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2月24日 Legitimacy of the Corporation 企業内の権力の正統性

おはようございます。今朝も #ドラッカー #365の金言  から人生と経営を深めていきましょう。

本日 #2月24日  の

テーマは、 #Legitimacy_of_the_Corporation (企業の正統性)

#企業内の権力の正統性

そして、今日の金言は、

#権力は正統でないかぎり永続しない

 いかなる権力も、正統でないかぎり永続しない。いかなる社会といえども、一人ひとりの成員を組み入れないかぎり機能しない。産業社会にしても、それを構成する一人ひとりの人間が位置づけと役割を与えられないかぎり、解体せざるをえない。
 大衆は反逆しない。しらけるのみである。自由にともなう責任から逃れるだけである。自由とは、そこに社会的な意味がなければ負担と脅威以外の何ものでもない。
 われわれには二つの道しかない。社会として機能する産業社会を構築するか、自由が無秩序や圧制のうちに消失するのを座視するかのどちらかである。(『産業人の未来』)

ACTION POINT 

#あなたの組織にとって

#独裁的な国や無政府状態の国で事業を行なうことの意味を考えてください

本日のテキストは、手元にある1965年版の『産業人の未来』>第4章 20世紀の産業的現実(106ー107ページ)より。


本日のアクションポイントは、米中激突、ロシアのウクライナ侵攻という時期に重なりタイムリーでもあります。

あなたの組織にとって、独裁的な国や無政府状態の国で事業を行なうことの意味を考えてください。

ドラッカーが「産業人の未来」を発表したのは、第2次大戦中の1942年。

原文では、Decide whether it is worthwhile to you and your company to operate in parts of the world that are tyrannies or in anarchy, or if it is just too dangerous. (deepl訳 世界の暴君や無政府状態の地域で事業を行うことは、あなたやあなたの会社にとって価値があるのか、それとも危険すぎるのかを判断してください。)

ここで、彼が想定しているのは、暴君であるヒトラー、スターリンが独裁していたナチス・ドイツであり、共産主義ソビエト連邦です。

本書でドラッカーは、ナチスやソ連共産党の全体主義社会が登場した理由は、現代産業の代表的な社会現象である「大量生産工場」の原理を踏まえた、現代産業社会の制度的産物の1つだと論じています。

産業社会の発展を進めるほど、全体主義化するからです。

ドラッカーは、ナチズムやソ連共産主義の本質を「束縛と征服を基礎にして機能的産業社会を発展させようとする試み」(同書、20ページ)と規定しています。

機能的産業社会とは、産業社会の全ての成員、要素が、全体の有機的目的に対して機能的に整合され、無駄なく結びついている社会ということで、そのような産業社会が理想であることは言うまでもありません。

しかし、現実は、産業社会が求める全体の有機的目的に対して、蟻や蜂のように一糸乱れぬよう機能的に整合し、合理的に行動することなど無理ですし、そんな行動が自然に取れる人間など存在しないのです。人間は、非合理に満ちた弱い動物であり、それぞれが長所・短所を持っています。

ところが、ナチ主義、共産主義は、人間を合理的な存在としてみる、理性主義から社会を構成しています。

それぞれの人間の長所短所、得意不得意などお構い無しに、現実の人間を完全否定して、人間を非経済的な面で平等に扱う、というやり方で、機械的に、とある機能を担え、と向き不向きかかわらず、軍隊や職場などの現場に放り込みました。

戦前、日本で起こったことでもありますし、現在も「ブラック企業」と呼ばれる企業では、働く人たちを能力にかかわらず、非合理的に扱い、ハラスメントをし続けており、これは現在の日本でも、このナチズム的な考え方のもと、組織運営がなされていることがわかります。

さて、1917年以降のドイツをみると、第一次大戦に突入しているものの、イギリスによる海上封鎖により、燃料、食糧不足が続き、餓死者も出ていました。戦争も敗色濃厚、加えて、現在のコロナ感染症のようなスペイン風邪が大流行し、多数の病死者が発生。それに続き、巨額の賠償金ドイツ経済が崩壊。

当時の絶望したドイツ大衆は経済優先で行動してきましたが、経済行動が社会に有益だと考えることを辞めました。経済は平等を促進しないからです。

そして、

「経済上の自由を制限したり、放棄したりすることで、失業の脅威、不況の危惧または経済的犠牲の危険などをさしあたり、防ぐことができるなら、自由の制限、剥奪も甘んじて受けもしようし、歓迎さえもしよう」(「経済人の終わり」1963年訳版 74ページ)

というやけくそな気分になりました。

この100年前のドイツ大衆の雰囲気は、2年前からわが国を誘動してきた、「コロナ感染を防ぐことができるなら、経済上の自由制限も、移動の自由も、ワクチン注射も、自粛も甘んて受けようし、もっと制限を歓迎さえしよう」という、今の「空気」に似ている、と思いませんか?

資本主義が進めた拡大再生産を続ける産業社会は、発展したものの、それは人間に、「非合理的」を強いて、合理的人間=良き工場勤務者、となるように行動するよう強いました。

結果、群衆は「服従と支配への努力という形」へのメカニズムに向かって遁入しました。それが全体主義です。

 それは「光」に飢えた大衆の満足と不満足の自己欺瞞的な弁証法の体系でもあります。ドラッカーは次のようにいっています。「全体主義がくれるものはまことに不満足である。しかし、ほかに何ももらえない。してみれば全体主義がくれるものが気に入らなければ、それだけに、もらえるもので十分なのだと思い込む自己説得につとめなければならない。自己説得につとめればつとめるほど不満が高まるのは必定である。そうしてみれば、この努力はますます強められなければならない。このようにして、全体主義の国民は不断の緊張の中に生きることになる。大衆はひどく不愉快であり、激しい幻滅を感じている。しかし、幻滅を感じ失望していればこそ、あらんかぎりの力を尽くして、全体主義の信仰につとめなければならない。いま持っているものは、ただ1つ。これを捨てたら何が残ろうか。」(「経済人の終わり」218ページ)こうして、「孤独な群衆」は、不満→自己説得→不満という「不断の緊張」あるいは自己催眠の中に身を置くことによって、全体主義のメカニズムに組み込まれて行きます。それは、合理から非合理への遁走であり、科学から信仰への飛躍であります。それが、絶望の結果の「ために死すべきことの価値なく、ために生くべき妥当な信条のない世界との妥協を拒んだ若者たち」の行き着く心理であります。(「ドラッカーの世界」小林宏 著 88ページ)

 ナチスは、理知の代わりに野蛮、暴力、経済の代わりに不経済、階級の代わりに民族、という偽物の包装紙を合理主義に被せることによって、大衆支配に成功しました。

 同じことが、現在も隣国において、そして、我が国においても、さらに洗練され、SNS等を通じ、さらに、儒教の包装紙を被せて、より巧妙に行われて大衆操作やプロバガンダの流言がなされ、国家や国際機関の人権侵害、殺人、戦争が肯定されているように感じます。

 独裁的な国や無政府状態の国は、「束縛と征服を基礎にして機能的産業社会を発展させようとする試み」を絶えず行い続けています。

そうした国家で事業を行なうことは、自分の組織も「束縛と征服を基礎にして機能的産業社会を発展させようとする試み」を支援していることにならないだろうか、

と考えます。あなたはどうでしょうか?

今日を変えていこう。愛を込めて。


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