12月22日 Limits of Social Responsibility 社会的責任の限界
おはようございます。 #ドラッカー #365の金言 から人生と経営を深めていきましょう。今日は #12月22日 、テーマは #Limits_of_Social_Responsibility
#よいことを行うにはよい業績をあげなければならない 。
経済的な能力をわきまえずに、負担しきれない社会的責任を果たそうとするならば、直ちに問題が発生する。
ユニオン・カーバイドが、失業を緩和する目的でヴァージニア州ヴィエナに工場を建てたことは、社会的に責任ある行動ではなかった。結果として無責任だった。最初から収支ぎりぎりで、工程が旧式だった。工場は息をするのがやっとだった。このことは、ユニオン・カーバイドが、自らが引き起こす問題を処理できないことを意味していた。事実、同社は環境対策の要求に抵抗せざるをえなくなった。
環境対策の要求は、失業への関心が環境への関心をはるかに上回っていた一九四〇年代末にはなかった。しかし、やがてそのような要求が出ることは予期しておかなければならないことだった。そもそも社会的責任のためとして不経済なことをするのは、責任ある行動ではなかった。たんに情緒的な行動だった。損害を被るだけのことだった。
(『マネジメント-課題・責任・実践』 26 社会的責任の限界 566ページより)
ACTION POINT
#良いことを行うには良い業績をあげなければならないということの意味を説明してください 。
「企業が良い成績を挙げているだけではだめで、“良いこと“もしなければいけない」のである。しかし、「良いことをする」ためには、企業はまず「良い成績をあげ」なければならない。事実「非常に良い成績をあげ」なければならない。企業が経済性の限界を無視して、経済的に支持できない「社会的責任」をとった場合には、企業は必ず間も無く困難に陥ったものである。(『マネジメント-課題・責任・実践』 26 社会的責任の限界 566ページより)
自分の能力ではできない仕事を引き受けるのは無責任な行動である。
社会的責任に対する最も重要な限界は、権限の限界である。権限を要求するものは、誰でもそれによって責任を負うことになる。だが責任を負うものは、誰でもそれによって権限を要求することになる。したがって、「社会的責任」を負うというのは常に、権限を要求することを意味する。(『マネジメント-課題・責任・実践』 26 社会的責任の限界 570ページより)
今の環境問題に対して、A社に社会的責任があるのなら、A社に社会的権限を手渡す、ということである。A社の経営者は責任に伴う権限が正当なものであるかどうくぉ十分に検討する必要がある。さもないと、越権行為となり無責任になる。
つい数ヶ月前まで、SDGs、グリーンエネルギーなど温室効果ガス抑制が持て囃されてきたが、厳冬によりそれらは後退。凍死者どうする?エネルギーどうすんだ?という議論に変わってきたという。ロシアの天然ガス供給がないと凍死するとEU。アメリカも日本も中国も皆エネルギー確保に走っている。
その辺りの事情の一端はやまもといちろう氏のVideoでも語られている。
さて、「企業はCO2排出の責任を取れ」とアナーキーな環境団体から要求を出された場合、企業は常に環境問題についての権限を持っているか、また持つべきであるのかと自問すべき。トヨタがCO2排出について責任を取れ、と迫られた場合、環境問題解決の権限を持っているか、また持つべきかどうかの議論を今一度立ち戻ってすべきではないだろうか。さもないと、越権行為となり無責任になる、というのがドラッカーの考えであり、自分はその考えに賛同する。
今日を変えていこう。愛を込めて。
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