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10月17日 The Conscience of Society 社会の良心

おはようございます。今朝も #ドラッカー #365の金言  より人生と経営を深めてまいりたいと思います。

昨日の続き。

本日、 #10月17日  のテーマは #The_Conscience_of_Society   #社会の良心

#宗教は神の王国を捨ててまで社会を受け入れることはできない

 本日も自分にとっては、難解です。どういう意味でしょうね?

このフレーズはドラッカーの処女作「経済人の終わり」から引用されています。その内容とは?

 欧州列強が初めて総力戦を戦った第一次大戦後の戦後処理、いわゆる「ベルサイユ条約」後の処理は失敗し、混乱となりました。荒廃した欧州、復興への道筋は遠く、不況が続き、1929年には世界恐慌へと拡大。多数の倒産、自殺、絶望が生まれ、工業化・産業化に成功すれば経済成長でき、自由と平等を実現するというブルジョア資本主義も、労働者は苦役が増えるだけだ、と主張し、勃興してきたマルクス共産主義も、この恐慌と恐慌から新たに生まれた諸問題を解決することができませんでした。そこでは、大衆は伝統的な価値観、信条、宗教に救いを求めたものの、宗教も救いにならなかった、というのが今日の提言。

 およそ100年前、資本主義もダメ、マルクス主義もダメ、宗教もダメ、多額の国の賠償金(借金)、そして、大いなる絶望に覆われた、となったとき(まるで今のようですね)、大衆が救いの手があるように「服従と支配への努力という形」のメカニズムを信じさせたのがヒトラーのナチ主義=ファシズム全体主義がドイツに出現。この全体主義がドイツの人々を魅了しました。

 ファシズム全体主義は、経済上の個人の自由よりも束縛と合理性を優先させました。要するに、人がやる気になるまで待っている、のではなく、引っ叩いて仕事をやらせる方が手っ取り早い、という考え方です。

 さらに、ナチズムでは、経済中心=金・富裕層が上位、という価値観を採用せず、ナチ党への忠誠=党活動への積極的参加、という非経済的な報酬によって階級が決まる支配メカニズムをとりました。そのため、職場の長やその息子であっても、党歴が長い部下や現場労働者よりも下の階級に配置される仕組みであったため、「社会的弱者の味方である」と大衆から大いに支持され、大いに賞賛されました。

 このナチズムに対して教会はほとんど無力でした。

 二つの大戦の間、宗教はヨーロッパの社会と政治に基盤を与えられなかった。当時の人たちが教会を無視したわけではない。キリスト教は個としての人間の絶望と苦しみに対しては答えを与えたが、大衆としての人間の絶望に対しては答えを与えられなかった。このことは今日も変わらない。西洋だけでなく、今日ではあらゆる世界の人間が、この世を捨てることができなくなっている。救いを求めるとき、彼らはこの世における救いを求める。
 宗教とくにキリスト教は、福音を説くことはできる。説かなければならない。しかし、祝福をもって政治に代え、贖罪をもって社会科学に代えることはできない。しかも代えてはならない。
 宗教は、いかなる社会においても良心たりうる。しかし宗教は、神のみとともにある魂の王国、神の王国を捨ててまで社会を受け入れることはできない。この点にこそ、社会における良心としての宗教の強みがあるとともに、社会における政治勢力、社会勢力としての、いかんともしがたい弱みがある。(『「経済人」の終わり』一九九六年版への序文)

ACTION POINT
#社会において宗教は政治勢力ではなく良心たるべきものです
#今日の宗教の役割をどう見ますか

緊急事態宣言は解除されましたが、現在の日本社会を抱える課題(感染症不況、階級社会的な動き、米中激突に伴う中台関係の悪化、日中戦争の兆し、財務官僚による「借金」「ポリ袋有料化」、医師・マスコミによる感染症恐怖への煽りなど)が100年前の状況に類似しているように感じます。あなたはいかがですか?今日もやっていきましょう。

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