2月14日 Demands on Political Leadership カリスマ待望は集団自殺願望
おはようございます。今日も #ドラッカー #365の金言 から1日をスタートして参りましょう。
本日 聖バレンタイン・デイ #2月14日 のテーマは、
#Demands_on_Political_Leadership
本日の提言は、
#カリスマを警戒せよ 。
カリスマがはやりである。いたるところで論じられている。本も無数にある。だが、カリスマ待望は政治的な集団自殺願望である。
二〇世紀ほどカリスマに恵まれた世紀はなかったし、二〇世紀の四人のカリスマほど害をなした政治リーダーもいなかった。スターリン、ムッソリーニ、ヒトラー、毛沢東である。重要なことはカリスマ性の有無ではない。正しい方向に導くか、間違った方向に導くかである。二〇世紀における建設的な成果は、カリスマ性とは縁のない人たちの手によるものだった。第二次世界大戦で連合軍を勝利に導いた軍人も、抜きんでて有能だが死ぬほど面白味のなかったアイゼンハワーとマーシャルだった。
今日、おそらく楽観的であるために必要な最大の希望の光は、知識労働者という新たに登場してきた多数派にとって、昔ながらの政治が意味をなさなくなったという事実にある。彼らにとって、意味のあるのは実務能力である。(『新しい現実』)
ACTION POINT
本日のテキストは、「新しい現実」(1989年版)8章 カリスマを警戒せよ 154ー159ページから。
ドラッカーは、カリスマ性ある政治リーダーには否定的です。
なぜなら、国家リーダーにとって、伝統的な政策、公約、政治路線に代わるべきものはないからです。
有権者を惹きつけられるかもしれないものおりも、有権者から嫌われるかもしれないものに気を取られざるを得ない。(同書、153ページ)
だからこそ、有能であること、波風を起こさないこと、仕事をすることが重要なのであり、個々の問題と、問題のその場での解決が、重視されるのである。(同書、154ページ)
重要なことは、カリスマ性の有無ではない。カリスマ的であろうとなかろうと、政治リーダーが正しい方向に行くか、間違った方向に行くかだけが重要である。(同書、155ページ)
カリスマ性を持っていなかったアデナウアー(戦後初の西ドイツ首相)は、カリスマ性ではなく、ビジョンと深い信仰と、責任感と、勤労意欲によって、ドイツ社会の復興に貢献した。
また、ハリー・トルーマン米大統領も、カリスマ性ではなく、倫理的な誠実さと、強い責任感と、助言を得ようとする謙虚さと、強い勤労意欲で、崩壊したヨーロッパを救った。
今後は、政治のリーダーシップの課題は、目的に関する合意を中心に組織することとなる。さらには、目的に関する合意を中心に総力を結集することとなる。
そして、この道だけが、おそらく全てを麻痺させてしまう少数派の力を抑える唯一の方法となるに違いない。(中略)我々が必要としているものは、問題への真面目な取り組み、1つか2つの最も重要な問題への集中、そして恐るべき重労働と、有能さである。しかし、果たしてそれだけで十分であろうか。(中略)
我々にはカリスマもプログラムも必要とはしていない。しかし、明確な目標は必要としている。ビジョンは必要としているのである。(同書、159~160ページ)
感染症による不況、ウクライナ、尖閣・台湾戦争の危機、エネルギー資源の備蓄量の激減、など状況は日々変わるわけですが、わが国にはビジョンがないため、状況に右往左往するばかりで、他国の顔色を伺うばかりで、決断できないように感じます。わが国にとって、一番大切なことは何か。それがぶれてしまっているように感じます。
重要なことはカリスマ性の有無ではない。正しい方向に導くか、間違った方向に導くかである。(同書、155ページ)
意味のあるのは実務能力である。
企業経営でも、そして、個々の人生もそうではないかな、と感じます。
今日を変えていこう。愛を込めて。
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