City 都市の文明化
今日の金言
#NPOだけが市民のための都市コミュニティをつくる 。
ACTION POINT
#都市コミュニティをつくるうえでどのような役割を果たせるか考えてください 。
今日のテキストは、『ネクスト・ソサエティ』第4章 NPOが都市コミュニティをもたらす 273ページより。
都市コミュニティって表現よりも、都市における複数の市民コミュニティが提供できるのは今やNPOだけなのかもしれません、ってことに感じました。
我が国には、60〜70年代に「企業が共同体となっていた時期」がありました。が、80年代以降、特に、90年代のバブル崩壊後にほとんど失われました。共同体が失われた後、今は「おひとりさまビジネス」に誘導されて、老齢で孤立のまま、孤独死一直線になってしまう(笑)かも。。。
“東京には孤独なコミュ障がひしめいていて、彼らのためのビジネスが張り巡らされている“
とは、ナイスな例えだと思います。
「都会コミュニティー」をNPOが担うべきだと今日の提言ですが、そもそも、「コミュニティ」とはなんでしょう?Wikiにはこう定義されています。
江戸時代までの農業共同社会から明治以降の殖産興業政策で工場共同社会へと造業を中心とした「企業共同体」社会へと変化が起こりました。
これは、昨日のドラッカー365で記された内容でもありますが、1946年、『会社という概念』でドラッカーがGMへ提案したのですが、GMからは拒否されたの
です。
ところが、1959年から日本でドラッカーが講演した際に、このドラッカーの「職場をコミュニティにする」という提案は、すんなり受け入れられました。いや、日本企業の方は、明治時代から行なって来たことでした。
例えば、岡谷の製糸業では、飛騨や諏訪など遠方から女工を集め寮生活をさせながら生産に従事させていました。当時「百円女工になれば家が建つ」と好報酬が人気。工場経営者は女工らに仕事だけでなく「女工が無学であってはいけない」と、製糸事業家は工場脇に学校まで造り、修学までさせました。映画や芝居を招き、縁日を工場内に受け入れ、お祭りなども催しがあったそうです。(岡谷の製糸業の歴史より)
「人間の進歩発展は、まず最初に仕事の中で、仕事を通じておこなわれる」というドラッカーの助言は、長年こうした労働環境を提供してきた日本企業の伝統的な仕事観と合致し、日本企業にとっても受け入れやすい助言でした。
小林茂 元ソニー常務のベストセラー「ソニーは人を生かす」(1965年初版)にあるように、60年代の高度経済成長期には、中学を卒業したばかりの地方の女子学生が東京近郊の製造業工場の寮へ住み込みで「出稼ぎ」就職が一般的でした。
マルクス主義的労働争議が盛んだった60年代、労組対立に加えて、北海道、東北、九州といった地方から出てきた少女たちのマネジメントなど当時、厚木工場長として、小林氏は試行錯誤された結果、工場マネジメントには、トップダウンよりも工場勤務者への権限委譲が効果的であることを喝破し、生産性を著しく伸ばすなど数々の成果を残されました。後年ドラッカーが『マネジメント』(1974年・上巻・498ページ)で取り上げています。
小林氏のマネジメントによって、工場並びに寮においても仲間意識と「共同体」意識を持たせ、各々が自由闊達に意見を言い合える関係づくりを実現し、個々が担当する仕事に個々の責任を与えることで、やりがいを持って仕事に打ち込む職場と変革したソニー工場は、他社が追いつけないほどの生産性向上を実現しました。
小林氏は、このマネジメント手法を多くの製造業企業に伝える伝道師(コンサル)として活動、成功事例を多数輩出されました。日本の産業界の生産性向上に大いに貢献しました。
そこでは、お節介焼きの先輩が、後輩のプライバシーなどお構いなくズカズカと入り込み、裏も面もなく、素になって、家族がわりになって、喜怒哀楽を共有し、人生の悩みも仕事の辛さも助け合い、分かち合い、語り合い、励まし合う、平日は早朝野球に麻雀、休日は、ハイキングと、朝から晩まで常に一緒。まるで、昭和の青春ドラマのような、そんな世界が工場で展開していて、それでも、当時はとても楽しかった、と聞きました。
80年代の低成長から日米貿易戦争(プラザ合意)の敗戦により、日本は路線変更を余儀なくされました。個人が集団に「奉仕」することはファシズムにつながる、と集団生活の弊害が強調され、同調圧力となる職場内のQC活動よりも従業員の個性を大事にすることが主張され、かつてのように、「同じ釜の飯を食う」スタイルで、社員が一緒に過ごすことは時代遅れ、と見なされるようになりました。
同時に、製造業企業が海外に製造工場を移しはじめ、工場の自動操業が進むとコスト負担が大きい国内工場や寮を廃止すると、こうした「企業共同体」社会も文化も失われ廃れていきました。
しかし、田舎から都会へ出てきて働く就労者にとって、心許せる仲間と暮らせる「共同体」、コミュニティは失われました。あるのは、「コンビニエンス」で「スマート」な「おひとりさまサービス」。孤独が常態となってしまった社会。
ドラッカーや小林氏が説いてきた「企業共同体」は、伊那食品工業(長野県)、西精工(徳島県)、ネッツトヨタ南国(高知県)、エイブルネットワーク高知(高知県)、名南製作所(愛知県)、未来工業(岐阜県)など、地方のごく一部の中小企業においておこなわれているだけとなります。
今や、都会の勤め人たちには、かつての「農村共同体」も「企業共同体」もありません。
かつてお見合いなどを仲介者だったご近所のお節介役、仲人となるような人もなく、会社と自宅の往復だけで、身近に胸襟を開いて相談できる友人が居ない孤独な都会人ばかり。増えているのは、職場での鬱や自殺者数です。
オイルショック後の70年代後半から自殺者数は増加しはじめ、
1998(H10)年から2010(H23)年まで、3万人以上の自殺者が。また、職場におけるうつ病件数も年々増えています。
さらに感染症で孤立する都会人が増えているとか。しかも、高齢者が多いといいます。都会に、職場に、幸せがあると思って過ごしてきたけれど、孤独と孤立。それを救う可能性があるのがNPOというのですが、個人の幸せを、と追求してきた結果が、今の孤立・孤独につながっているというのは皮肉な現象と思います。
簡単なことではないですね。
今日もやっていきましょう。愛を込めて。