10月18日 Capitalism Justified 資本主義の正当化
おはようございます。今日も #ドラッカー #365の金言 で人生と経営を深めていきませんか。
本日 #10月18日 #Capitalism_Justified #資本主義の正当化 がテーマ。
今日のタイトル #資本主義は利潤を積極的に評価した唯一の信条だった 。
資本主義は、自由で平等な社会は、私的利潤を社会行動の最高の規範とすることによってもたらせると期待する。資本主義が利潤動機を発明したわけではない。利潤は、いかなる社会秩序のもとにおいても個人の主な動機の一つだった。今後ともそうであろう。
しかし、資本主義こそ、自由で平等な社会を自動的に実現するための手段として、利潤を積極的に評価した最初で唯一の信条だった。それまでは、私的な利潤動機は社会的には有害なもの、あるいは少なくとも中立的なものとされていた。
それゆえに、資本主意は、経済的な領域に対し独立性と自立性を付与した。経済活動を上位に位置づけた。まさに、経済的な進歩が千年王国を実現するがゆえに、経済的な目的の実現のためにはあらゆるエネルギーを注がなければならないとした。それが資本主義だった。しかし、それは本来の社会的な目的を実現できなければ、意味をなさず、正当化もされないはずのものだった。(『「経済人」の終わり』)
ACTION POINT
#あなた自身とあなたの組織の経済活動が社会的な目的の実現にどれだけ貢献しているかを考えてください 。
ビニール袋を集めている財務次官を見ると、彼は資本主義社会に暮らしながら、ご本人は資本主義を憎み、私的利潤の拡大を憎んでいるように見えます。
彼が「借金」という国債残高が年々増えることに恐怖を覚えていることはわかります。しかし、それは池田氏が言うように、
日銀が500兆円コインを買い取れば一瞬で済む概念的な話で、なぜ増税で賄おうとするのか疑問。通貨発行権のある国家のファイナンスについて知らないのか、知っていながら、恐怖で国民をコントロールしようとする=専制を指向する行政官僚のエゴに思います。
行政権という権力を持つ、財務次官という官僚も、その万能性に酔っているのでしょう。個人の自由・やる気・自発性の発露から業務を行わせるよりも、抑圧・強制によって大衆を従わせる方が合理的である、という考えをお持ちのように見受けられます。
己の恐怖から資本主義を憎み、専制=全体主義へと走るのなら、行政マンとしては相応しくないでしょう。職務に誠実さを欠く人材はマネジメントに向いていない(「マネジメント」より)のです。
今日のテキストは、ドラッカーの処女作「「経済人」の終わり」から。
同書で、ドラッカーは『経済人』の論理を支えて来た経済的成長が自由と平等を実現するという理想が破れ(経済人つまり資本家の終わり)、また同時に、当時席巻していた共産主義も理想には程遠いものであると判明したことから、大衆の絶望が広がり、個人の自由よりも、蟻や蜂の社会のように、個々人の自由や権利を抑圧し、社会全体を経済合理的に行動させるナチズムによる全体主義(ファシズム)の方が幸せになれる、と布教され、「組織を壊せ」「個を捨てよ」「全体は国家に従え」とする方向へと向かったと説き、全体主義の脅威を指摘しました。
昨日ご紹介した「「産業人」の始まり」
とも連なる社会思想的な内容です。
1939年のドイツでは、世界大戦の被災からの復興負担に加え、配線による巨額の賠償金返済の負荷に加えて、世界大恐慌が襲い絶望感にあふれていました。
「資本主義も駄目」「共産主義も駄目」「宗教も力にならない」じゃあ、何を信じたらいいんだ?と巨額の敗戦賠償金を連合国から課せられ、絶望感が満載の当時のドイツの大衆の気持ちがありました。
「「経済人」の終わり」「「産業人」の始まり」では解決の道筋を示すことができなかったドラッカーでしたが、後年「マネジメント」において
「我々の多元的な「組織体の社会」にある組織体が、責任ある自律性の下に業績を上げるものでなければ、個人主義は失われ、また、自己を十分に発揮するチャンスがある社会も失われてしまう。そして完全な規格化が押し付けられ、誰もが自律性を許されなくなる。我々は「好きなことをする」楽しい自発性はもちろんのこと、「参加的な民主主義」までも失い、その代わりにスターリニズムを招くことになる。強力で業績を上げる自律的な組織体にとって替わるのは、専制(=全体主義)だけである。専制は、競争し合う組織体という多元性の代わりに唯一絶対なボスを据える。専制は、責任感の代わりに恐怖を持ち込む。専制は、なるほど組織体を廃絶してしまうとはいえそれは、全ての組織体を「機構」というあらゆるものを包括する唯一の官僚制の中に埋没させてしまうだけなのである。なるほど専制でも財貨とサービスを生産する。けれども、それは、気まぐれに、不経済に、低い水準で、しかも苦難、屈辱、欲求不満という大きな代償の下に生産するに過ぎない。それゆえに、我々の組織体に、責任を持って自律的に高井達成水準で業績を上げさせてこそはじめて、多元的な組織体の社会での自由と尊厳を守れるのである。だが、組織体に業績を上げさせるのは、経営者とマネジメントである。業績を上げ、責任あるマネジメントだけが専制に替わるもので、専制に対する我々の唯一の防御策なのである」(「マネジメント」まえがきより)
と「成果を上げる責任あるマネジメントこそ全体主義に陥らない、唯一の手立てである」と説きました。
ここに、ドラッカー思想の本質があります。
若きドラッカーは、フランクフルト大学で「ナチスのいうことを聞くか、収容所へ送られるか、どちらかだ!」と脅された経験があります。指導者が人々から善悪の判断を奪い、絶対的な服従を求める。恐怖によって民衆を抑圧する経験です。
もし、当時の大学当局や個々の企業や組織が「それはナチスが決めることじゃない」「それは違う」と主張し、抑圧に服従しない世界を選択したら、あの悲劇的な第二次大戦は回避できていたかもしれません。今日もやっていきましょう
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